陽向が帰ったあと。
私は、しばらく玄関の前から動けなかった。
静かだった。
さっきまで。
陽向がここにいて。
話して。
怒って。
苦しそうな顔をして。
それでも最後には。
『また来る』
と言ってくれた。
だけど。
あの言葉が頭から離れない。
――紗良はどこにいる?
「……分からないよ」
誰もいない部屋で呟く。
私だって。
知りたい。
どうして私が紗良の身体にいるのか。
紗良はどこへ行ったのか。
そして。
もし紗良が戻ってきたら。
私はどうなるのか。
「……消えたくない」
声にした瞬間。
胸が痛んだ。
最低だ。
そう思った。
陽向は紗良に戻ってきてほしい。
当然だ。
三十四年間、一緒に生きてきた。
家族みたいに大切だった人。
それなのに。
私は。
紗良が戻ってくることを。
心のどこかで怖がっている。
「私……最低だな」
ソファに座る。
テーブルには。
陽向と一緒に選んだマグカップ。
薄いピンクと白。
昨日までは。
見るだけで嬉しかった。
初めてできた。
私と陽向の思い出。
でも今は。
見ているだけで苦しい。
だって。
この家も。
この身体も。
本当は全部。
紗良のものなのだから。
◇◇◇
それから三日。
陽向から連絡はなかった。
『少し考えさせて』
そう言われたのだから。
当然だと思う。
私からも連絡しなかった。
連絡してはいけない気がした。
その間。
私は一ノ瀬紗良のことを調べた。
出演したドラマ。
映画。
インタビュー記事。
過去のSNS。
画面の中の紗良は。
いつも綺麗だった。
堂々としていて。
自信があって。
インタビューでは自分の考えをはっきり言う。
私とは全然違う。
「……本当に、すごい人だったんだ」
昔の投稿まで遡っていく。
仕事。
友人。
食事。
風景。
そして。
ときどき。
ASTER。
陽向本人は写っていない。
でも。
ライブ会場の写真。
CDの写真。
『今日も最高だった』
短い言葉。
きっと。
誰にも気づかれないように。
幼なじみとして。
ずっと陽向を応援してきたのだ。
さらに遡る。
数年前。
一枚の写真で指が止まった。
夜空。
そこに書かれていた。
『近くにいることと、心が近いことって、同じじゃないんだね』
「……」
胸の奥が。
ズキンと痛んだ。
その瞬間。
視界が揺れる。
「っ……」
また。
記憶。
◇◇◇
暗い部屋。
テレビには陽向が映っている。
大勢のファンに囲まれて。
笑っている。
『陽向……』
紗良の声。
スマートフォンを握っている。
メッセージを入力する。
『今日のテレビ見たよ。お疲れさま』
でも。
送らない。
消す。
そして。
別の言葉を打つ。
『今度ご飯行かない?』
それも消す。
画面には。
陽向から届いている過去のメッセージ。
『ごめん今日無理!』
『収録押してる!』
『また連絡する!』
『今度絶対!』
それを見ながら。
紗良が小さく笑う。
『仕方ないよね』
『夢、叶えたんだもんね』
でも。
胸の奥では。
――寂しい。
――会いたい。
――私だけ、ずっと同じ場所にいるみたい。
そんな感情が。
押し寄せてくる。
そして。
最後に。
『こんなこと言ったら、困らせるだけだよね』
記憶が途切れた。
「……紗良さん」
私は胸を押さえる。
また。
知らなかった紗良の気持ち。
陽向は。
知っているのだろうか。
きっと知らない。
紗良は言わなかった。
私と似ている。
大丈夫と言って。
本当は大丈夫じゃない。
相手を困らせたくなくて。
自分の気持ちを飲み込む。
「……何で私なんだろ」
もし。
紗良と私に共通するものがあるとしたら。
それなの?
言いたいことを言えなくて。
自分の気持ちを後回しにして。
一人で寂しくなる。
それが。
私たちを繋いだ?
