「行こうか。」
玄関で待っていた蓮が、車の鍵を指先で軽く回した。
「……はい。」
ひまりはバッグを抱え直し、その隣へ並ぶ。
外へ出ると、初夏の風が頬をなでた。
庭では昨日水をあげていた花が、朝日に照らされて静かに揺れている。
蓮が助手席のドアを開けてくれた。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
車に乗り込むと、ドアが閉まる音だけが小さく響いた。
エンジンがかかり、ゆっくりと車が走り出す。
住宅街を抜け、大きな通りへ出ても、ひまりは窓の外を眺めたままだった。
今日向かう場所。
そこには、自分の知らない七年間がある。
そう思うだけで胸が落ち着かなかった。
「緊張してる?」
前を向いたまま、蓮が聞く。
「……そんなに分かりますか?」
「うん。」
迷いのない返事に、思わず苦笑する。
「顔に出てました?」
「少しだけ。」
まただ。
家でも同じことを言われた。
「私、分かりやすいんですね。」
「うん。」
即答されてしまい、ひまりは小さく頬を膨らませる。
「もう。」
その横顔を見て、蓮がくすっと笑った。
その笑い声につられて、ひまりも笑ってしまう。
車の中に流れていた緊張が、少しだけほどけた。
しばらく走ると、信号で車が止まる。
蓮は静かに前を見つめたまま口を開く。
「今日は思い出そうとしなくていい。」
ひまりは蓮を見る。
「会社を見て、『俺がこんな場所で働いているんだ』って思うだけで十分だから。」
「……はい。」
「疲れたらすぐ帰ろう。」
その一言が、不思議なくらい心を軽くした。
「ありがとうございます。」
ありがとう。
その言葉しか出てこなかった。
会社へ行くことよりも、
自分を気遣ってくれることの方が、胸に残った。
やがて車は地下駐車場へ入る。
静かに車が止まり、蓮は先に降りると助手席のドアを開けた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
二人は並んで歩き出す。
地下駐車場からエントランスへ続くエレベーターに乗る。
上がるのはほんの数階。
扉が開いた。
一歩踏み出したひまりは、思わず足を止めた。
「……わぁ。」
自然と視線が上へ向く。
吹き抜けになった広いエントランス。
何階まであるのか分からないほど高い天井から、朝の光が降り注いでいる。
大きなガラス越しに差し込む光が床へ反射し、人々の足元をやさしく照らしていた。
出勤してくる社員たちが足早に行き交う。
それでも、不思議と騒がしさは感じない。
「会社……ですよね?」
思わず漏らすと、
蓮は隣で小さく笑った。
「会社だけど?」
「ホテルみたいです。」
「初めて来た時、俺も同じこと思った。」
その一言に、ひまりも思わず笑顔になる。
「おはようございます、藤堂さん。」
受付の女性が笑顔で頭を下げた。
「おはようございます。」
蓮も自然に微笑み返す。
歩き始めると、社員たちが次々に声を掛けてきた。
「おはようございます。」
「藤堂さん、おはようございます。」
「昨日はありがとうございました。」
蓮は急ぐことなく、そのたびに立ち止まる。
「おはよう。」
「昨日は遅くまでお疲れさま。」
ほんの一言。
それだけで、社員たちの表情が明るくなる。
ひまりは少し後ろを歩きながら、その様子を見つめていた。
(みんな……。)
蓮を見つけると自然に笑う。
肩書きに話し掛けるような堅さはない。
けれど馴れ馴れしさもない。
その距離感が心地よく見えた。
「藤堂さん。」
一人の男性社員が近づいてくる。
「少しだけ、お時間いいですか。」
「もちろん。」
蓮は歩みを止めた。
男性は資料を開き、何かを相談する。
蓮は途中で遮ることなく最後まで聞き、少しだけ考えてから短く答えた。
「それで進めよう。」
「ありがとうございます。」
男性社員は安心したように笑い、一礼して去っていく。
蓮は何事もなかったように歩き出した。
「……すごいですね。」
思わず口からこぼれた。
「何が?」
「皆さん、蓮さんを信頼してる。」
蓮は少し困ったように笑う。
「そうかな。」
「はい。」
照れくさそうに笑って、それ以上は何も言わない。
その姿が、ひまりには少し眩しく見えた。
「蓮様。」
落ち着いた女性の声が聞こえた。
