秋人の圧倒的な処理能力のおかげで、本来なら二時間以上かかるはずだった閉架書庫の点検作業は、わずか三十分ほどで終了した。
「よし、これで終わりだ」
最後の本を棚に戻し、秋人が息を吐く。時計の針は17時を少し回ったところだった。これなら余裕を持って陸のお迎えに行ける。
「本当にありがとうございました! 秋人くんのおかげで助かっちゃった!」
ひなたは深々と頭を下げた。すると、秋人はブレザーのポケットに手を突っ込み、どこか遠くを見るような瞳で呟いた。
「……お前は、毎日こんなことをしているのか」
「え?」
「部活もせず、友達と遊ぶこともなく、放課後になれば急いで帰って弟の世話と家事。 ……嫌にならないのか」
秋人の声には、純粋な疑問と、かすかな悲哀が混ざっていた。
秋人にとっての青春は、窒息しそうなほどのプレッシャーと孤独だった。有名女優の姉、世界的大スターのサッカー選手の兄、天才棋士の弟。完璧であることを強要され、期待という名の籠の中で息を潜める日々。だからこそ、夜の街で暴れ、ルールを破ることでしか「生きている」実感を得られなかった。
ひなたの送る日々は、秋人から見れば「制限された不自由な生活」に見えたのだ。
ひなたは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「嫌になることなんて、一度もないよ」
「なぜだ。自由がないだろ」
「うーん…… 自由かどうかは分からないけど、私ね、お家に帰るのが大好きなの」
ひなたはバインダーを抱きしめ、愛おしそうに語り始めた。
「お母さんが亡くなってから、お父さんは私たちを育てるためにすごく頑張って働いてくれてるの。だから私も、家族のために何かしたいんだ。夕飯を作って待ってるとね、陸が『お姉ちゃんただいま!』って笑顔で帰ってくるでしょ? お父さんも『ひなた、いつもありがとう』って言ってくれるの」
ひなたの瞳が、沈みかけた夕日の光を受けてキラキラと輝く。
「家族の笑顔が見られるなら、忙しいのも、大変なのも、全部『幸せ』なんだよ。私が頑張る理由は、大好きな家族がいるからなの」
「……家族」
秋人の口から、重い呟きが漏れた。
彼にとって「家族」とは、自分を比較し、評価し、追い詰める冷たい壁でしかなかった。温もりなど存在しない、格式と名誉だけで繋がった冷酷な集団。
けれど、ひなたの口から語られる「家族」は、小さくても、貧しくても、光と温もりに満ちあふれていた。
(俺の家には…… そんなものは何一つない)
秋人は胸の奥が鋭い刃物で刺されたような痛みを覚えた。ひなたの眩しさが、彼女の持つ温かな日常が、羨ましくて、眩しくて、そして自分がどれほど惨めで孤独かを突きつけてくる。
秋人は自嘲気味に目を伏せた。
「……そうか。お前は…… 強いんだな」
「ううん、強くないよ! 寂しいなって思う時もあるもん」
ひなたはカバンを探ると、可愛らしいワックスペーパーに包まれた小さな小包を取り出し、秋人の手のひらにコトンと乗せた。
「これ、食べて!」
「……なんだこれは」
「手作りのクッキー! 昨日の夜、陸と一緒に焼いたの。助けてくれたお礼と、今日の手伝いのお礼!」
秋人は不機嫌そうに小包を見つめた。
「いらないと言ったら?」
「食べてくれないと、私が悲しくなっちゃう」
ひなたが少し首を傾げて上目遣いで見つめてくる。その愛くるしい仕草に、秋人はぐっと言葉を詰まらせた。
「……勝手にしろ」
秋人は乱暴に包みを解くと、中から不揃いな形のクッキーをひとつ摘まみ、口へと運んだ。
サクッという軽い食感。
口の中に広がったのは、素朴で優しいバターと砂糖の甘さだった。高級ホテルのパティシエが作る完璧なディナーやスイーツにはない、温かい「人の手」の味がした。
「……どう ……かな?」
心配そうに顔を覗き込んでくるひなた。
秋人はクッキーを噛み締めながら、顔をそっぽに向けた。
「……甘すぎる」
「えっ、本当? 砂糖多くしちゃったかな……」
ひなたが落ち込んだように肩を落とす。
しかし、秋人はボソッと付け加えた。
「……悪くはない」
「! ふふ、よかった〜!」
ひなたの顔がぱっと華やぐ。その笑顔を見た瞬間、秋人の胸の奥にあった冷たい氷が、ほんの少しだけ溶け出していくような感覚があった。
