目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

陽向の様子が少し変わった。

そう感じたのは、その翌日だった。

いつもなら。

家に来ればすぐに、

「腹減った」

とか。

「美月、これ見て」

とか。

何かしら話しかけてくるのに。

その日は違った。

「……お邪魔します」

「どうぞ」

陽向は静かに部屋へ入ってきた。

帽子を脱いで。

いつものようにソファに座る。

でも。

なんとなく。

空気が重い。

「……陽向?」

「ん?」

「何かあった?」

「いや」

短い。

いつもなら。

「何その顔、俺のこと心配してんの?」

くらい言いそうなのに。

今日は言わない。

「仕事で疲れた?」

「まあ、それもある」

それも。

ということは。

別に何かある?

私は冷蔵庫を開ける。

「コーヒー飲む?」

「うん」

「ブラック?」

「お願い」

二人分のコーヒーを淹れる。

この前、一緒に買ったばかりの新しいマグカップ。

陽向のものは。

結局、薄いピンク色になった。

『俺、やっぱピンクじゃん!』

と言いながら。

本人も気に入っていた。

私のカップは白。

並べると。

なんとなくペアみたいで。

少し恥ずかしかった。

「はい」

「ありがと」

マグカップを陽向の前へ置く。

いつもなら。

「やっぱこれいいな」

とか。

何か言うのに。

今日は。

黙ってコーヒーを飲んでいる。

「……本当にどうしたの?」

耐えられなくなって聞いた。

陽向がカップを置く。

「美月」

「何?」

「ちょっと聞いていい?」

嫌な予感がした。

「……うん」

陽向は。

私の顔を見たまま。

しばらく何も言わなかった。

そして。

「俺と紗良が、高校卒業した日に何したか覚えてる?」

「……え?」

突然の質問。

「卒業した日?」

「うん」

「分からない」

正直に答える。

「記憶、出てこない?」

「今は……何も」

「そっか」

陽向の目が。

少しだけ細くなる。

「じゃあ」

また聞かれる。

「紗良が初めて女優のオーディション受けた日」

「……分からない」

「俺が初めて紗良ん家泊まった日」

「知らない」

「紗良の親父さんに俺がめちゃくちゃ怒られた理由」

「……知らないよ」

だんだん。

怖くなる。

「陽向」

「もう一個」

私の言葉を遮る。

「俺と紗良しか知らない話」

「……」

陽向の声が。

いつもより低い。

「聞いてもいい?」

「……うん」

陽向が。

ほんの少しだけ俯いた。

「俺がデビュー決まった日の夜」

胸の奥がざわつく。

「紗良に何言ったか覚えてる?」

分からない。

でも。

何か。

頭の奥に引っかかる。

「……待って」

目を閉じる。

思い出そうとする。

でも。

何も出てこない。

「分からない」

そう答えた瞬間。

陽向の表情が変わった。

悲しそうな。

それでいて。

どこか納得したような顔。

「……そっか」

「ごめん」

「謝らなくていい」

陽向はそう言った。

でも。

声が冷たい。

「陽向?」

何?

怖い。

何を確かめてるの?

