春は、何度迎えても少しだけ特別な季節だ。
新しい教室、新しい人間関係。
何度経験しても、「始まり」の季節は少しだけ特別だった。
桜並木の続く坂道を歩きながら、私は何度も胸の中で呟く。
(今日から大学生なんだ)
期待もある。不安もある。
でも、そのどちらよりも
(どんな四年間になるんだろう)
という、まだ見ぬ未来への期待だった。
青葉大学農学部。
植物や野菜、花に囲まれた場所で学びたい。そんな思いで選んだ大学だった。
昔から花が好きだった。花屋に行けば時間を忘れて眺めてしまうし、道端に咲く季節の花にも自然と目が留まる。
花には言葉がなくても、人の気持ちを伝える力がある。
そんなところが好きだった。
だから、農学部で過ごす四年間がとても楽しみだった。
友達が恋バナで盛り上がっていても、
「そういうものなんだな」
と聞いているだけ。
いつか好きな人ができるのかもしれない。
でも、それはまだ先のことだと思っていた。
入学式を終えたキャンパスは、新入生歓迎の熱気で包まれていた。
運動部の威勢のいい声。
軽音サークルの演奏。
色鮮やかな看板。
初めて見る大学という世界は、どこを向いても新しい出会いに満ちていた。
そんな中、一つのブースの前で自然と足が止まった。色とりどりの花。小さな寄せ植え。花束。
手書きの看板には、『園芸研究会』と書かれていた。
思わず近づくと、一人の女性がこちらへ振り向いた。
「こんにちは。新入生?」
柔らかな声だった。緩く巻かれた長い髪が春風に揺れる。優しく微笑むその人を見た瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
「はい。」
そう答えるのが精一杯だった。
「私は二年の雨宮澪《あまみやみお》。よかったら見ていかない?」
無理に勧誘するわけでもなく、本当に花が好きだから紹介したい。そんな温かさが伝わってくる。
「この花束も、アレンジメントも、サークルのみんなで作ったんだよ。」
花の説明をする澪先輩は、本当に楽しそうだった。
(こんな先輩になれたら素敵だな。)
その時の私は、ただ純粋にそう思っただけだった。
「わぁ、きれい!」
隣から明るい声が聞こえた。同じようにブースを見つめていた女の子だった。
「新入生?」
澪先輩が尋ねる。
「はい!」
その子は元気よく返事をすると、私へ振り向いて笑った。
「私は、朝倉凪《あさくらなぎ》!名前は?」
「あ…一ノ瀬翡翠《いちのせひすい》です。」
少し緊張しながら答えると、
「よろしくね、翡翠ちゃん!」
まるで春の日差しみたいな笑顔だった。
初対面なのに、不思議なくらい話しやすい。
その一言だけで、大学生活への不安が少しだけ小さくなった気がした。
数日後。農学部の新入生オリエンテーションが行われた。指定された席へ向かうと、
「あれっ⁉翡翠ちゃん!」
聞き覚えのある声が飛んできた。前の席には凪がいた。
「席ここなんだ!」
「うん!学籍番号順みたい!」
確認すると、私たちの番号はちょうど前後だった。
「これ、運命じゃない?」
そう言って笑う凪につられて、私も笑ってしまう。広い大学で偶然出会い、同じ学科で、席まで前後。そんな偶然が少しだけ嬉しかった。
オリエンテーションの合間や移動の時間、凪は気さくにたくさん話しかけてくれた。
「ねぇ、翡翠って呼んでもいい?私のことは凪って呼んで!」
「もちろん!」
その日の午後。約束通り二人で園芸研究会の体験会に向かった。
キャンパスの奥にあるガラス張りの温室。
花壇では先輩たちが土を耕し、温室には色とりどりの花が咲いていた。
澪先輩はサークルの説明をしながら言った。
「植物ってね、毎日見てると変化が分からないけど、少し時間が経ってから振り返ると、ちゃんと育っているんだよ。」
そう言って、小さな苗へ水をあげる。
(素敵な先輩だな。)
そう思った。でも、それ以上ではなかった。
「サークル入る?」
帰り道、凪が聞く。
「うん。すごく楽しそうだった。」
「私も!」
顔を見合わせて笑う。こうして、私たちは『園芸研究会』へ入部した。
それからの日々は、想像していた以上に楽しかった。履修登録も似ていた私たちは、講義ではいつも隣同士。お昼休みには学食へ行き、空きコマになれば芝生で他愛ない話をして笑い合う。
気づけば凪は、大学で一番近い存在になっていた。
サークルでも、二人で一緒に水やりをしたり、植え替えをしたり、花の名前を覚えたり。
なれないことばかりだったけど、それが楽しかった。
ある日のサークル活動。澪先輩が新入生一人ひとりに、小さなハーブの鉢植えを手渡してくれた。
「翡翠ちゃん、毎日観察してみてね。お世話した分だけ、ちゃんと応えてくれるから。」
その鉢植えを、アパートの窓辺に置いて毎日大切に育てた。
少しずつ伸びる新芽を見るたびに、大学生活もゆっくり根を張り始めているようだった。
春が過ぎ、青々とした夏が訪れ、気づけば秋の風がキャンパスを吹き抜けていた。
この頃には、講義の隣には凪がいて、サークルへ行けば澪先輩や仲間がいて、大学はもう、「通う場所」ではなく、「帰ってくる場所」になっていた。
あの春の日には想像もしていなかったくらい、穏やかで暖かな日々。私は、この時間がずっと続くものだと信じていた。
あの頃の私はまだ知らなかった-
穏やかだと思っていた毎日が、ほんの少しの出来事で、二度と元には戻らないことを。
