兄が東京へ行ってから、寮が少しだけ広く感じるようになった。
「……静か」
朝。
いつもなら、
「美緒、起きて」
って、兄が部屋を覗いてくる時間。
今日は誰も来ない。
私は布団の中でスマホを見る。
兄からメッセージが届いていた。
『今日から本格的にレッスン始まる!』
その下に、
『美緒もちゃんと食べろよ』
と書いてある。
「……お兄ちゃん、過保護」
思わず笑った。
すると。
コンコン。
「美緒ー?」
「……」
聞き慣れた声。
「起きてる?」
「……起きてる」
「入っていい?」
「嫌」
「じゃあ入るね」
「人の話聞いて!?」
ガチャ。
ドアが開く。
「おはよ」
「……勝手に入ってくるな」
「玲央いないから、俺が起こしに来た」
「頼んでない」
「でも美緒、起きるの遅いじゃん」
「今日は起きてたし!」
「ほんと?」
「ほんと!」
悠は私の顔をじっと見る。
「……寝癖すごい」
「え?」
慌てて髪を触る。
「嘘」
「……!」
「ふふ」
「最悪!」
朝から腹が立つ。
でも。
兄がいなくなってから。
悠は、前より私のところに来るようになった。
朝、起こしに来る。
ご飯を食べたか聞いてくる。
レッスンが終われば、
「一緒に帰ろ」
と言ってくる。
「……悠」
「ん?」
「なんで最近、毎日いるの?」
「え?」
「前からいたけど、最近特に」
「玲央に頼まれた」
「……え?」
「美緒のことよろしくって」
「お兄ちゃんが?」
「うん」
「いつ?」
「東京行く前」
私は少し黙った。
「……そっか」
「だから」
悠が笑う。
「俺がちゃんと見張っとく」
「子どもじゃないんだけど」
「知ってる」
「じゃあ見張らなくていい」
「無理」
「なんで?」
「玲央に頼まれたから」
「……お兄ちゃん、余計なことを」
私はため息をついた。
でも。
なぜか少しだけ嬉しかった。
兄が遠くに行ってしまっても。
私のことを気にかけてくれている。
それが分かったから。
⸻
数週間後。
兄から電話がかかってきた。
「もしもし?」
『美緒?』
「お兄ちゃん!」
久しぶりに聞く声。
『元気?』
「元気だよ」
『ちゃんとご飯食べてる?』
「食べてるってば」
『悠に聞いたら、昨日コンビニのおにぎりだけって』
「……あいつ!」
『ちゃんと食べなよ』
「お兄ちゃんまで!」
電話の向こうで兄が笑う。
『悠、いる?』
「いるけど」
『代わって』
「はい」
悠にスマホを渡す。
「もしもし」
『悠』
「うん」
『美緒のこと、頼むな』
「任せて」
「ちょっと!」
『ははは』
「二人とも私を何だと思ってるの!?」
『じゃあまた電話する』
「うん」
電話が切れる。
私はスマホを見つめた。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「いつ帰ってくるかな」
悠は少し黙った。
「……しばらく帰ってこないんじゃない?」
「そっか」
寂しい。
でも。
兄は夢を追いかけている。
だから、応援したい。
「じゃあ私たちも頑張らないとね」
「……うん」
「悠も絶対デビューしようね」
「……うん」
また。
あの少しだけ寂しい顔。
私は気づかないふりをした。
この頃の私はまだ知らなかった。
兄が東京で、どんどん人気を得ていくことも。
悠との関係が、少しずつ変わっていくことも。
そして。
私たち三人が、もう二度と同じ場所には戻れなくなることも。



