陽向の様子が少し変わった。
そう感じたのは、その翌日だった。
いつもなら。
家に来ればすぐに、
「腹減った」
とか。
「美月、これ見て」
とか。
何かしら話しかけてくるのに。
その日は違った。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
陽向は静かに部屋へ入ってきた。
帽子を脱いで。
いつものようにソファに座る。
でも。
なんとなく。
空気が重い。
「……陽向?」
「ん?」
「何かあった?」
「いや」
短い。
いつもなら。
「何その顔、俺のこと心配してんの?」
くらい言いそうなのに。
今日は言わない。
「仕事で疲れた?」
「まあ、それもある」
それも。
ということは。
別に何かある?
私は冷蔵庫を開ける。
「コーヒー飲む?」
「うん」
「ブラック?」
「お願い」
二人分のコーヒーを淹れる。
この前、一緒に買ったばかりの新しいマグカップ。
陽向のものは。
結局、薄いピンク色になった。
『俺、やっぱピンクじゃん!』
と言いながら。
本人も気に入っていた。
私のカップは白。
並べると。
なんとなくペアみたいで。
少し恥ずかしかった。
「はい」
「ありがと」
マグカップを陽向の前へ置く。
いつもなら。
「やっぱこれいいな」
とか。
何か言うのに。
今日は。
黙ってコーヒーを飲んでいる。
「……本当にどうしたの?」
耐えられなくなって聞いた。
陽向がカップを置く。
「美月」
「何?」
「ちょっと聞いていい?」
嫌な予感がした。
「……うん」
陽向は。
私の顔を見たまま。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「俺と紗良が、高校卒業した日に何したか覚えてる?」
「……え?」
突然の質問。
「卒業した日?」
「うん」
「分からない」
正直に答える。
「記憶、出てこない?」
「今は……何も」
「そっか」
陽向の目が。
少しだけ細くなる。
「じゃあ」
また聞かれる。
「紗良が初めて女優のオーディション受けた日」
「……分からない」
「俺が初めて紗良ん家泊まった日」
「知らない」
「紗良の親父さんに俺がめちゃくちゃ怒られた理由」
「……知らないよ」
だんだん。
怖くなる。
「陽向」
「もう一個」
私の言葉を遮る。
「俺と紗良しか知らない話」
「……」
陽向の声が。
いつもより低い。
「聞いてもいい?」
「……うん」
陽向が。
ほんの少しだけ俯いた。
「俺がデビュー決まった日の夜」
胸の奥がざわつく。
「紗良に何言ったか覚えてる?」
分からない。
でも。
何か。
頭の奥に引っかかる。
「……待って」
目を閉じる。
思い出そうとする。
でも。
何も出てこない。
「分からない」
そう答えた瞬間。
陽向の表情が変わった。
悲しそうな。
それでいて。
どこか納得したような顔。
「……そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
陽向はそう言った。
でも。
声が冷たい。
「陽向?」
何?
怖い。
何を確かめてるの?
「なんで急にそんなこと聞くの?」
陽向は。
しばらく黙っていた。
そして。
「昨日から考えてた」
「何を?」
「お前のこと」
お前。
いつもなら。
美月って呼ぶのに。
その呼び方だけで。
胸が苦しくなった。
「……私?」
「うん」
陽向が。
真っ直ぐ私を見る。
「最初は事故のせいだと思ってた」
「……」
「記憶なくして」
「性格も変わって」
「だから、紗良じゃないって言い張ってるだけなんだって」
言葉が。
喉に詰まる。
「でも」
陽向は続けた。
「違うんだよ」
「……何が?」
「何もかも」
心臓が。
強く鳴る。
「紗良はブラックコーヒー飲まない」
「……うん」
「ラーメンであんなテンション上がらない」
「……」
「俺のテレビ見て爆笑もしない」
「……」
「物壊したくらいで、あんな怯え方もしない」
私は。
何も言えなかった。
「紗良はさ」
陽向が少し笑う。
でも。
全然楽しそうじゃない。
「俺に遠慮なんかしなかった」
「……」
「勝手に冷蔵庫開けるし」