「なんで急にそんなこと聞くの?」

陽向は。

しばらく黙っていた。

そして。

「昨日から考えてた」

「何を?」

「お前のこと」

お前。

いつもなら。

美月って呼ぶのに。

その呼び方だけで。

胸が苦しくなった。

「……私?」

「うん」

陽向が。

真っ直ぐ私を見る。

「最初は事故のせいだと思ってた」

「……」

「記憶なくして」

「性格も変わって」

「だから、紗良じゃないって言い張ってるだけなんだって」

言葉が。

喉に詰まる。

「でも」

陽向は続けた。

「違うんだよ」

「……何が?」

「何もかも」

心臓が。

強く鳴る。

「紗良はブラックコーヒー飲まない」

「……うん」

「ラーメンであんなテンション上がらない」

「……」

「俺のテレビ見て爆笑もしない」

「……」

「物壊したくらいで、あんな怯え方もしない」

私は。

何も言えなかった。

「紗良はさ」

陽向が少し笑う。

でも。

全然楽しそうじゃない。

「俺に遠慮なんかしなかった」

「……」

「勝手に冷蔵庫開けるし」

「俺が寝てたら普通に起こすし」

「言いたいことあったら、ちゃんと言うし」

陽向の声が。

少し震える。

「俺のことを」

一度。

息を吸う。

「こんな目で見たりもしなかった」

「……こんな目?」

聞き返す。

陽向の視線が揺れた。

「推しを見るみたいな目」

「……」

「俺が何かするたびに、いちいち嬉しそうにして」

「褒めたら驚いて」

「名前呼んだだけで」

一瞬。

陽向の言葉が止まる。

「……あんな顔する」

顔が熱くなった。

でも。

今は恥ずかしがっている場合じゃない。

「陽向……」

「なのに」

陽向の声が。

さらに低くなる。

「紗良しか知らない記憶も持ってる」

「……」

「教室のこと」

「駅で話したこと」

「俺が知らなかった紗良の気持ちまで」

陽向が頭を抱える。

「意味分かんねぇんだよ」

苦しそうだった。

「俺だって」

「……」

「何が本当なのか、分かんねぇ」

胸が痛い。

私だって。

分からない。

どうして。

私がここにいるのか。

どうして紗良の記憶が残っているのか。

何ひとつ。

「ごめん……」

また。

謝ってしまった。

陽向が顔を上げる。

「だから」

声が強くなる。

「謝んなって言ってんだろ」

「……っ」

身体がびくっとする。

陽向が。

すぐに気づいた。

「……ごめん」

今度は陽向が謝った。

でも。

もう。

さっきまでの空気には戻れない。

「美月」

私の名前。

呼ばれた。

少しだけ安心した。

「本当のこと言って」

「……言ってるよ」

「全部?」

「うん」

「本当に?」

「本当に」

私は。

陽向の目を見た。

「私は高瀬美月」

「……」

「三十四歳で」

「夫がいて」

「子どもがいる」

言葉にするだけで。

胸が痛む。

「事故に遭って」

「気づいたら」

自分の身体を見る。

「この身体にいた」

「……」

「それ以上のことは」

首を振る。

「私にも分からない」

陽向は。

何も言わなかった。

「紗良さんの記憶が出てくる理由も」

「紗良さんが今どこにいるのかも」

「私がどうしてここにいるのかも」

「……」

「本当に分からない」

涙が。

少しだけ溢れた。

「私だって知りたいよ」

声が震える。

「どうしてこんなことになったのか」

「私が死んで」

「子どもたちのところに帰れなくなって」

「紗良さんの身体にいて」

「陽向に……」

そこで。

言葉を飲み込む。

陽向に。

こんな顔をさせている。

「私がここにいるせいで」

「またそれ?」

陽向が顔を歪める。

「でも」

「違う」

「……」

「今はそれじゃない」

陽向が。

立ち上がった。

私の前まで来る。

そして。

「もう一回だけ聞く」

低い声。

私を見下ろしている。

「……何?」

陽向が。

私の手首を掴んだ。

強くはない。

でも。

逃がさないような掴み方。

心臓が鳴る。

「お前」

陽向の目から。

笑顔が完全に消えた。

「……誰?」

息が止まった。

「……」

「美月っていう人が本当にいるのは分かった」

「……」

「死んだことも」

「家族がいたことも」

「全部調べれば出てくる」

「……うん」

「でも」

陽向の指に。

少しだけ力が入る。

「じゃあ」

声が震えた。

「紗良はどこにいる?」

その言葉に。

胸をえぐられた。

分からない。

答えられない。

「……分からない」

「美月の記憶があるなら」

「……」

「紗良の記憶もあるなら」

「紗良は中にいんの?」

「分からない!」

思わず声を上げた。

陽向が止まる。

「私だって分からないよ!」

涙が溢れる。

「私が知りたい!」

「……」

「私だって」

胸を押さえる。

「紗良さんがどこにいるのか知りたいよ!」

「もし中にいるなら」

「戻れるなら」

「私は……」

言葉が詰まる。

でも。

続けた。

「私は」

涙が落ちる。

「この身体、返したいよ」

陽向の目が揺れた。