でも。
そんなこと。
分かるはずがない。
◇◇◇
四日目の夜。
インターホンが鳴った。
心臓が跳ねる。
もしかして。
急いで画面を見る。
そこにいたのは。
陽向だった。
「……」
一瞬。
足が動かなかった。
会いたかった。
ずっと。
でも。
怖い。
何を言われるのか。
私はゆっくり玄関へ向かった。
ドアを開ける。
「……陽向」
「よ」
いつもの。
『よ』
でも。
笑っていない。
「入っていい?」
「うん」
陽向が部屋に入る。
四日ぶり。
たった四日。
なのに。
ずっと会っていなかったような気がした。
「コーヒー……飲む?」
「うん」
いつものように聞く。
いつものように二人分淹れる。
薄いピンクのマグカップ。
白いマグカップ。
テーブルに置く。
向かい合って座る。
でも。
二人とも。
なかなか話せなかった。
先に口を開いたのは。
陽向だった。
「……調べた」
「え?」
「高瀬美月のこと」
心臓が跳ねる。
「事故の記事だけじゃなくて」
「……」
「できる範囲で」
陽向がスマートフォンを置く。
「本当にいた」
「……うん」
「三十四歳」
「うん」
「結婚してて」
「……うん」
「子どもが五人」
胸が締めつけられる。
「……うん」
「写真も」
私は顔を上げた。
「写真?」
「事故の記事の関連で」
陽向が少し迷う。
「家族で写ってるやつがあった」
息が止まった。
「……見たの?」
「うん」
「星も?」
「たぶん」
「一番上の女の子?」
私は頷く。
「……星」
名前を口にしただけで。
会いたくなる。
陽向が私をじっと見る。
「似てた」
「え?」
「美月に」
胸が。
ぎゅっとなる。
「……そう?」
「写真の美月に」
そうだった。
今の私は。
紗良の顔。
陽向が見たのは。
本当の私。
高瀬美月。
「どんな……感じだった?」
自分の写真なのに。
聞いてしまう。
陽向が少し笑った。
「普通のお母さん」
「何それ」
「いや、本当に」
「すっげえ笑ってた」
胸が痛む。
家族写真。
いつ撮ったものだろう。
思い出せない。
「……幸せそうだった?」
聞いた。
陽向が少し黙る。
「うん」
「そっか」
そうだ。
幸せだった。
全部が不幸だったわけじゃない。
子どもたちがいて。
笑った日だって。
楽しかった日だって。
たくさんある。
ただ。
その中で。
私は時々。
どうしようもなく孤独だった。
「だから」
陽向が言う。
「信じる」
私は顔を上げた。
「……え?」
「美月が高瀬美月だってこと」
心臓が止まったような気がした。
「本当に?」
「うん」
陽向は真っ直ぐ私を見る。
「全部理解できたわけじゃない」
「……」
「魂が入れ替わったとか」
「転生とか」
「正直、今でも意味分かんねぇ」
「……私も分からない」
「でも」
陽向が息を吐く。
「お前が紗良じゃないことは」
少し間を置く。
「もう分かった」
胸に。
重いものが落ちた。
認めてもらえた。
ずっと。
私は美月だと言い続けた。
やっと。
信じてもらえた。
なのに。
嬉しいだけじゃない。
陽向にとっては。
紗良がいなくなったと認めることだから。
「……陽向」
「ん?」
「ごめ……」
言いかけて。
止まる。
陽向が少しだけ笑った。
「止めた」
「……うん」
「偉い」
「子ども扱いしないで」
ほんの少し。
空気が和らいだ。
でも。
まだ。
陽向の中に何かある。
それが分かった。
「……他にもあるんでしょ?」
私が聞く。
陽向の笑顔が消える。
「何か言いたいこと」
「……」
「言って」
今度は。
逃げたくなかった。
陽向はしばらく黙った。
そして。
「美月」
「うん」
「紗良の記憶」
「……」
「どのくらいある?」
「本当に少しだけ」
「増えてる?」
「……たぶん」
「どんなの?」
私は。
今日見た記憶を話した。
陽向のテレビを見ていた紗良。
メッセージを打って。
消して。
寂しいと思っていたこと。
話しているうちに。
陽向の顔が。
どんどん苦しそうになる。
「……俺」