「俺が寝てたら普通に起こすし」
「言いたいことあったら、ちゃんと言うし」
陽向の声が。
少し震える。
「俺のことを」
一度。
息を吸う。
「こんな目で見たりもしなかった」
「……こんな目?」
聞き返す。
陽向の視線が揺れた。
「推しを見るみたいな目」
「……」
「俺が何かするたびに、いちいち嬉しそうにして」
「褒めたら驚いて」
「名前呼んだだけで」
一瞬。
陽向の言葉が止まる。
「……あんな顔する」
顔が熱くなった。
でも。
今は恥ずかしがっている場合じゃない。
「陽向……」
「なのに」
陽向の声が。
さらに低くなる。
「紗良しか知らない記憶も持ってる」
「……」
「教室のこと」
「駅で話したこと」
「俺が知らなかった紗良の気持ちまで」
陽向が頭を抱える。
「意味分かんねぇんだよ」
苦しそうだった。
「俺だって」
「……」
「何が本当なのか、分かんねぇ」
胸が痛い。
私だって。
分からない。
どうして。
私がここにいるのか。
どうして紗良の記憶が残っているのか。
何ひとつ。
「ごめん……」
また。
謝ってしまった。
陽向が顔を上げる。
「だから」
声が強くなる。
「謝んなって言ってんだろ」
「……っ」
身体がびくっとする。
陽向が。
すぐに気づいた。
「……ごめん」
今度は陽向が謝った。
でも。
もう。
さっきまでの空気には戻れない。
「美月」
私の名前。
呼ばれた。
少しだけ安心した。
「本当のこと言って」
「……言ってるよ」
「全部?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
私は。
陽向の目を見た。
「私は高瀬美月」
「……」
「三十四歳で」
「夫がいて」
「子どもがいる」
言葉にするだけで。
胸が痛む。
「事故に遭って」
「気づいたら」
自分の身体を見る。
「この身体にいた」
「……」
「それ以上のことは」
首を振る。
「私にも分からない」
陽向は。
何も言わなかった。
「紗良さんの記憶が出てくる理由も」
「紗良さんが今どこにいるのかも」
「私がどうしてここにいるのかも」
「……」
「本当に分からない」
涙が。
少しだけ溢れた。
「私だって知りたいよ」
声が震える。
「どうしてこんなことになったのか」
「私が死んで」
「子どもたちのところに帰れなくなって」
「紗良さんの身体にいて」
「陽向に……」
そこで。
言葉を飲み込む。
陽向に。
こんな顔をさせている。
「私がここにいるせいで」
「またそれ?」
陽向が顔を歪める。
「でも」
「違う」
「……」
「今はそれじゃない」
陽向が。
立ち上がった。
私の前まで来る。
そして。
「もう一回だけ聞く」
低い声。
私を見下ろしている。
「……何?」
陽向が。
私の手首を掴んだ。
強くはない。
でも。
逃がさないような掴み方。
心臓が鳴る。
「お前」
陽向の目から。
笑顔が完全に消えた。
「……誰?」
息が止まった。
「……」
「美月っていう人が本当にいるのは分かった」
「……」
「死んだことも」
「家族がいたことも」
「全部調べれば出てくる」
「……うん」
「でも」
陽向の指に。
少しだけ力が入る。
「じゃあ」
声が震えた。
「紗良はどこにいる?」
その言葉に。
胸をえぐられた。
分からない。
答えられない。
「……分からない」
「美月の記憶があるなら」
「……」
「紗良の記憶もあるなら」
「紗良は中にいんの?」
「分からない!」
思わず声を上げた。
陽向が止まる。
「私だって分からないよ!」
涙が溢れる。
「私が知りたい!」
「……」
「私だって」
胸を押さえる。
「紗良さんがどこにいるのか知りたいよ!」
「もし中にいるなら」
「戻れるなら」
「私は……」
言葉が詰まる。
でも。
続けた。
「私は」
涙が落ちる。
「この身体、返したいよ」
陽向の目が揺れた。
「だってこれは」
自分の頬に触れる。
「私の身体じゃない」
「……」
「紗良さんの人生なの」
「家も」
「仕事も」
「陽向との思い出も」
「全部」
「私のものじゃない」
苦しい。
ずっと。
思っていた。
私は。
ここにいていいのか。
「私には」
「ここにいる資格なんて」
