あきない恋を、君と夜の街で。〜氷の貴公子の裏の顔〜

「よしっ、これで今日の分のプリントは全部数え終わったぞ……!」

 同じ頃、校舎の二階にある資料室で、田中ひなたはパシッと自分の頬を両手で叩いていた。

 小柄な身体に少し大きめの制服。特別目立つわけではないけれど、くりっとした大きな瞳と、柔らかな笑顔が印象的な美少女—— のはずなのだが、当の本人は自分の見た目など微塵も気にしていない。

「急がないと、陸が学童で待ってる……!」

 ひなたの日常は、同年代の女子高生とはまるで違っていた。
 幼い頃に母親を病気で亡くし、家は父子家庭。優しく温和だが多忙なサラリーマンの父親を支えるため、そして小学一年生の可愛い弟・陸(りく)の面倒を見るため、ひなたは放課後になると一目散に自宅へ帰る生活を送っていた。

 友達とカラオケに行ったり、カフェで新作のスイーツを食べたりする余裕なんてない。放課後はスーパーのタイムセールを狙い、帰宅して夕飯を作り、洗濯物を畳み、陸の宿題を見る。それがひなたの毎日だった。

「田中さん、まだ残ってたんだ?」

 廊下を通りかかったクラスメイトの女子生徒が声をかけてくる。

「あ、うん! 係の仕事がもう少しで終わりそうだから、先に帰ってて!」
「そっか、いつも大変だね。これからみんなで駅前のタピオカ見に行くけど、今日も無理そうだよね?」
「うん、ごめんね! 弟のお迎えがあるから!」
「ううん、じゃあまた明日ね!」

 手を振る友達を見送りながら、ひなたは少しだけ寂しそうに息を吐いた。ほんの少しだけ羨ましいと思う気持ちがないわけじゃない。でも、すぐに気持ちを切り替えて笑顔を作る。

「よしっ、落ち込んでる暇はないぞ〜! 今日の夕飯は陸の大好物のハンバーグにするんだから!」

 カバンを背負い、元気に資料室を飛び出そうとした瞬間、曲がり角で誰かとぶつかりそうになった。

「あ、すみませ——」

 ひなたが足を止めると、視線の先に立っていたのは、あの「氷の貴公子」こと春夏冬秋人だった。

 すれ違いざま、秋人の冷ややかな瞳が一瞬だけひなたを捉える。同じクラスでありながら、今まで一度も言葉を交わしたことがない相手。秋人はひなたのことなど視界に入っていないかのように、無言で通り過ぎていった。

(わあ…… 本当に冷たい眼差しをする人なんだなあ)

 ひなたは去っていく秋人の背中を見送りながら、胸の内で呟いた。
 学校中の女子生徒から絶大な人気を誇る彼だが、ひなたから見ると、彼はなんだかとても遠い場所にいるように思えた。まるで、世界全体に背を向けて一人で立っているような、そんな寂しげな背中に見えたのだ。

「……あ、いけない! 陸を待たせちゃう!」

 首を振って余計な考えを振り払うと、ひなたは一進一退のスピードで階段を駆け下りていった。