小さく呟く。
「そんなこと知らなかった」
「うん」
「紗良、一回も言わなかった」
「言えなかったんだと思う」
「なんで?」
「陽向の邪魔したくなかったから」
「邪魔って……」
陽向が顔を歪める。
「言えばよかったじゃん」
その言葉に。
私は少しだけ笑った。
「言えないんだよ」
「……」
「相手のこと大切だったら」
「余計に」
私は。
自分自身にも言っていた。
「自分が我慢すればいいって思っちゃうから」
陽向が私を見る。
「美月も?」
私は少しだけ迷って。
頷いた。
「……うん」
「前の家で?」
「うん」
陽向は。
それ以上聞かなかった。
そして。
しばらくして。
ぽつりと呟いた。
「似てんのかな」
「え?」
「美月と紗良」
「……」
「全然違うのに」
「似てるとこもある」
私も。
最近そう思い始めていた。
だから。
私なのかもしれない。
でも。
まだ。
答えは分からない。
「もしさ」
陽向が言った。
「紗良の記憶が全部戻ったら」
胸がざわつく。
「美月はどうなる?」
「……分からない」
「紗良も戻ってくんの?」
「分からない」
「美月が消える?」
喉が詰まる。
「……分からない」
陽向が。
拳を握る。
「全部それなんだよな」
「ごめ――」
また止めた。
「……うん」
陽向は。
頭を抱えた。
「俺さ」
「……」
「めちゃくちゃ最低なこと考えてる」
嫌な予感。
「何?」
「紗良が」
声が震える。
「まだどっかにいるんじゃないかって」
「……うん」
「美月の中に」
「……」
「記憶が残ってるなら」
陽向が私を見る。
赤い目。
「そのうち戻ってくるんじゃないかって」
胸が。
ズキンと痛む。
「うん」
「期待してる」
「……」
「美月がいるのに」
陽向は苦しそうに笑う。
「美月が消えたら紗良が戻るんじゃないかって」
息が。
できなくなる。
分かっていた。
そう思って当然だ。
でも。
実際に言葉になると。
苦しい。
「……そっか」
それしか。
言えなかった。
陽向がすぐに首を振る。
「違う」
「え?」
「違うんだよ」
「……」
「美月に消えてほしいって意味じゃない」
「分かってる」
「分かってない」
「分かるよ」
だって。
私だって。
逆なら。
同じことを思う。
「私が陽向でも」
無理に笑う。
「紗良さんに戻ってきてほしいって思うよ」
「美月」
「だから大丈夫」
言った瞬間。
陽向の顔が変わった。
「それ」
「え?」
「また大丈夫って言った」
「あ……」
「大丈夫じゃないだろ」
優しい声。
それだけで。
張っていたものが。
崩れそうになる。
「……大丈夫じゃないよ」
初めて。
素直に言った。
涙が落ちる。
「私だって怖い」
「……」
「消えたくない」
とうとう。
陽向の前で言ってしまった。
「紗良さんには戻ってきてほしい」
「本当にそう思ってる」
「でも」
涙が止まらない。
「私も生きたい」
「……」
「もう死んだのに」
「こんな身体で」
「こんな人生で」
「それでも」
胸を押さえる。
「生きたいって思っちゃう」
陽向は何も言わない。
「子どもたちにも会いたい」
「星が大人になるところも見たい」
「他の子たちも」
「ずっと」
「ずっと見たかった」
声が震える。
「だから」
「私が消えれば全部元通りになるって言われても」
「……」
「怖いよ」
陽向の顔が歪む。
「……ごめん」
「陽向が謝らないで」
「でも」
「陽向の気持ちも間違ってないよ」
二人とも。
間違っていない。
だから。
苦しい。
紗良に戻ってきてほしい陽向。
生きたい私。
どちらかを選べば。
どちらかが傷つく。
そのときだった。
突然。
頭の奥に。
激しい痛みが走った。
「っ……!」
「美月!?」
視界が揺れる。
また。
記憶。
でも。
今までより。
鮮明だった。
◇◇◇
雨。
車。
紗良。
事故の日。
ハンドルを握っている。
スマートフォンから。
ASTERの曲が流れている。
陽向の声。
紗良が。
泣いている。
『……もう』
『やめよう』
何を?