「……」
「ないのかもしれない」
その瞬間。
陽向の顔が。
歪んだ。
「それ」
「……?」
「それ以上言うな」
「でも」
「言うな!」
今度は。
はっきりと。
強い声だった。
私は黙る。
陽向は。
手首を掴んでいた手を離した。
「……ごめん」
そして。
顔を覆う。
「俺」
「……」
「どうしたらいいか分かんねぇ」
初めてだった。
こんな陽向を見るのは。
テレビでも。
ここで会ってからも。
いつも明るくて。
私が泣けば。
何か言ってくれて。
笑わせてくれて。
そんな陽向が。
今は。
子どもみたいに困っていた。
「紗良は」
小さく呟く。
「俺にとって」
「……」
「ずっといるのが当たり前だった」
胸が。
苦しくなる。
「家族みたいなもんで」
「……うん」
「事故ったって聞いたとき」
陽向の声が震えた。
「間に合わないかもしれないって」
「……」
「本気で怖かった」
「うん」
「だから」
陽向が顔を上げる。
赤くなった目。
「目ぇ開けたとき」
「戻ってきたって思ったんだよ」
あの日。
最初に目を覚ましたとき。
私を抱きしめて。
泣いていた陽向。
「……ごめん」
また。
言ってしまった。
でも。
今度は。
陽向は何も言わなかった。
「なのに」
陽向が続ける。
「紗良じゃないって言われて」
「……」
「でも顔は紗良で」
「声も紗良で」
「たまに紗良の記憶も出てきて」
「……」
「なのに」
陽向が私を見る。
「話してると」
少し間を置く。
「どう考えても、美月なんだよ」
その一言に。
心臓が強く鳴った。
「紗良じゃない」
「……」
「少なくとも」
陽向が眉を寄せる。
「俺が知ってる紗良じゃない」
やっと。
信じてもらえた。
そう思った。
なのに。
嬉しくなかった。
陽向にとってそれは。
大切な人を失ったと認めることだから。
「……うん」
私は。
それしか言えなかった。
しばらく。
二人とも何も話さなかった。
そして。
陽向が。
ぽつりと聞いた。
「……美月」
「何?」
「子ども」
その言葉に。
胸が跳ねる。
「何人いる?」
少し迷った。
でも。
答えた。
「……五人」
陽向の目が大きくなる。
「五人!?」
さっきまでの重い空気の中。
思わぬ大声。
私は涙を拭きながら。
少しだけ笑ってしまった。
「そんな驚く?」
「いや、驚くだろ!」
「三十四で五人って」
「……いるよ」
「マジか……」
陽向が。
本気で驚いている。
少しだけ。
いつもの陽向に戻った。
「一番上が?」
「星」
「ひかりちゃん」
「うん」
「……」
陽向は。
少し考えてから言った。
「美月って」
「?」
「ちゃんと」
私を見る。
「誰かの人生、生きてたんだな」
胸が詰まった。
当たり前。
当たり前なのに。
その言葉が。
嬉しかった。
私には。
人生があった。
妻で。
母親で。
泣いたり。
笑ったり。
いろんなことがあった。
高瀬美月は。
確かに生きていた。
「……うん」
私は頷いた。
「生きてたよ」
陽向も。
小さく頷いた。
でも。
その日の帰り。
玄関で。
陽向は。
いつものように笑わなかった。
「……また来る」
「うん」
「少し」
言葉を探す。
「考えさせて」
胸が痛む。
でも。
当然だと思った。
「分かった」
陽向が。
ドアを開ける。
「陽向」
呼び止めた。
振り返る。
「……何?」
私は。
言うか迷った。
でも。
伝えたかった。
「紗良さんを」
「……」
「取り戻す方法があるなら」
陽向の目を見る。
「私も探すから」
陽向は。
何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
悲しそうに笑った。
そして。
ドアが閉まった。
一人になった部屋。
静か。
私は。
新しいマグカップを見る。
陽向と。
一緒に選んだもの。
紗良との思い出ではない。
私との。
初めての思い出。
それを見た瞬間。
胸が。
どうしようもなく苦しくなった。
もし。
紗良が戻ってきたら。
私は。
どうなるんだろう。
消える?
死ぬ?
それとも。
元の身体に戻れる?
でも。
私の身体は。
もうない。
じゃあ。
私は。
どこへ行けばいい?