二人が振り向くと、上品なスーツ姿の女性が歩いてくる。
「おはようございます、高瀬さん。」
「おはようございます。」
高瀬はひまりへ優しく一礼した。
「ひまり様、お待ちしておりました。」
「こちらへご案内いたします。」
その言葉に、ひまりは蓮を見上げる。
蓮は安心させるように微笑み、
「行こうか。」
と、小さく頷いた。
♢
高瀬に案内され、専用エレベーターへ乗り込む。
静かに扉が閉まり、ゆっくりと上昇を始めた。
数字が一つ、また一つと増えていく。
やがて、小さな電子音が鳴る。
扉が開いた。
一歩踏み出したひまりは、思わず息をのんだ。
足元には落ち着いた色合いの絨毯が敷かれ、歩いても足音はほとんど響かない。
ふわりと漂うのは、木と白い花を思わせる穏やかな香り。
静けさに包まれた空間は、さっきまでのエントランスとはまるで別世界だった。
廊下の正面に設えられた大きな窓から、街並みが一望できる。
建ち並ぶビルも、行き交う車も、遥か下に小さく見えた。
「……高い。」
思わずこぼれた声に、高瀬が穏やかに微笑む。
「こちらでございます。」
案内された先は、応接室だった。
高瀬が扉を開け、一歩下がる。
「ひまり様はこちらでお待ちください。」
「はい。」
返事をすると、蓮が優しく微笑んだ。
「少し仕事に行ってくる。」
「……はい。」
「終わったら迎えに来るから。」
ひまりは小さく頷く。
蓮は安心したように微笑み返し、静かに踵を返した。
その背中を、ひまりは何となく目で追う。
誰かとすれ違えば、軽く会釈を交わす。
足を止めることなく、穏やかな歩調で歩いていく。
やがて、その背中は廊下の角へ近づき――
静かに姿を消した。
その瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ静かになった気がした。
ひまりの唇が、そっと動く。
誰にも届かない、小さな声で。
「……蓮さん」
「ひまり様。」
高瀬の柔らかな声に、ひまりははっと我に返る。
「あ……すみません。」
小さく頬を染めながら頭を下げる。
高瀬は何も尋ねず、ただ穏やかに微笑んだ。
ひまりは静かに応接室へ足を踏み入れた。
玄関で待っていた蓮が、車の鍵を指先で軽く回した。
「……はい。」
ひまりはバッグを抱え直し、その隣へ並ぶ。
外へ出ると、初夏の風が頬をなでた。
庭では昨日水をあげていた花が、朝日に照らされて静かに揺れている。
蓮が助手席のドアを開けてくれた。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
車に乗り込むと、ドアが閉まる音だけが小さく響いた。
エンジンがかかり、ゆっくりと車が走り出す。
住宅街を抜け、大きな通りへ出ても、ひまりは窓の外を眺めたままだった。
今日向かう場所。
そこには、自分の知らない七年間がある。
そう思うだけで胸が落ち着かなかった。
「緊張してる?」
前を向いたまま、蓮が聞く。
「……そんなに分かりますか?」
「うん。」
迷いのない返事に、思わず苦笑する。
「顔に出てました?」
「少しだけ。」
まただ。
家でも同じことを言われた。
「私、分かりやすいんですね。」
「うん。」
即答されてしまい、ひまりは小さく頬を膨らませる。
「もう。」
その横顔を見て、蓮がくすっと笑った。
その笑い声につられて、ひまりも笑ってしまう。
車の中に流れていた緊張が、少しだけほどけた。
しばらく走ると、信号で車が止まる。
蓮は静かに前を見つめたまま口を開く。
「今日は思い出そうとしなくていい。」
ひまりは蓮を見る。
「会社を見て、『俺がこんな場所で働いているんだ』って思うだけで十分だから。」
「……はい。」
「疲れたらすぐ帰ろう。」
その一言が、不思議なくらい心を軽くした。
「ありがとうございます。」
ありがとう。
その言葉しか出てこなかった。
会社へ行くことよりも、
自分を気遣ってくれることの方が、胸に残った。
やがて車は地下駐車場へ入る。
静かに車が止まり、蓮は先に降りると助手席のドアを開けた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
二人は並んで歩き出す。
地下駐車場からエントランスへ続くエレベーターに乗る。
上がるのはほんの数階。
扉が開いた。