『陽向のこと』
胸が。
壊れそうに痛い。
『ずっと好きだった』
『でも』
『もう』
『終わりにしよう』
信号。
雨。
涙で。
前が滲む。
その瞬間。
光。
クラクション。
そして。
最後に。
紗良が叫んだ。
『陽向――!』
◇◇◇
「……っ!」
現実に戻る。
荒い息。
「美月!」
陽向が肩を掴む。
「何見た!?」
「……事故」
「え?」
「紗良さんの」
陽向の顔が強張る。
「何してた?」
「車……運転してた」
「……」
「ASTERの曲聴いてた」
「……」
「泣いてた」
陽向の手が。
震える。
「何で?」
私は。
言えなかった。
でも。
言わなければ。
「……陽向のこと」
「俺?」
「諦めようとしてた」
陽向が。
固まった。
「ずっと好きだったって」
「……」
「でも」
息を整える。
「もう終わりにしようって」
「……嘘だろ」
陽向が。
小さく呟く。
「そんなの」
「……」
「俺」
陽向の目から。
涙が落ちた。
初めて。
静かに。
「何も知らなかった」
「陽向……」
「ずっと近くにいたのに」
「……」
「何にも」
陽向が。
両手で顔を覆う。
そして。
その直後。
感情が。
一気に溢れたのだと思う。
「じゃあ何で!」
大きな声。
私はびくっとする。
「何で紗良がいなくなって」
「……」
「お前がいるんだよ!」
息が止まる。
陽向自身も。
言った瞬間。
しまったという顔をした。
でも。
もう止まらなかった。
「何で」
「なんでだよ……」
声が。
どんどん弱くなる。
「紗良……」
そして。
泣きながら。
陽向が言った。
「紗良を……」
胸が。
嫌な音を立てる。
「返してくれよ……」
時間が。
止まった。
陽向の声だけが。
耳の奥に残る。
――紗良を返してくれ。
分かっていた。
陽向が悪いわけじゃない。
悲しいだけ。
大切な人を失っただけ。
それでも。
胸が。
どうしようもなく痛かった。
私は。
何とか笑おうとした。
「……うん」
声が震える。
「そうだよね」
「美月、違――」
「ごめん」
今度は。
止められなかった。
「私も」
涙を拭う。
「返せるなら」
「返したいよ」
陽向の顔が青ざめる。
「待って」
「でも」
私は笑った。
笑えていたかは。
分からない。
「返し方が」
「分からないんだ」
陽向が。
何も言えなくなる。
私は。
テーブルの上を見る。
薄いピンクのマグカップ。
白いマグカップ。
私と陽向の。
最初の思い出。
それさえ。
急に。
ここにあってはいけないものに見えた。
この場所は。
紗良の場所。
陽向の隣も。
もしかしたら。
ずっと。
紗良の場所だった。
私は。
一体。
どこにいればいいんだろう。
その答えを。
私は。
とうとう見つけられなかった。
私は、しばらく玄関の前から動けなかった。
静かだった。
さっきまで。
陽向がここにいて。
話して。
怒って。
苦しそうな顔をして。
それでも最後には。
『また来る』
と言ってくれた。
だけど。
あの言葉が頭から離れない。
――紗良はどこにいる?
「……分からないよ」
誰もいない部屋で呟く。
私だって。
知りたい。
どうして私が紗良の身体にいるのか。
紗良はどこへ行ったのか。
そして。
もし紗良が戻ってきたら。
私はどうなるのか。
「……消えたくない」
声にした瞬間。
胸が痛んだ。
最低だ。
そう思った。
陽向は紗良に戻ってきてほしい。
当然だ。
三十四年間、一緒に生きてきた。
家族みたいに大切だった人。
それなのに。
私は。
紗良が戻ってくることを。
心のどこかで怖がっている。
「私……最低だな」
ソファに座る。
テーブルには。
陽向と一緒に選んだマグカップ。
薄いピンクと白。
昨日までは。
見るだけで嬉しかった。
初めてできた。
私と陽向の思い出。
でも今は。
見ているだけで苦しい。
だって。
この家も。
この身体も。
本当は全部。
紗良のものなのだから。
◇◇◇
それから三日。
陽向から連絡はなかった。
『少し考えさせて』
そう言われたのだから。
当然だと思う。
私からも連絡しなかった。
連絡してはいけない気がした。
その間。
私は一ノ瀬紗良のことを調べた。
出演したドラマ。
映画。
インタビュー記事。
過去のSNS。
画面の中の紗良は。
いつも綺麗だった。
堂々としていて。