初めて。
そのことを。
はっきりと考えてしまった。
紗良が戻ってくることを願っている。
その気持ちは。
嘘じゃない。
なのに。
胸の奥で。
小さな声がした。
――消えたくない。
その気持ちに気づいた瞬間。
私は。
自分がひどい人間になったような気がして。
しばらく。
動けなかった。
そう感じたのは、その翌日だった。
いつもなら。
家に来ればすぐに、
「腹減った」
とか。
「美月、これ見て」
とか。
何かしら話しかけてくるのに。
その日は違った。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
陽向は静かに部屋へ入ってきた。
帽子を脱いで。
いつものようにソファに座る。
でも。
なんとなく。
空気が重い。
「……陽向?」
「ん?」
「何かあった?」
「いや」
短い。
いつもなら。
「何その顔、俺のこと心配してんの?」
くらい言いそうなのに。
今日は言わない。
「仕事で疲れた?」
「まあ、それもある」
それも。
ということは。
別に何かある?
私は冷蔵庫を開ける。
「コーヒー飲む?」
「うん」
「ブラック?」
「お願い」
二人分のコーヒーを淹れる。
この前、一緒に買ったばかりの新しいマグカップ。
陽向のものは。
結局、薄いピンク色になった。
『俺、やっぱピンクじゃん!』
と言いながら。
本人も気に入っていた。
私のカップは白。
並べると。
なんとなくペアみたいで。
少し恥ずかしかった。
「はい」
「ありがと」
マグカップを陽向の前へ置く。
いつもなら。
「やっぱこれいいな」
とか。
何か言うのに。
今日は。
黙ってコーヒーを飲んでいる。
「……本当にどうしたの?」
耐えられなくなって聞いた。
陽向がカップを置く。
「美月」
「何?」
「ちょっと聞いていい?」
嫌な予感がした。
「……うん」
陽向は。
私の顔を見たまま。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「俺と紗良が、高校卒業した日に何したか覚えてる?」
「……え?」
突然の質問。
「卒業した日?」
「うん」
「分からない」
正直に答える。
「記憶、出てこない?」
「今は……何も」
「そっか」
陽向の目が。
少しだけ細くなる。
「じゃあ」
また聞かれる。
「紗良が初めて女優のオーディション受けた日」
「……分からない」
「俺が初めて紗良ん家泊まった日」
「知らない」
「紗良の親父さんに俺がめちゃくちゃ怒られた理由」
「……知らないよ」
だんだん。
怖くなる。
「陽向」
「もう一個」
私の言葉を遮る。
「俺と紗良しか知らない話」
「……」
陽向の声が。
いつもより低い。
「聞いてもいい?」
「……うん」
陽向が。
ほんの少しだけ俯いた。
「俺がデビュー決まった日の夜」
胸の奥がざわつく。
「紗良に何言ったか覚えてる?」
分からない。
でも。
何か。
頭の奥に引っかかる。
「……待って」
目を閉じる。
思い出そうとする。
でも。
何も出てこない。
「分からない」
そう答えた瞬間。
陽向の表情が変わった。
悲しそうな。
それでいて。
どこか納得したような顔。
「……そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
陽向はそう言った。
でも。
声が冷たい。
「陽向?」
何?
怖い。
何を確かめてるの?
「なんで急にそんなこと聞くの?」
陽向は。
しばらく黙っていた。
そして。
「昨日から考えてた」
「何を?」
「お前のこと」
お前。
いつもなら。
美月って呼ぶのに。
その呼び方だけで。
胸が苦しくなった。
「……私?」
「うん」
陽向が。
真っ直ぐ私を見る。
「最初は事故のせいだと思ってた」
「……」
「記憶なくして」
「性格も変わって」
「だから、紗良じゃないって言い張ってるだけなんだって」
言葉が。
喉に詰まる。
「でも」
陽向は続けた。
「違うんだよ」
「……何が?」
「何もかも」
心臓が。
強く鳴る。
「紗良はブラックコーヒー飲まない」
「……うん」
「ラーメンであんなテンション上がらない」
「……」
「俺のテレビ見て爆笑もしない」
「……」
「物壊したくらいで、あんな怯え方もしない」
私は。
何も言えなかった。
「紗良はさ」
陽向が少し笑う。
でも。
