目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

陽向が帰ったあと。

私は、しばらく玄関の前から動けなかった。

静かだった。

さっきまで。

陽向がここにいて。

話して。

怒って。

苦しそうな顔をして。

それでも最後には。

『また来る』

と言ってくれた。

だけど。

あの言葉が頭から離れない。

――紗良はどこにいる?

「……分からないよ」

誰もいない部屋で呟く。

私だって。

知りたい。

どうして私が紗良の身体にいるのか。

紗良はどこへ行ったのか。

そして。

もし紗良が戻ってきたら。

私はどうなるのか。

「……消えたくない」

声にした瞬間。

胸が痛んだ。

最低だ。

そう思った。

陽向は紗良に戻ってきてほしい。

当然だ。

三十四年間、一緒に生きてきた。

家族みたいに大切だった人。

それなのに。

私は。

紗良が戻ってくることを。

心のどこかで怖がっている。

「私……最低だな」

ソファに座る。

テーブルには。

陽向と一緒に選んだマグカップ。

薄いピンクと白。

昨日までは。

見るだけで嬉しかった。

初めてできた。

私と陽向の思い出。

でも今は。

見ているだけで苦しい。

だって。

この家も。

この身体も。

本当は全部。

紗良のものなのだから。

◇◇◇

それから三日。

陽向から連絡はなかった。

『少し考えさせて』

そう言われたのだから。

当然だと思う。

私からも連絡しなかった。

連絡してはいけない気がした。

その間。

私は一ノ瀬紗良のことを調べた。

出演したドラマ。

映画。

インタビュー記事。

過去のSNS。

画面の中の紗良は。

いつも綺麗だった。

堂々としていて。

自信があって。

インタビューでは自分の考えをはっきり言う。

私とは全然違う。

「……本当に、すごい人だったんだ」

昔の投稿まで遡っていく。

仕事。

友人。

食事。

風景。

そして。

ときどき。

ASTER。

陽向本人は写っていない。

でも。

ライブ会場の写真。

CDの写真。

『今日も最高だった』

短い言葉。

きっと。

誰にも気づかれないように。

幼なじみとして。

ずっと陽向を応援してきたのだ。

さらに遡る。

数年前。

一枚の写真で指が止まった。

夜空。

そこに書かれていた。

『近くにいることと、心が近いことって、同じじゃないんだね』

「……」

胸の奥が。

ズキンと痛んだ。

その瞬間。

視界が揺れる。

「っ……」

また。

記憶。

◇◇◇

暗い部屋。

テレビには陽向が映っている。

大勢のファンに囲まれて。

笑っている。

『陽向……』

紗良の声。

スマートフォンを握っている。

メッセージを入力する。

『今日のテレビ見たよ。お疲れさま』

でも。

送らない。

消す。

そして。

別の言葉を打つ。

『今度ご飯行かない?』

それも消す。

画面には。

陽向から届いている過去のメッセージ。

『ごめん今日無理!』

『収録押してる!』

『また連絡する!』

『今度絶対!』

それを見ながら。

紗良が小さく笑う。

『仕方ないよね』

『夢、叶えたんだもんね』

でも。

胸の奥では。

――寂しい。

――会いたい。

――私だけ、ずっと同じ場所にいるみたい。

そんな感情が。

押し寄せてくる。

そして。

最後に。

『こんなこと言ったら、困らせるだけだよね』

記憶が途切れた。

「……紗良さん」

私は胸を押さえる。

また。

知らなかった紗良の気持ち。

陽向は。

知っているのだろうか。

きっと知らない。

紗良は言わなかった。

私と似ている。

大丈夫と言って。

本当は大丈夫じゃない。

相手を困らせたくなくて。

自分の気持ちを飲み込む。

「……何で私なんだろ」

もし。

紗良と私に共通するものがあるとしたら。

それなの?

言いたいことを言えなくて。

自分の気持ちを後回しにして。

一人で寂しくなる。

それが。

私たちを繋いだ?