自信があって。
インタビューでは自分の考えをはっきり言う。
私とは全然違う。
「……本当に、すごい人だったんだ」
昔の投稿まで遡っていく。
仕事。
友人。
食事。
風景。
そして。
ときどき。
ASTER。
陽向本人は写っていない。
でも。
ライブ会場の写真。
CDの写真。
『今日も最高だった』
短い言葉。
きっと。
誰にも気づかれないように。
幼なじみとして。
ずっと陽向を応援してきたのだ。
さらに遡る。
数年前。
一枚の写真で指が止まった。
夜空。
そこに書かれていた。
『近くにいることと、心が近いことって、同じじゃないんだね』
「……」
胸の奥が。
ズキンと痛んだ。
その瞬間。
視界が揺れる。
「っ……」
また。
記憶。
◇◇◇
暗い部屋。
テレビには陽向が映っている。
大勢のファンに囲まれて。
笑っている。
『陽向……』
紗良の声。
スマートフォンを握っている。
メッセージを入力する。
『今日のテレビ見たよ。お疲れさま』
でも。
送らない。
消す。
そして。
別の言葉を打つ。
『今度ご飯行かない?』
それも消す。
画面には。
陽向から届いている過去のメッセージ。
『ごめん今日無理!』
『収録押してる!』
『また連絡する!』
『今度絶対!』
それを見ながら。
紗良が小さく笑う。
『仕方ないよね』
『夢、叶えたんだもんね』
でも。
胸の奥では。
――寂しい。
――会いたい。
――私だけ、ずっと同じ場所にいるみたい。
そんな感情が。
押し寄せてくる。
そして。
最後に。
『こんなこと言ったら、困らせるだけだよね』
記憶が途切れた。
「……紗良さん」
私は胸を押さえる。
また。
知らなかった紗良の気持ち。
陽向は。
知っているのだろうか。
きっと知らない。
紗良は言わなかった。
私と似ている。
大丈夫と言って。
本当は大丈夫じゃない。
相手を困らせたくなくて。
自分の気持ちを飲み込む。
「……何で私なんだろ」
もし。
紗良と私に共通するものがあるとしたら。
それなの?
言いたいことを言えなくて。
自分の気持ちを後回しにして。
一人で寂しくなる。
それが。
私たちを繋いだ?
でも。
そんなこと。
分かるはずがない。
◇◇◇
四日目の夜。
インターホンが鳴った。
心臓が跳ねる。
もしかして。
急いで画面を見る。
そこにいたのは。
陽向だった。
「……」
一瞬。
足が動かなかった。
会いたかった。
ずっと。
でも。
怖い。
何を言われるのか。
私はゆっくり玄関へ向かった。
ドアを開ける。
「……陽向」
「よ」
いつもの。
『よ』
でも。
笑っていない。
「入っていい?」
「うん」
陽向が部屋に入る。
四日ぶり。
たった四日。
なのに。
ずっと会っていなかったような気がした。
「コーヒー……飲む?」
「うん」
いつものように聞く。
いつものように二人分淹れる。
薄いピンクのマグカップ。
白いマグカップ。
テーブルに置く。
向かい合って座る。
でも。
二人とも。
なかなか話せなかった。
先に口を開いたのは。
陽向だった。
「……調べた」
「え?」
「高瀬美月のこと」
心臓が跳ねる。
「事故の記事だけじゃなくて」
「……」
「できる範囲で」
陽向がスマートフォンを置く。
「本当にいた」
「……うん」
「三十四歳」
「うん」
「結婚してて」
「……うん」
「子どもが五人」
胸が締めつけられる。
「……うん」
「写真も」
私は顔を上げた。
「写真?」
「事故の記事の関連で」
陽向が少し迷う。
「家族で写ってるやつがあった」
息が止まった。
「……見たの?」
「うん」
「星も?」
「たぶん」
「一番上の女の子?」
私は頷く。
「……星」
名前を口にしただけで。
会いたくなる。
陽向が私をじっと見る。
「似てた」
「え?」
「美月に」
胸が。
ぎゅっとなる。
「……そう?」
「写真の美月に」
そうだった。
今の私は。
紗良の顔。
陽向が見たのは。
本当の私。
高瀬美月。
「どんな……感じだった?」
自分の写真なのに。
聞いてしまう。
陽向が少し笑った。
「普通のお母さん」
「何それ」
「いや、本当に」
「すっげえ笑ってた」
胸が痛む。
家族写真。
いつ撮ったものだろう。
思い出せない。
「……幸せそうだった?」
聞いた。
陽向が少し黙る。
「うん」
「そっか」