「だってこれは」

自分の頬に触れる。

「私の身体じゃない」

「……」

「紗良さんの人生なの」

「家も」

「仕事も」

「陽向との思い出も」

「全部」

「私のものじゃない」

苦しい。

ずっと。

思っていた。

私は。

ここにいていいのか。

「私には」

「ここにいる資格なんて」

「……」

「ないのかもしれない」

その瞬間。

陽向の顔が。

歪んだ。

「それ」

「……?」

「それ以上言うな」

「でも」

「言うな!」

今度は。

はっきりと。

強い声だった。

私は黙る。

陽向は。

手首を掴んでいた手を離した。

「……ごめん」

そして。

顔を覆う。

「俺」

「……」

「どうしたらいいか分かんねぇ」

初めてだった。

こんな陽向を見るのは。

テレビでも。

ここで会ってからも。

いつも明るくて。

私が泣けば。

何か言ってくれて。

笑わせてくれて。

そんな陽向が。

今は。

子どもみたいに困っていた。

「紗良は」

小さく呟く。

「俺にとって」

「……」

「ずっといるのが当たり前だった」

胸が。

苦しくなる。

「家族みたいなもんで」

「……うん」

「事故ったって聞いたとき」

陽向の声が震えた。

「間に合わないかもしれないって」

「……」

「本気で怖かった」

「うん」

「だから」

陽向が顔を上げる。

赤くなった目。

「目ぇ開けたとき」

「戻ってきたって思ったんだよ」

あの日。

最初に目を覚ましたとき。

私を抱きしめて。

泣いていた陽向。

「……ごめん」

また。

言ってしまった。

でも。

今度は。

陽向は何も言わなかった。

「なのに」

陽向が続ける。

「紗良じゃないって言われて」

「……」

「でも顔は紗良で」

「声も紗良で」

「たまに紗良の記憶も出てきて」

「……」

「なのに」

陽向が私を見る。

「話してると」

少し間を置く。

「どう考えても、美月なんだよ」

その一言に。

心臓が強く鳴った。

「紗良じゃない」

「……」

「少なくとも」

陽向が眉を寄せる。

「俺が知ってる紗良じゃない」

やっと。

信じてもらえた。

そう思った。

なのに。

嬉しくなかった。

陽向にとってそれは。

大切な人を失ったと認めることだから。

「……うん」

私は。

それしか言えなかった。

しばらく。

二人とも何も話さなかった。

そして。

陽向が。

ぽつりと聞いた。

「……美月」

「何?」

「子ども」

その言葉に。

胸が跳ねる。

「何人いる?」

少し迷った。

でも。

答えた。

「……五人」

陽向の目が大きくなる。

「五人!?」

さっきまでの重い空気の中。

思わぬ大声。

私は涙を拭きながら。

少しだけ笑ってしまった。

「そんな驚く?」

「いや、驚くだろ!」

「三十四で五人って」

「……いるよ」

「マジか……」

陽向が。

本気で驚いている。

少しだけ。

いつもの陽向に戻った。

「一番上が?」

「星」

「ひかりちゃん」

「うん」

「……」

陽向は。

少し考えてから言った。

「美月って」

「?」

「ちゃんと」

私を見る。

「誰かの人生、生きてたんだな」

胸が詰まった。

当たり前。

当たり前なのに。

その言葉が。

嬉しかった。

私には。

人生があった。

妻で。

母親で。

泣いたり。

笑ったり。

いろんなことがあった。

高瀬美月は。

確かに生きていた。

「……うん」

私は頷いた。

「生きてたよ」

陽向も。

小さく頷いた。

でも。

その日の帰り。

玄関で。

陽向は。

いつものように笑わなかった。

「……また来る」

「うん」

「少し」

言葉を探す。

「考えさせて」

胸が痛む。

でも。

当然だと思った。

「分かった」

陽向が。

ドアを開ける。

「陽向」

呼び止めた。

振り返る。

「……何?」

私は。

言うか迷った。

でも。

伝えたかった。

「紗良さんを」

「……」

「取り戻す方法があるなら」

陽向の目を見る。

「私も探すから」

陽向は。

何も言わなかった。

ただ。

少しだけ。

悲しそうに笑った。

そして。

ドアが閉まった。

一人になった部屋。

静か。

私は。

新しいマグカップを見る。

陽向と。

一緒に選んだもの。

紗良との思い出ではない。

私との。

初めての思い出。

それを見た瞬間。

胸が。

どうしようもなく苦しくなった。

もし。

紗良が戻ってきたら。

私は。

どうなるんだろう。

消える?

死ぬ?

それとも。

元の身体に戻れる?

でも。

私の身体は。

もうない。

じゃあ。

私は。

どこへ行けばいい?

初めて。

そのことを。

はっきりと考えてしまった。

紗良が戻ってくることを願っている。

その気持ちは。

嘘じゃない。

なのに。

胸の奥で。

小さな声がした。

――消えたくない。

その気持ちに気づいた瞬間。

私は。

自分がひどい人間になったような気がして。

しばらく。

動けなかった。