目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

――暗い。

身体が重い。

指先ひとつ動かすことさえ億劫で、まるで全身に鉛をつけられているみたいだった。

耳の奥では、一定の間隔で機械音が鳴っている。

ピッ、ピッ、ピッ――。

ここ、どこ……?

そう思ったときだった。

「……紗良」

誰かの声が聞こえた。

男の人。

すぐ近くにいる。

「頼むから……目ぇ開けろよ」

声が震えている。

泣いている……?

でも。

紗良って誰?

私の名前は――。

高瀬美月。

三十四歳。

結婚していて、夫がいて、子どもたちがいる。

毎朝起きれば、洗濯をして、ご飯のことを考えて、子どもたちの予定を確認して。

家の中ではいつも誰かが何かをしていて、誰かが喋っていて。

賑やかなはずなのに。

なぜか、ふとした瞬間にひどく孤独になることがあった。

私の気持ちは、ちゃんとここにあるのに。

どうして誰にも届かないんだろう。

そんなことを考える日も、少なくなかった。

だけど。

子どもたちは大切だった。

笑っている顔を見るのが好きだった。

抱きしめると、少しだけ心が落ち着いた。

だから今日だって――。

そこまで考えた瞬間。

頭の中に、眩しい光が走った。

雨。

濡れたアスファルト。

手に持っていた買い物袋。

信号。

クラクション。

目の前に迫ってくる、大きなライト。

そして――。

ドンッ。

身体を強く弾き飛ばされるような衝撃。

「……っ!」

息を呑んだ。

胸が痛い。

そうだ。

私、事故に遭ったんだ。

じゃあ、ここは病院……?

助かったの?

ゆっくりと瞼を持ち上げる。

視界いっぱいに広がったのは、真っ白な天井だった。

見慣れない照明。

点滴。

カーテン。

やっぱり病院だ。

よかった。

生きてる。

そう思った――その瞬間。

「……っ!」

すぐそばにいた男性が、大きく目を見開いた。

「紗良!」

次の瞬間だった。

ぎゅっ。

強く身体を抱きしめられる。

「よかった……っ!」

耳元で声が震えた。

「マジで……よかった……!」

私は完全に固まっていた。

何が起きているのか、分からない。

知らない男の人に抱きしめられている。

普通なら、そう思うはずなのに。

私は、この声を知っていた。

いや。

知っているなんてものじゃない。

テレビで。

音楽番組で。

バラエティー番組で。

ライブ映像で。

雑誌についていた動画で。

何度も何度も聞いた声。

落ち込んだ日も。

家の中で一人ぼっちみたいに感じた夜も。

この声を聞けば、少しだけ笑えた。

そんな声だった。

まさか。

いや。

そんなわけない。

恐る恐る顔を上げる。

最初に目に入ったのは、鮮やかなピンク色の髪。

そして。

涙で赤くなった大きな瞳。

綺麗に整った顔立ち。

テレビ越しに何百回も見てきた顔。

私は瞬きをした。

一回。

二回。

三回。

消えない。

夢じゃ……ない?

「……え」

掠れた声が漏れた。

心臓が一気にうるさくなる。

嘘。

なんで。

どうして。

(天城……陽向?)

五人組トップアイドルグループ『ASTER』。

そのメンバーの一人。

いつも誰よりも楽しそうに笑っていて。

好きなアニメの話になると止まらなくて。

仲間の成功を自分のことみたいに喜んで。

ステージに立てば、観客全員を笑顔にしてしまうような人。

そして。

私と同じ、三十四歳。

私が十年以上、ずっと応援してきた――。

最推し。

その天城陽向が。

今。

私を抱きしめている。

(え?)

(えええええっ!?)

頭の中だけで叫ぶ。

近い。

近すぎる。

肩に腕が回っている。

頬のすぐそばに陽向の髪がある。

香水なのか、柔軟剤なのか分からないけれど、ふわっといい匂いまでした。

待って。

待って待って。

これは駄目。

ファンが耐えられる距離じゃない。

私は十年以上この人を推してきたけれど。

握手会どころの騒ぎじゃない。

抱きしめられてるんですけど!?

「紗良?」

陽向がゆっくり身体を離した。

そして、心配そうに私の顔を覗き込む。

「大丈夫?」

(顔がいい!!)

こんな状況なのに、最初に思ったことがそれだった。

だって。

知っていた。

テレビでも十分かっこいいことは。

だけど、生で見ると全然違う。

睫毛長い。

肌が綺麗。

目が大きい。

というか、顔が近い!

私は反射的に少し後ろへ下がった。

「……あ、あの」

声が震える。

「うん?」

陽向が優しく返事をする。

私は混乱した頭のまま口を開いた。

「…………天城陽向さん?」

しん――。

病室が静まり返った。

陽向が瞬きをする。

「……さん?」

「え?」

何?

何か変なこと言った?