「よし、これで終わりだ」
最後の本を棚に戻し、秋人が息を吐く。時計の針は17時を少し回ったところだった。これなら余裕を持って陸のお迎えに行ける。
「本当にありがとうございました! 秋人くんのおかげで助かっちゃった!」
ひなたは深々と頭を下げた。すると、秋人はブレザーのポケットに手を突っ込み、どこか遠くを見るような瞳で呟いた。
「……お前は、毎日こんなことをしているのか」
「え?」
「部活もせず、友達と遊ぶこともなく、放課後になれば急いで帰って弟の世話と家事。 ……嫌にならないのか」
秋人の声には、純粋な疑問と、かすかな悲哀が混ざっていた。
秋人にとっての青春は、窒息しそうなほどのプレッシャーと孤独だった。有名女優の姉、世界的大スターのサッカー選手の兄、天才棋士の弟。完璧であることを強要され、期待という名の籠の中で息を潜める日々。だからこそ、夜の街で暴れ、ルールを破ることでしか「生きている」実感を得られなかった。
ひなたの送る日々は、秋人から見れば「制限された不自由な生活」に見えたのだ。
ひなたは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「嫌になることなんて、一度もないよ」
「なぜだ。自由がないだろ」
「うーん…… 自由かどうかは分からないけど、私ね、お家に帰るのが大好きなの」
ひなたはバインダーを抱きしめ、愛おしそうに語り始めた。
「お母さんが亡くなってから、お父さんは私たちを育てるためにすごく頑張って働いてくれてるの。だから私も、家族のために何かしたいんだ。夕飯を作って待ってるとね、陸が『お姉ちゃんただいま!』って笑顔で帰ってくるでしょ? お父さんも『ひなた、いつもありがとう』って言ってくれるの」
ひなたの瞳が、沈みかけた夕日の光を受けてキラキラと輝く。
「家族の笑顔が見られるなら、忙しいのも、大変なのも、全部『幸せ』なんだよ。私が頑張る理由は、大好きな家族がいるからなの」
「……家族」
秋人の口から、重い呟きが漏れた。
彼にとって「家族」とは、自分を比較し、評価し、追い詰める冷たい壁でしかなかった。温もりなど存在しない、格式と名誉だけで繋がった冷酷な集団。
けれど、ひなたの口から語られる「家族」は、小さくても、貧しくても、光と温もりに満ちあふれていた。
(俺の家には…… そんなものは何一つない)
秋人は胸の奥が鋭い刃物で刺されたような痛みを覚えた。ひなたの眩しさが、彼女の持つ温かな日常が、羨ましくて、眩しくて、そして自分がどれほど惨めで孤独かを突きつけてくる。
秋人は自嘲気味に目を伏せた。
「……そうか。お前は…… 強いんだな」
「ううん、強くないよ! 寂しいなって思う時もあるもん」
ひなたはカバンを探ると、可愛らしいワックスペーパーに包まれた小さな小包を取り出し、秋人の手のひらにコトンと乗せた。
「これ、食べて!」
「……なんだこれは」
「手作りのクッキー! 昨日の夜、陸と一緒に焼いたの。助けてくれたお礼と、今日の手伝いのお礼!」
秋人は不機嫌そうに小包を見つめた。
「いらないと言ったら?」
「食べてくれないと、私が悲しくなっちゃう」
ひなたが少し首を傾げて上目遣いで見つめてくる。その愛くるしい仕草に、秋人はぐっと言葉を詰まらせた。
「……勝手にしろ」
秋人は乱暴に包みを解くと、中から不揃いな形のクッキーをひとつ摘まみ、口へと運んだ。
サクッという軽い食感。
口の中に広がったのは、素朴で優しいバターと砂糖の甘さだった。高級ホテルのパティシエが作る完璧なディナーやスイーツにはない、温かい「人の手」の味がした。
「……どう ……かな?」
心配そうに顔を覗き込んでくるひなた。
秋人はクッキーを噛み締めながら、顔をそっぽに向けた。
「……甘すぎる」
「えっ、本当? 砂糖多くしちゃったかな……」
ひなたが落ち込んだように肩を落とす。
しかし、秋人はボソッと付け加えた。
「……悪くはない」
「! ふふ、よかった〜!」
ひなたの顔がぱっと華やぐ。その笑顔を見た瞬間、秋人の胸の奥にあった冷たい氷が、ほんの少しだけ溶け出していくような感覚があった。