全然楽しそうじゃない。
「俺に遠慮なんかしなかった」
「……」
「勝手に冷蔵庫開けるし」
「俺が寝てたら普通に起こすし」
「言いたいことあったら、ちゃんと言うし」
陽向の声が。
少し震える。
「俺のことを」
一度。
息を吸う。
「こんな目で見たりもしなかった」
「……こんな目?」
聞き返す。
陽向の視線が揺れた。
「推しを見るみたいな目」
「……」
「俺が何かするたびに、いちいち嬉しそうにして」
「褒めたら驚いて」
「名前呼んだだけで」
一瞬。
陽向の言葉が止まる。
「……あんな顔する」
顔が熱くなった。
でも。
今は恥ずかしがっている場合じゃない。
「陽向……」
「なのに」
陽向の声が。
さらに低くなる。
「紗良しか知らない記憶も持ってる」
「……」
「教室のこと」
「駅で話したこと」
「俺が知らなかった紗良の気持ちまで」
陽向が頭を抱える。
「意味分かんねぇんだよ」
苦しそうだった。
「俺だって」
「……」
「何が本当なのか、分かんねぇ」
胸が痛い。
私だって。
分からない。
どうして。
私がここにいるのか。
どうして紗良の記憶が残っているのか。
何ひとつ。
「ごめん……」
また。
謝ってしまった。
陽向が顔を上げる。
「だから」
声が強くなる。
「謝んなって言ってんだろ」
「……っ」
身体がびくっとする。
陽向が。
すぐに気づいた。
「……ごめん」
今度は陽向が謝った。
でも。
もう。
さっきまでの空気には戻れない。
「美月」
私の名前。
呼ばれた。
少しだけ安心した。
「本当のこと言って」
「……言ってるよ」
「全部?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
私は。
陽向の目を見た。
「私は高瀬美月」
「……」
「三十四歳で」
「夫がいて」
「子どもがいる」
言葉にするだけで。
胸が痛む。
「事故に遭って」
「気づいたら」
自分の身体を見る。
「この身体にいた」
「……」
「それ以上のことは」
首を振る。
「私にも分からない」
陽向は。
何も言わなかった。
「紗良さんの記憶が出てくる理由も」
「紗良さんが今どこにいるのかも」
「私がどうしてここにいるのかも」
「……」
「本当に分からない」
涙が。
少しだけ溢れた。
「私だって知りたいよ」
声が震える。
「どうしてこんなことになったのか」
「私が死んで」
「子どもたちのところに帰れなくなって」
「紗良さんの身体にいて」
「陽向に……」
そこで。
言葉を飲み込む。
陽向に。
こんな顔をさせている。
「私がここにいるせいで」
「またそれ?」
陽向が顔を歪める。
「でも」
「違う」
「……」
「今はそれじゃない」
陽向が。
立ち上がった。
私の前まで来る。
そして。
「もう一回だけ聞く」
低い声。
私を見下ろしている。
「……何?」
陽向が。
私の手首を掴んだ。
強くはない。
でも。
逃がさないような掴み方。
心臓が鳴る。
「お前」
陽向の目から。
笑顔が完全に消えた。
「……誰?」
息が止まった。
「……」
「美月っていう人が本当にいるのは分かった」
「……」
「死んだことも」
「家族がいたことも」
「全部調べれば出てくる」
「……うん」
「でも」
陽向の指に。
少しだけ力が入る。
「じゃあ」
声が震えた。
「紗良はどこにいる?」
その言葉に。
胸をえぐられた。
分からない。
答えられない。
「……分からない」
「美月の記憶があるなら」
「……」
「紗良の記憶もあるなら」
「紗良は中にいんの?」
「分からない!」
思わず声を上げた。
陽向が止まる。
「私だって分からないよ!」
涙が溢れる。
「私が知りたい!」
「……」
「私だって」
胸を押さえる。
「紗良さんがどこにいるのか知りたいよ!」
「もし中にいるなら」
「戻れるなら」
「私は……」
言葉が詰まる。
でも。
続けた。
「私は」
涙が落ちる。
「この身体、返したいよ」
陽向の目が揺れた。
「だってこれは」
自分の頬に触れる。
「私の身体じゃない」
「……」
「紗良さんの人生なの」
「家も」
「仕事も」
「陽向との思い出も」
「全部」
「私のものじゃない」
苦しい。
ずっと。
思っていた。
私は。
ここにいていいのか。
「私には」
「ここにいる資格なんて」
「……」
「ないのかもしれない」
その瞬間。
陽向の顔が。