いや。

普通だよね。

天城陽向さん。

だって私は一般人だし。

推しを呼び捨てなんて無理。

すると陽向の表情から、少しずつ笑顔が消えていった。

「紗良?」

まただ。

また、その名前。

私は眉を寄せた。

「あの……」

「うん」

「さっきから言ってる、その……紗良って」

陽向がじっと私を見る。

「……誰ですか?」

「え?」

今度は陽向が固まった。

「誰って……」

「私、美月です」

「……みづき?」

「高瀬美月」

自分の名前を言った。

なのに。

陽向は、聞いたことのない名前を聞いたような顔をした。

当然だ。

当たり前だ。

私はファンとして陽向を知っている。

だけど、陽向は私を知らない。

テレビの向こうの人と、普通の主婦。

交わるはずのない人生だったのだから。

「ちょっと待って」

陽向が立ち上がる。

「先生呼んでくる」

「え?」

「事故の影響かもしんない。待ってて」

事故。

その言葉を聞いた瞬間。

また頭が痛んだ。

「……っ」

「紗良?」

「だから、私は……」

そこまで言ったところで、ふとベッド脇に置かれた小さな鏡が目に入った。

なんとなく。

本当に、なんとなく手を伸ばした。

そして。

鏡を覗き込む。

「…………え?」

知らない女性が映っていた。

長い髪。

白い肌。

すっと通った鼻筋。

整った顔。

少し青ざめているけれど、誰が見ても綺麗だと思う女性。

私は鏡から目を離す。

そして、もう一度見る。

同じ女性。

恐る恐る頬に触れる。

鏡の中の女性も、同じ場所に手を当てた。

「…………誰?」

自分でも分かるくらい、声が震えた。

「これ……誰?」

陽向が動きを止める。

「紗良?」

「違う……」

鏡に映っているのは、私じゃない。

私はこんな顔じゃない。

髪だって違う。

手も違う。

指が細い。

爪も綺麗に整えられている。

私は慌てて腕を見る。

知らない腕。

知らない身体。

何。

何が起きてるの?

「私……」

息が苦しくなる。

「私の顔じゃない……」

陽向が私のそばに戻ってきた。

「大丈夫。落ち着いて」

「だって……!」

声が大きくなる。

「これ、私じゃない!」

その瞬間。

ズキン――!

頭の奥に激しい痛みが走った。

「っ……!」

両手で頭を押さえる。

「紗良!」

陽向の声が遠くなる。

そして。

突然、知らない映像が脳裏に流れ込んできた。

夕暮れの教室。

窓から差し込むオレンジ色の光。

制服姿の男の子。

今より少し幼い顔。

だけど。

間違えるはずがない。

陽向だ。

『陽向』

女の子の声がする。

『なに?』

『絶対、アイドルになってね』

『なるよ。当たり前じゃん』

陽向が笑った。

まだテレビでは見たことのない、あどけない笑顔。

『そしたら紗良、一番最初に自慢していいから』

『何それ』

『俺が売れたらさ。“私、こいつ昔から知ってるんだよね”って』

『自慢するほど有名になれるの?』

『なるって!』

『はいはい』

『信じてないだろ!』

二人の笑い声。

その光景を見た瞬間。

胸が締めつけられた。

懐かしい。

好き。

大好き。

この人の夢が叶ってほしい。

ずっとそばにいたい。

でも。

この想いを伝えたら、今の関係が壊れてしまうかもしれない。

だから言えない。

言いたくない。

――陽向が好き。

「……っ」

私は胸を押さえた。

何?

今の感情。

私じゃない。

こんなの、私の記憶じゃない。

私は学生時代の陽向なんて知らない。

同じ年だけど。

私が陽向を知ったのは、彼がすでにアイドルになった後だ。

なのに。

どうして。

「紗良?」

陽向の手が肩に触れる。

ドクン――。

心臓が大きく跳ねた。

触れられただけで、泣きそうになるほど嬉しい。

抱きしめてほしい。

離れないでほしい。

もっと近くにいたい。

「……違う」

小さく呟く。

これは違う。

私は陽向が好きだった。

もちろん、大好きだった。

だけど。

それはずっと、ファンとしての『好き』だった。

テレビで笑っていれば嬉しい。

ステージで楽しそうなら私も楽しい。

幸せでいてほしい。

それでよかった。

だけど今、胸の中にあるこれは。

もっと近くて。

もっと苦しくて。

もっと欲張りな――。

恋。

「何……これ……」

頭の中に、知らない名前が浮かんだ。

一ノ瀬紗良。

その名前を思った瞬間。

またいくつもの断片が流れ込んでくる。

陽向と一緒に歩いた帰り道。

誕生日。

デビューが決まった日の電話。

初めてテレビに出た陽向を一人で見て、泣いた夜。

そして。

ずっと言えなかった言葉。

――好き。

「一ノ瀬……紗良……?」

私は呟いた。

陽向が息を呑む。

「思い出した?」

違う。

思い出したわけじゃない。

私は、この女性じゃない。

でも。

この身体のどこかに、一ノ瀬紗良がいた痕跡が残っている。

そして彼女は。

天城陽向をずっと愛していた。

「私……」

自分の手を見る。

知らない手。

だけど、中にいるのは私。

高瀬美月。

そう。

私は――。

「高瀬美月です」

もう一度、自分の名前を口にした。

陽向が眉を寄せる。

「……誰?」

胸が、少しだけ痛んだ。

当然の言葉なのに。

私はこの人を十年以上知っている。

何を好きなのかも。

どんなふうに笑うのかも。

どんなときにテンションが上がるのかも。

テレビや雑誌で話したことなら、たくさん知っている。

だけど。

天城陽向の人生の中に。

高瀬美月という女性は――。

一度だって存在していなかった。

なのに私は今。

彼が大切にしていた一ノ瀬紗良の身体の中にいる。

そして。

私はまだ知らなかった。

このとき。

本当の『高瀬美月』は――。

もう、この世界で生きてはいなかったことを。