でも。

そんなこと。

分かるはずがない。

◇◇◇

四日目の夜。

インターホンが鳴った。

心臓が跳ねる。

もしかして。

急いで画面を見る。

そこにいたのは。

陽向だった。

「……」

一瞬。

足が動かなかった。

会いたかった。

ずっと。

でも。

怖い。

何を言われるのか。

私はゆっくり玄関へ向かった。

ドアを開ける。

「……陽向」

「よ」

いつもの。

『よ』

でも。

笑っていない。

「入っていい?」

「うん」

陽向が部屋に入る。

四日ぶり。

たった四日。

なのに。

ずっと会っていなかったような気がした。

「コーヒー……飲む?」

「うん」

いつものように聞く。

いつものように二人分淹れる。

薄いピンクのマグカップ。

白いマグカップ。

テーブルに置く。

向かい合って座る。

でも。

二人とも。

なかなか話せなかった。

先に口を開いたのは。

陽向だった。

「……調べた」

「え?」

「高瀬美月のこと」

心臓が跳ねる。

「事故の記事だけじゃなくて」

「……」

「できる範囲で」

陽向がスマートフォンを置く。

「本当にいた」

「……うん」

「三十四歳」

「うん」

「結婚してて」

「……うん」

「子どもが五人」

胸が締めつけられる。

「……うん」

「写真も」

私は顔を上げた。

「写真?」

「事故の記事の関連で」

陽向が少し迷う。

「家族で写ってるやつがあった」

息が止まった。

「……見たの?」

「うん」

「星も?」

「たぶん」

「一番上の女の子?」

私は頷く。

「……星」

名前を口にしただけで。

会いたくなる。

陽向が私をじっと見る。

「似てた」

「え?」

「美月に」

胸が。

ぎゅっとなる。

「……そう?」

「写真の美月に」

そうだった。

今の私は。

紗良の顔。

陽向が見たのは。

本当の私。

高瀬美月。

「どんな……感じだった?」

自分の写真なのに。

聞いてしまう。

陽向が少し笑った。

「普通のお母さん」

「何それ」

「いや、本当に」

「すっげえ笑ってた」

胸が痛む。

家族写真。

いつ撮ったものだろう。

思い出せない。

「……幸せそうだった?」

聞いた。

陽向が少し黙る。

「うん」

「そっか」

そうだ。

幸せだった。

全部が不幸だったわけじゃない。

子どもたちがいて。

笑った日だって。

楽しかった日だって。

たくさんある。

ただ。

その中で。

私は時々。

どうしようもなく孤独だった。

「だから」

陽向が言う。

「信じる」

私は顔を上げた。

「……え?」

「美月が高瀬美月だってこと」

心臓が止まったような気がした。

「本当に?」

「うん」

陽向は真っ直ぐ私を見る。

「全部理解できたわけじゃない」

「……」

「魂が入れ替わったとか」

「転生とか」

「正直、今でも意味分かんねぇ」

「……私も分からない」

「でも」

陽向が息を吐く。

「お前が紗良じゃないことは」

少し間を置く。

「もう分かった」

胸に。

重いものが落ちた。

認めてもらえた。

ずっと。

私は美月だと言い続けた。

やっと。

信じてもらえた。

なのに。

嬉しいだけじゃない。

陽向にとっては。

紗良がいなくなったと認めることだから。

「……陽向」

「ん?」

「ごめ……」

言いかけて。

止まる。

陽向が少しだけ笑った。

「止めた」

「……うん」

「偉い」

「子ども扱いしないで」

ほんの少し。

空気が和らいだ。

でも。

まだ。

陽向の中に何かある。

それが分かった。

「……他にもあるんでしょ?」

私が聞く。

陽向の笑顔が消える。

「何か言いたいこと」

「……」

「言って」

今度は。

逃げたくなかった。

陽向はしばらく黙った。

そして。

「美月」

「うん」

「紗良の記憶」

「……」

「どのくらいある?」

「本当に少しだけ」

「増えてる?」

「……たぶん」

「どんなの?」

私は。

今日見た記憶を話した。

陽向のテレビを見ていた紗良。

メッセージを打って。

消して。

寂しいと思っていたこと。

話しているうちに。

陽向の顔が。

どんどん苦しそうになる。

「……俺」

小さく呟く。

「そんなこと知らなかった」

「うん」

「紗良、一回も言わなかった」

「言えなかったんだと思う」

「なんで?」

「陽向の邪魔したくなかったから」

「邪魔って……」

陽向が顔を歪める。

「言えばよかったじゃん」

その言葉に。

私は少しだけ笑った。

「言えないんだよ」

「……」

「相手のこと大切だったら」

「余計に」

私は。

自分自身にも言っていた。

「自分が我慢すればいいって思っちゃうから」

陽向が私を見る。

「美月も?」

私は少しだけ迷って。

頷いた。

「……うん」

「前の家で?」

「うん」

陽向は。

それ以上聞かなかった。

そして。

しばらくして。

ぽつりと呟いた。

「似てんのかな」

「え?」

「美月と紗良」

「……」

「全然違うのに」

「似てるとこもある」

私も。

最近そう思い始めていた。

だから。

私なのかもしれない。

でも。

まだ。

答えは分からない。

「もしさ」

陽向が言った。

「紗良の記憶が全部戻ったら」

胸がざわつく。

「美月はどうなる?」

「……分からない」

「紗良も戻ってくんの?」

「分からない」

「美月が消える?」

喉が詰まる。

「……分からない」

陽向が。

拳を握る。

「全部それなんだよな」

「ごめ――」

また止めた。

「……うん」

陽向は。

頭を抱えた。

「俺さ」

「……」

「めちゃくちゃ最低なこと考えてる」