一歩踏み出したひまりは、思わず足を止めた。
「……わぁ。」
自然と視線が上へ向く。
吹き抜けになった広いエントランス。
何階まであるのか分からないほど高い天井から、朝の光が降り注いでいる。
大きなガラス越しに差し込む光が床へ反射し、人々の足元をやさしく照らしていた。
出勤してくる社員たちが足早に行き交う。
それでも、不思議と騒がしさは感じない。
「会社……ですよね?」
思わず漏らすと、
蓮は隣で小さく笑った。
「会社だけど?」
「ホテルみたいです。」
「初めて来た時、俺も同じこと思った。」
その一言に、ひまりも思わず笑顔になる。
「おはようございます、藤堂さん。」
受付の女性が笑顔で頭を下げた。
「おはようございます。」
蓮も自然に微笑み返す。
歩き始めると、社員たちが次々に声を掛けてきた。
「おはようございます。」
「藤堂さん、おはようございます。」
「昨日はありがとうございました。」
蓮は急ぐことなく、そのたびに立ち止まる。
「おはよう。」
「昨日は遅くまでお疲れさま。」
ほんの一言。
それだけで、社員たちの表情が明るくなる。
ひまりは少し後ろを歩きながら、その様子を見つめていた。
(みんな……。)
蓮を見つけると自然に笑う。
肩書きに話し掛けるような堅さはない。
けれど馴れ馴れしさもない。
その距離感が心地よく見えた。
「藤堂さん。」
一人の男性社員が近づいてくる。
「少しだけ、お時間いいですか。」
「もちろん。」
蓮は歩みを止めた。
男性は資料を開き、何かを相談する。
蓮は途中で遮ることなく最後まで聞き、少しだけ考えてから短く答えた。
「それで進めよう。」
「ありがとうございます。」
男性社員は安心したように笑い、一礼して去っていく。
蓮は何事もなかったように歩き出した。
「……すごいですね。」
思わず口からこぼれた。
「何が?」
「皆さん、蓮さんを信頼してる。」
蓮は少し困ったように笑う。
「そうかな。」
「はい。」
照れくさそうに笑って、それ以上は何も言わない。
その姿が、ひまりには少し眩しく見えた。
「蓮様。」
落ち着いた女性の声が聞こえた。
二人が振り向くと、上品なスーツ姿の女性が歩いてくる。
「おはようございます、高瀬さん。」
「おはようございます。」
高瀬はひまりへ優しく一礼した。
「ひまり様、お待ちしておりました。」
「こちらへご案内いたします。」
その言葉に、ひまりは蓮を見上げる。
蓮は安心させるように微笑み、
「行こうか。」
と、小さく頷いた。
♢
高瀬に案内され、専用エレベーターへ乗り込む。
静かに扉が閉まり、ゆっくりと上昇を始めた。
数字が一つ、また一つと増えていく。
やがて、小さな電子音が鳴る。
扉が開いた。
一歩踏み出したひまりは、思わず息をのんだ。
足元には落ち着いた色合いの絨毯が敷かれ、歩いても足音はほとんど響かない。
ふわりと漂うのは、木と白い花を思わせる穏やかな香り。
静けさに包まれた空間は、さっきまでのエントランスとはまるで別世界だった。
廊下の正面に設えられた大きな窓から、街並みが一望できる。
建ち並ぶビルも、行き交う車も、遥か下に小さく見えた。
「……高い。」
思わずこぼれた声に、高瀬が穏やかに微笑む。
「こちらでございます。」
案内された先は、応接室だった。
高瀬が扉を開け、一歩下がる。
「ひまり様はこちらでお待ちください。」
「はい。」
返事をすると、蓮が優しく微笑んだ。
「少し仕事に行ってくる。」
「……はい。」
「終わったら迎えに来るから。」
ひまりは小さく頷く。
蓮は安心したように微笑み返し、静かに踵を返した。
その背中を、ひまりは何となく目で追う。
誰かとすれ違えば、軽く会釈を交わす。
足を止めることなく、穏やかな歩調で歩いていく。
やがて、その背中は廊下の角へ近づき――
静かに姿を消した。
その瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけ静かになった気がした。
ひまりの唇が、そっと動く。
誰にも届かない、小さな声で。
「……蓮さん」
「ひまり様。」
高瀬の柔らかな声に、ひまりははっと我に返る。
「あ……すみません。」
小さく頬を染めながら頭を下げる。
高瀬は何も尋ねず、ただ穏やかに微笑んだ。
ひまりは静かに応接室へ足を踏み入れた。