そうだ。
幸せだった。
全部が不幸だったわけじゃない。
子どもたちがいて。
笑った日だって。
楽しかった日だって。
たくさんある。
ただ。
その中で。
私は時々。
どうしようもなく孤独だった。
「だから」
陽向が言う。
「信じる」
私は顔を上げた。
「……え?」
「美月が高瀬美月だってこと」
心臓が止まったような気がした。
「本当に?」
「うん」
陽向は真っ直ぐ私を見る。
「全部理解できたわけじゃない」
「……」
「魂が入れ替わったとか」
「転生とか」
「正直、今でも意味分かんねぇ」
「……私も分からない」
「でも」
陽向が息を吐く。
「お前が紗良じゃないことは」
少し間を置く。
「もう分かった」
胸に。
重いものが落ちた。
認めてもらえた。
ずっと。
私は美月だと言い続けた。
やっと。
信じてもらえた。
なのに。
嬉しいだけじゃない。
陽向にとっては。
紗良がいなくなったと認めることだから。
「……陽向」
「ん?」
「ごめ……」
言いかけて。
止まる。
陽向が少しだけ笑った。
「止めた」
「……うん」
「偉い」
「子ども扱いしないで」
ほんの少し。
空気が和らいだ。
でも。
まだ。
陽向の中に何かある。
それが分かった。
「……他にもあるんでしょ?」
私が聞く。
陽向の笑顔が消える。
「何か言いたいこと」
「……」
「言って」
今度は。
逃げたくなかった。
陽向はしばらく黙った。
そして。
「美月」
「うん」
「紗良の記憶」
「……」
「どのくらいある?」
「本当に少しだけ」
「増えてる?」
「……たぶん」
「どんなの?」
私は。
今日見た記憶を話した。
陽向のテレビを見ていた紗良。
メッセージを打って。
消して。
寂しいと思っていたこと。
話しているうちに。
陽向の顔が。
どんどん苦しそうになる。
「……俺」
小さく呟く。
「そんなこと知らなかった」
「うん」
「紗良、一回も言わなかった」
「言えなかったんだと思う」
「なんで?」
「陽向の邪魔したくなかったから」
「邪魔って……」
陽向が顔を歪める。
「言えばよかったじゃん」
その言葉に。
私は少しだけ笑った。
「言えないんだよ」
「……」
「相手のこと大切だったら」
「余計に」
私は。
自分自身にも言っていた。
「自分が我慢すればいいって思っちゃうから」
陽向が私を見る。
「美月も?」
私は少しだけ迷って。
頷いた。
「……うん」
「前の家で?」
「うん」
陽向は。
それ以上聞かなかった。
そして。
しばらくして。
ぽつりと呟いた。
「似てんのかな」
「え?」
「美月と紗良」
「……」
「全然違うのに」
「似てるとこもある」
私も。
最近そう思い始めていた。
だから。
私なのかもしれない。
でも。
まだ。
答えは分からない。
「もしさ」
陽向が言った。
「紗良の記憶が全部戻ったら」
胸がざわつく。
「美月はどうなる?」
「……分からない」
「紗良も戻ってくんの?」
「分からない」
「美月が消える?」
喉が詰まる。
「……分からない」
陽向が。
拳を握る。
「全部それなんだよな」
「ごめ――」
また止めた。
「……うん」
陽向は。
頭を抱えた。
「俺さ」
「……」
「めちゃくちゃ最低なこと考えてる」
嫌な予感。
「何?」
「紗良が」
声が震える。
「まだどっかにいるんじゃないかって」
「……うん」
「美月の中に」
「……」
「記憶が残ってるなら」
陽向が私を見る。
赤い目。
「そのうち戻ってくるんじゃないかって」
胸が。
ズキンと痛む。
「うん」
「期待してる」
「……」
「美月がいるのに」
陽向は苦しそうに笑う。
「美月が消えたら紗良が戻るんじゃないかって」
息が。
できなくなる。
分かっていた。
そう思って当然だ。
でも。
実際に言葉になると。
苦しい。
「……そっか」
それしか。
言えなかった。
陽向がすぐに首を振る。
「違う」
「え?」
「違うんだよ」
「……」
「美月に消えてほしいって意味じゃない」
「分かってる」
「分かってない」
「分かるよ」
だって。
私だって。
逆なら。
同じことを思う。
「私が陽向でも」
無理に笑う。
「紗良さんに戻ってきてほしいって思うよ」
「美月」
「だから大丈夫」
言った瞬間。
陽向の顔が変わった。
「それ」
「え?」
「また大丈夫って言った」