歪んだ。
「それ」
「……?」
「それ以上言うな」
「でも」
「言うな!」
今度は。
はっきりと。
強い声だった。
私は黙る。
陽向は。
手首を掴んでいた手を離した。
「……ごめん」
そして。
顔を覆う。
「俺」
「……」
「どうしたらいいか分かんねぇ」
初めてだった。
こんな陽向を見るのは。
テレビでも。
ここで会ってからも。
いつも明るくて。
私が泣けば。
何か言ってくれて。
笑わせてくれて。
そんな陽向が。
今は。
子どもみたいに困っていた。
「紗良は」
小さく呟く。
「俺にとって」
「……」
「ずっといるのが当たり前だった」
胸が。
苦しくなる。
「家族みたいなもんで」
「……うん」
「事故ったって聞いたとき」
陽向の声が震えた。
「間に合わないかもしれないって」
「……」
「本気で怖かった」
「うん」
「だから」
陽向が顔を上げる。
赤くなった目。
「目ぇ開けたとき」
「戻ってきたって思ったんだよ」
あの日。
最初に目を覚ましたとき。
私を抱きしめて。
泣いていた陽向。
「……ごめん」
また。
言ってしまった。
でも。
今度は。
陽向は何も言わなかった。
「なのに」
陽向が続ける。
「紗良じゃないって言われて」
「……」
「でも顔は紗良で」
「声も紗良で」
「たまに紗良の記憶も出てきて」
「……」
「なのに」
陽向が私を見る。
「話してると」
少し間を置く。
「どう考えても、美月なんだよ」
その一言に。
心臓が強く鳴った。
「紗良じゃない」
「……」
「少なくとも」
陽向が眉を寄せる。
「俺が知ってる紗良じゃない」
やっと。
信じてもらえた。
そう思った。
なのに。
嬉しくなかった。
陽向にとってそれは。
大切な人を失ったと認めることだから。
「……うん」
私は。
それしか言えなかった。
しばらく。
二人とも何も話さなかった。
そして。
陽向が。
ぽつりと聞いた。
「……美月」
「何?」
「子ども」
その言葉に。
胸が跳ねる。
「何人いる?」
少し迷った。
でも。
答えた。
「……五人」
陽向の目が大きくなる。
「五人!?」
さっきまでの重い空気の中。
思わぬ大声。
私は涙を拭きながら。
少しだけ笑ってしまった。
「そんな驚く?」
「いや、驚くだろ!」
「三十四で五人って」
「……いるよ」
「マジか……」
陽向が。
本気で驚いている。
少しだけ。
いつもの陽向に戻った。
「一番上が?」
「星」
「ひかりちゃん」
「うん」
「……」
陽向は。
少し考えてから言った。
「美月って」
「?」
「ちゃんと」
私を見る。
「誰かの人生、生きてたんだな」
胸が詰まった。
当たり前。
当たり前なのに。
その言葉が。
嬉しかった。
私には。
人生があった。
妻で。
母親で。
泣いたり。
笑ったり。
いろんなことがあった。
高瀬美月は。
確かに生きていた。
「……うん」
私は頷いた。
「生きてたよ」
陽向も。
小さく頷いた。
でも。
その日の帰り。
玄関で。
陽向は。
いつものように笑わなかった。
「……また来る」
「うん」
「少し」
言葉を探す。
「考えさせて」
胸が痛む。
でも。
当然だと思った。
「分かった」
陽向が。
ドアを開ける。
「陽向」
呼び止めた。
振り返る。
「……何?」
私は。
言うか迷った。
でも。
伝えたかった。
「紗良さんを」
「……」
「取り戻す方法があるなら」
陽向の目を見る。
「私も探すから」
陽向は。
何も言わなかった。
ただ。
少しだけ。
悲しそうに笑った。
そして。
ドアが閉まった。
一人になった部屋。
静か。
私は。
新しいマグカップを見る。
陽向と。
一緒に選んだもの。
紗良との思い出ではない。
私との。
初めての思い出。
それを見た瞬間。
胸が。
どうしようもなく苦しくなった。
もし。
紗良が戻ってきたら。
私は。
どうなるんだろう。
消える?
死ぬ?
それとも。
元の身体に戻れる?
でも。
私の身体は。
もうない。
じゃあ。
私は。
どこへ行けばいい?
初めて。
そのことを。
はっきりと考えてしまった。
紗良が戻ってくることを願っている。
その気持ちは。
嘘じゃない。
なのに。
胸の奥で。
小さな声がした。
――消えたくない。
その気持ちに気づいた瞬間。
私は。
自分がひどい人間になったような気がして。
しばらく。
動けなかった。



