Dear Darling

静かな応接室に、時計の針だけが時を刻んでいた。

窓の外には、どこまでも広がる街並み。

ひまりはソファに腰掛けたまま、湯気の立たなくなった紅茶へ視線を落とした。

高瀬が新しい紅茶をご用意しましょうかと声を掛けてくれたが、「大丈夫です」と微笑んで断った。

何かをして待とうと思い、テーブルの上に置かれた雑誌へ手を伸ばす。

ページをめくる。

けれど、文字は頭に入ってこない。

気付けば、また扉へ目を向けていた。

――コンコン。

穏やかなノックの音が響く。

「入るよ。」

聞き慣れた声に、ひまりは顔を上げた。

扉が開き、蓮が静かに入ってくる。

「待たせた。」

その一言に、ひまりの表情がふっと和らぐ。

「お仕事、お疲れさまでした。」

「ありがとう。」

短い会話。

それだけなのに、胸の奥がほっと温かくなる。

「帰ろうか。」

「はい。」

高瀬に見送られながら会社をあとにし、二人は地下駐車場へ向かった。

車がゆっくりと走り出す。

夕暮れの街は柔らかなオレンジ色に包まれ、行き交う人々もどこか穏やかに見えた。

しばらく静かな時間が流れたあと、蓮が前を見たまま口を開く。

「少しだけ、寄り道してもいい?」

ひまりは首を傾げ、小さく笑う。

「はい。」

車はいつもの道を外れ、並木道へ入った。

窓の外を流れる若葉が夕日に照らされ、風に揺れている。

その先に広がっていたのは、夕暮れの大学キャンパスだった。

校舎を染める茜色。

芝生で語り合う学生たち。

笑い声。

風に乗って揺れる木々。

ひまりは、その景色から目を離せなかった。

「……ここ。」

小さくこぼれた声に、蓮が静かに視線を向ける。

「ん?」

ひまりは目の前の景色を見つめたまま、小さく首を傾げた。

「なんだか……。」

少しだけ間が空く。

「知ってる場所……みたい。」

蓮は何も聞かなかった。

何も説明しなかった。

ただ、その横顔をそっと見つめる。

そして、安心したように小さく微笑んだ。

「そう。」

車は再び静かに走り始める。

夕暮れのキャンパスは、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。



「ただいま。」

玄関の扉を開けると、さなさんがいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。

「お帰りなさい。」

いつもと変わらないやり取り。

なのに今日は、どこか心が落ち着かなかった。

部屋へ戻り、バッグを置く。

ふと、本棚へ目が向いた。

一冊だけ、少し色褪せたネイビーのノート。

背表紙には、小さな白い文字。

『Diary 201X』

「……Diary?」

思わず手を伸ばす。

指先が表紙に触れた瞬間、胸の奥が小さくざわめいた。

ゆっくりと表紙を開く。

そして、最初のページをめくろうとして――

ひまりの手は、静かに止まった。