新しい教室、新しい人間関係。
何度経験しても、「始まり」の季節は少しだけ特別だった。
桜並木の続く坂道を歩きながら、私は何度も胸の中で呟く。
(今日から大学生なんだ)
期待もある。不安もある。
でも、そのどちらよりも
(どんな四年間になるんだろう)
という、まだ見ぬ未来への期待だった。
青葉大学農学部。
植物や野菜、花に囲まれた場所で学びたい。そんな思いで選んだ大学だった。
昔から花が好きだった。花屋に行けば時間を忘れて眺めてしまうし、道端に咲く季節の花にも自然と目が留まる。
花には言葉がなくても、人の気持ちを伝える力がある。
そんなところが好きだった。
だから、農学部で過ごす四年間がとても楽しみだった。
友達が恋バナで盛り上がっていても、
「そういうものなんだな」
と聞いているだけ。
いつか好きな人ができるのかもしれない。
でも、それはまだ先のことだと思っていた。
入学式を終えたキャンパスは、新入生歓迎の熱気で包まれていた。
運動部の威勢のいい声。
軽音サークルの演奏。
色鮮やかな看板。
初めて見る大学という世界は、どこを向いても新しい出会いに満ちていた。
そんな中、一つのブースの前で自然と足が止まった。色とりどりの花。小さな寄せ植え。花束。
手書きの看板には、『園芸研究会』と書かれていた。
思わず近づくと、一人の女性がこちらへ振り向いた。
「こんにちは。新入生?」
柔らかな声だった。緩く巻かれた長い髪が春風に揺れる。優しく微笑むその人を見た瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
「はい。」
そう答えるのが精一杯だった。
「私は二年の雨宮澪《あまみやみお》。よかったら見ていかない?」
無理に勧誘するわけでもなく、本当に花が好きだから紹介したい。そんな温かさが伝わってくる。
「この花束も、アレンジメントも、サークルのみんなで作ったんだよ。」
花の説明をする澪先輩は、本当に楽しそうだった。
(こんな先輩になれたら素敵だな。)
その時の私は、ただ純粋にそう思っただけだった。
「わぁ、きれい!」
隣から明るい声が聞こえた。同じようにブースを見つめていた女の子だった。
「新入生?」
澪先輩が尋ねる。
「はい!」
その子は元気よく返事をすると、私へ振り向いて笑った。
「私は、朝倉凪《あさくらなぎ》!名前は?」
「あ…一ノ瀬翡翠《いちのせひすい》です。」
少し緊張しながら答えると、
「よろしくね、翡翠ちゃん!」
まるで春の日差しみたいな笑顔だった。
初対面なのに、不思議なくらい話しやすい。
その一言だけで、大学生活への不安が少しだけ小さくなった気がした。
数日後。農学部の新入生オリエンテーションが行われた。指定された席へ向かうと、
「あれっ⁉翡翠ちゃん!」
聞き覚えのある声が飛んできた。前の席には凪がいた。
「席ここなんだ!」
「うん!学籍番号順みたい!」
確認すると、私たちの番号はちょうど前後だった。
「これ、運命じゃない?」
そう言って笑う凪につられて、私も笑ってしまう。広い大学で偶然出会い、同じ学科で、席まで前後。そんな偶然が少しだけ嬉しかった。
オリエンテーションの合間や移動の時間、凪は気さくにたくさん話しかけてくれた。
「ねぇ、翡翠って呼んでもいい?私のことは凪って呼んで!」
「もちろん!」
その日の午後。約束通り二人で園芸研究会の体験会に向かった。
キャンパスの奥にあるガラス張りの温室。
花壇では先輩たちが土を耕し、温室には色とりどりの花が咲いていた。
澪先輩はサークルの説明をしながら言った。
「植物ってね、毎日見てると変化が分からないけど、少し時間が経ってから振り返ると、ちゃんと育っているんだよ。」
そう言って、小さな苗へ水をあげる。
(素敵な先輩だな。)
そう思った。でも、それ以上ではなかった。
「サークル入る?」
帰り道、凪が聞く。
「うん。すごく楽しそうだった。」
「私も!」
顔を見合わせて笑う。こうして、私たちは『園芸研究会』へ入部した。
それからの日々は、想像していた以上に楽しかった。履修登録も似ていた私たちは、講義ではいつも隣同士。お昼休みには学食へ行き、空きコマになれば芝生で他愛ない話をして笑い合う。
気づけば凪は、大学で一番近い存在になっていた。
サークルでも、二人で一緒に水やりをしたり、植え替えをしたり、花の名前を覚えたり。
なれないことばかりだったけど、それが楽しかった。
ある日のサークル活動。澪先輩が新入生一人ひとりに、小さなハーブの鉢植えを手渡してくれた。
「翡翠ちゃん、毎日観察してみてね。お世話した分だけ、ちゃんと応えてくれるから。」
その鉢植えを、アパートの窓辺に置いて毎日大切に育てた。
少しずつ伸びる新芽を見るたびに、大学生活もゆっくり根を張り始めているようだった。
春が過ぎ、青々とした夏が訪れ、気づけば秋の風がキャンパスを吹き抜けていた。
この頃には、講義の隣には凪がいて、サークルへ行けば澪先輩や仲間がいて、大学はもう、「通う場所」ではなく、「帰ってくる場所」になっていた。
あの春の日には想像もしていなかったくらい、穏やかで暖かな日々。私は、この時間がずっと続くものだと信じていた。
あの頃の私はまだ知らなかった-
穏やかだと思っていた毎日が、ほんの少しの出来事で、二度と元には戻らないことを。