嫌な予感。

「何?」

「紗良が」

声が震える。

「まだどっかにいるんじゃないかって」

「……うん」

「美月の中に」

「……」

「記憶が残ってるなら」

陽向が私を見る。

赤い目。

「そのうち戻ってくるんじゃないかって」

胸が。

ズキンと痛む。

「うん」

「期待してる」

「……」

「美月がいるのに」

陽向は苦しそうに笑う。

「美月が消えたら紗良が戻るんじゃないかって」

息が。

できなくなる。

分かっていた。

そう思って当然だ。

でも。

実際に言葉になると。

苦しい。

「……そっか」

それしか。

言えなかった。

陽向がすぐに首を振る。

「違う」

「え?」

「違うんだよ」

「……」

「美月に消えてほしいって意味じゃない」

「分かってる」

「分かってない」

「分かるよ」

だって。

私だって。

逆なら。

同じことを思う。

「私が陽向でも」

無理に笑う。

「紗良さんに戻ってきてほしいって思うよ」

「美月」

「だから大丈夫」

言った瞬間。

陽向の顔が変わった。

「それ」

「え?」

「また大丈夫って言った」

「あ……」

「大丈夫じゃないだろ」

優しい声。

それだけで。

張っていたものが。

崩れそうになる。

「……大丈夫じゃないよ」

初めて。

素直に言った。

涙が落ちる。

「私だって怖い」

「……」

「消えたくない」

とうとう。

陽向の前で言ってしまった。

「紗良さんには戻ってきてほしい」

「本当にそう思ってる」

「でも」

涙が止まらない。

「私も生きたい」

「……」

「もう死んだのに」

「こんな身体で」

「こんな人生で」

「それでも」

胸を押さえる。

「生きたいって思っちゃう」

陽向は何も言わない。

「子どもたちにも会いたい」

「星が大人になるところも見たい」

「他の子たちも」

「ずっと」

「ずっと見たかった」

声が震える。

「だから」

「私が消えれば全部元通りになるって言われても」

「……」

「怖いよ」

陽向の顔が歪む。

「……ごめん」

「陽向が謝らないで」

「でも」

「陽向の気持ちも間違ってないよ」

二人とも。

間違っていない。

だから。

苦しい。

紗良に戻ってきてほしい陽向。

生きたい私。

どちらかを選べば。

どちらかが傷つく。

そのときだった。

突然。

頭の奥に。

激しい痛みが走った。

「っ……!」

「美月!?」

視界が揺れる。

また。

記憶。

でも。

今までより。

鮮明だった。

◇◇◇

雨。

車。

紗良。

事故の日。

ハンドルを握っている。

スマートフォンから。

ASTERの曲が流れている。

陽向の声。

紗良が。

泣いている。

『……もう』

『やめよう』

何を?

『陽向のこと』

胸が。

壊れそうに痛い。

『ずっと好きだった』

『でも』

『もう』

『終わりにしよう』

信号。

雨。

涙で。

前が滲む。

その瞬間。

光。

クラクション。

そして。

最後に。

紗良が叫んだ。

『陽向――!』

◇◇◇

「……っ!」

現実に戻る。

荒い息。

「美月!」

陽向が肩を掴む。

「何見た!?」

「……事故」

「え?」

「紗良さんの」

陽向の顔が強張る。

「何してた?」

「車……運転してた」

「……」

「ASTERの曲聴いてた」

「……」

「泣いてた」

陽向の手が。

震える。

「何で?」

私は。

言えなかった。

でも。

言わなければ。

「……陽向のこと」

「俺?」

「諦めようとしてた」

陽向が。

固まった。

「ずっと好きだったって」

「……」

「でも」

息を整える。

「もう終わりにしようって」

「……嘘だろ」

陽向が。

小さく呟く。

「そんなの」

「……」

「俺」

陽向の目から。

涙が落ちた。

初めて。

静かに。

「何も知らなかった」

「陽向……」

「ずっと近くにいたのに」

「……」

「何にも」

陽向が。

両手で顔を覆う。

そして。

その直後。

感情が。

一気に溢れたのだと思う。

「じゃあ何で!」

大きな声。

私はびくっとする。

「何で紗良がいなくなって」

「……」

「お前がいるんだよ!」

息が止まる。

陽向自身も。

言った瞬間。

しまったという顔をした。

でも。

もう止まらなかった。

「何で」

「なんでだよ……」

声が。

どんどん弱くなる。

「紗良……」

そして。

泣きながら。

陽向が言った。

「紗良を……」

胸が。

嫌な音を立てる。

「返してくれよ……」

時間が。

止まった。

陽向の声だけが。

耳の奥に残る。

――紗良を返してくれ。

分かっていた。

陽向が悪いわけじゃない。

悲しいだけ。

大切な人を失っただけ。

それでも。

胸が。

どうしようもなく痛かった。

私は。

何とか笑おうとした。

「……うん」

声が震える。

「そうだよね」

「美月、違――」

「ごめん」

今度は。

止められなかった。

「私も」

涙を拭う。

「返せるなら」

「返したいよ」

陽向の顔が青ざめる。

「待って」

「でも」

私は笑った。

笑えていたかは。

分からない。

「返し方が」

「分からないんだ」

陽向が。

何も言えなくなる。

私は。

テーブルの上を見る。

薄いピンクのマグカップ。

白いマグカップ。

私と陽向の。

最初の思い出。

それさえ。

急に。

ここにあってはいけないものに見えた。

この場所は。

紗良の場所。

陽向の隣も。

もしかしたら。

ずっと。

紗良の場所だった。

私は。

一体。

どこにいればいいんだろう。

その答えを。

私は。

とうとう見つけられなかった。