「あ……」
「大丈夫じゃないだろ」
優しい声。
それだけで。
張っていたものが。
崩れそうになる。
「……大丈夫じゃないよ」
初めて。
素直に言った。
涙が落ちる。
「私だって怖い」
「……」
「消えたくない」
とうとう。
陽向の前で言ってしまった。
「紗良さんには戻ってきてほしい」
「本当にそう思ってる」
「でも」
涙が止まらない。
「私も生きたい」
「……」
「もう死んだのに」
「こんな身体で」
「こんな人生で」
「それでも」
胸を押さえる。
「生きたいって思っちゃう」
陽向は何も言わない。
「子どもたちにも会いたい」
「星が大人になるところも見たい」
「他の子たちも」
「ずっと」
「ずっと見たかった」
声が震える。
「だから」
「私が消えれば全部元通りになるって言われても」
「……」
「怖いよ」
陽向の顔が歪む。
「……ごめん」
「陽向が謝らないで」
「でも」
「陽向の気持ちも間違ってないよ」
二人とも。
間違っていない。
だから。
苦しい。
紗良に戻ってきてほしい陽向。
生きたい私。
どちらかを選べば。
どちらかが傷つく。
そのときだった。
突然。
頭の奥に。
激しい痛みが走った。
「っ……!」
「美月!?」
視界が揺れる。
また。
記憶。
でも。
今までより。
鮮明だった。
◇◇◇
雨。
車。
紗良。
事故の日。
ハンドルを握っている。
スマートフォンから。
ASTERの曲が流れている。
陽向の声。
紗良が。
泣いている。
『……もう』
『やめよう』
何を?
『陽向のこと』
胸が。
壊れそうに痛い。
『ずっと好きだった』
『でも』
『もう』
『終わりにしよう』
信号。
雨。
涙で。
前が滲む。
その瞬間。
光。
クラクション。
そして。
最後に。
紗良が叫んだ。
『陽向――!』
◇◇◇
「……っ!」
現実に戻る。
荒い息。
「美月!」
陽向が肩を掴む。
「何見た!?」
「……事故」
「え?」
「紗良さんの」
陽向の顔が強張る。
「何してた?」
「車……運転してた」
「……」
「ASTERの曲聴いてた」
「……」
「泣いてた」
陽向の手が。
震える。
「何で?」
私は。
言えなかった。
でも。
言わなければ。
「……陽向のこと」
「俺?」
「諦めようとしてた」
陽向が。
固まった。
「ずっと好きだったって」
「……」
「でも」
息を整える。
「もう終わりにしようって」
「……嘘だろ」
陽向が。
小さく呟く。
「そんなの」
「……」
「俺」
陽向の目から。
涙が落ちた。
初めて。
静かに。
「何も知らなかった」
「陽向……」
「ずっと近くにいたのに」
「……」
「何にも」
陽向が。
両手で顔を覆う。
そして。
その直後。
感情が。
一気に溢れたのだと思う。
「じゃあ何で!」
大きな声。
私はびくっとする。
「何で紗良がいなくなって」
「……」
「お前がいるんだよ!」
息が止まる。
陽向自身も。
言った瞬間。
しまったという顔をした。
でも。
もう止まらなかった。
「何で」
「なんでだよ……」
声が。
どんどん弱くなる。
「紗良……」
そして。
泣きながら。
陽向が言った。
「紗良を……」
胸が。
嫌な音を立てる。
「返してくれよ……」
時間が。
止まった。
陽向の声だけが。
耳の奥に残る。
――紗良を返してくれ。
分かっていた。
陽向が悪いわけじゃない。
悲しいだけ。
大切な人を失っただけ。
それでも。
胸が。
どうしようもなく痛かった。
私は。
何とか笑おうとした。
「……うん」
声が震える。
「そうだよね」
「美月、違――」
「ごめん」
今度は。
止められなかった。
「私も」
涙を拭う。
「返せるなら」
「返したいよ」
陽向の顔が青ざめる。
「待って」
「でも」
私は笑った。
笑えていたかは。
分からない。
「返し方が」
「分からないんだ」
陽向が。
何も言えなくなる。
私は。
テーブルの上を見る。
薄いピンクのマグカップ。
白いマグカップ。
私と陽向の。
最初の思い出。
それさえ。
急に。
ここにあってはいけないものに見えた。
この場所は。
紗良の場所。
陽向の隣も。
もしかしたら。
ずっと。
紗良の場所だった。
私は。
一体。
どこにいればいいんだろう。
その答えを。
私は。
とうとう見つけられなかった。



