Dear Darling

春香の墓を後にし、二人は静かに車へ乗り込んだ。

 エンジンがかかる。

 窓の外では、風に揺れる花が小さく頭を下げていた。

 ひまりはシートベルトを締めると、もう一度だけ墓地へ目を向ける。

 さっきまであふれていた涙は、不思議なくらい落ち着いていた。

 寂しさが消えたわけじゃない。

 会いたい気持ちがなくなったわけでもない。

 それでも胸の奥にあった大きなわだかまりは、少しだけ軽くなっていた。

 伝えたかった。

 ありがとう、と。

 事故の日、最後まで励ましてくれていた声は、ちゃんと届いていたことを。

 そして、ようやく伝えられた。

 蓮は何も言わず、ゆっくりと車を走らせる。

 その優しさが心地よかった。

 故郷の景色が、窓の向こうを流れていく。

 田んぼ。

 小さな商店。

 子どもの頃、母と歩いた歩道。

 高校へ通った道。

 一つひとつが懐かしく、自然と口元がほころぶ。

 しばらくは、お互い何も話さなかった。

 静かな時間だった。

 でも、その沈黙は少しも苦しくない。

 言葉がなくても、隣にいてくれるだけで十分だった。

 三十分ほど走った頃だった。

「ねぇ。」

 ひまりが小さく口を開く。

「ん?」

「……お腹すいた。」

 蓮が思わず笑う。

「泣いたからかな。」

 ひまりも少し照れくさそうに笑った。

「そうかも。」

 少しだけ間が空く。

「寄りたいお店があるの。」

「どんなお店?」

「高校の頃、春香とよく行ってたカフェ。」

 蓮は穏やかに頷いた。

「案内して。」

 ひまりはスマートフォンで地図を開き、道を案内する。

 住宅街を抜け、小さな坂を上る。

「ここ。」

 車は一軒のカフェの前で止まった。

 木の看板。

 赤茶色の屋根。

 窓辺には色とりどりの花が並んでいる。

「変わってない。」

 ひまりは嬉しそうに笑った。

 二人は店へ入る。

 ベルが澄んだ音を鳴らした。

「いらっしゃいませ。」

 店内には焼き菓子とコーヒーの香りが広がっている。

 落ち着いた木目のテーブル。

 窓から差し込む柔らかな西日。

 時間まで、あの頃のまま流れているようだった。

 ひまりはショーケースを眺めながら、小さく笑う。

「迷うなぁ。」

「まだ決まらない?」

「全部おいしそう。」

「それは困ったね。」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 ひまりは季節のタルトを。

 蓮はコーヒーを注文する。

「いただきます。」

 一口食べたひまりの頬が、ふわりと緩んだ。

「やっぱり、おいしい。」

 その笑顔を見て、蓮も静かにコーヒーカップを口元へ運ぶ。

 ふと、窓際の席へ目が留まる。

 高校生の頃、春香と並んで座っていた席。

 学校帰りに寄っては、他愛もない話をして笑い合った。

 タルトを食べながら、将来の夢を語り合ったこともあった。

 その光景が、昨日のことのように鮮やかによみがえった。

 胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 春香はもういない。

 それでも、この場所には確かに二人で過ごした時間が残っている。

 ――「おいしいね。」

 あの日と変わらない笑顔が、心の中で優しく微笑んだ気がした。

 ひまりも小さく微笑む。

 涙は、もうこぼれなかった。

 二人はゆっくりと時間を過ごした。

 何気ない話をして。

 笑って。

 また話して。

 そんな穏やかな時間が流れていく。

 店を出る頃には、西の空が茜色に染まり始めていた。

 二人は再び車へ乗り込む。

 故郷を離れ、高速道路へ入る頃には、空はゆっくりと藍色へ変わり始めていた。

 三時間あまりの帰り道。

 仕事のこと。

 さなさんのこと。

 次の休みに行きたい場所。

 思いつくまま話しては笑い、会話が途切れると静かな時間が流れる。

 その沈黙さえ、心地よかった。

 車窓に映る夜景を眺めながら、ひまりはふと呟く。

「今日ね。」

 蓮が優しく視線を向ける。

「ん?」

「春香に、ちゃんと『ありがとう』って言えた気がする。」

 蓮は何も言わず、小さく頷いた。

 その横顔が、とても穏やかだった。

「きっと。」

 ひまりは窓の外へ目を向けたまま、小さく微笑む。

「笑ってくれてるよね。」

 その問いかけに、蓮も静かに微笑む。

「ああ。」

「きっと。」

 短い言葉だった。

 それだけで十分だった。

 ひまりは安心したように目を閉じる。

 悲しみが消えたわけじゃない。

 会いたい気持ちも、これから先ずっと変わらないだろう。

 それでも今日、春香へ伝えた言葉は、確かに自分の心を前へ進ませてくれた。

 胸の奥に残っていた悲しみは、少しずつ温かな思い出へと姿を変え始めていた。

 窓の外には、満天の星空が広がっている。

 春香もどこかで、この星空を見ているのかもしれない。

 そんなことを思いながら、ひまりは静かに目を閉じた。

 隣では、蓮が変わらぬ優しさでハンドルを握っている。

 その横顔を見つめる。

 事故の日から今日まで。

 蓮は一度も急がせなかった。

 思い出してほしいと責めることもなかった。

 ただ、信じて待ち続けてくれた。

 だから今、こうして笑っていられる。

 ひまりはそっと右手を伸ばした。

 センターコンソールの上で、蓮の左手にそっと触れる。

 蓮は驚いたように一瞬だけ視線を向けると、その手を優しく包み込んだ。

 二人は顔を見合わせ、小さく微笑み合う。

 言葉はいらなかった。

 繋がれた手の温もりが、何よりの答えだった。

 家へ着いた頃には、辺りはすっかり夜になっていた。

 玄関の灯りが、静かに二人を迎えている。

 ひまりがバッグへ手を伸ばすと、蓮がそっと鍵を受け取った。

 何も言わずに玄関の扉を開き、一歩脇へよける。

「ありがとう。」

 ひまりは微笑み、家の中へ入る。

 見慣れた玄関。

 見慣れた廊下。

 見慣れた景色。

 あの日、この家へ帰ってきた時は、何もかもが知らないものだった。

 自分の家なのに、自分の家ではなかった。

 目の前にいる人が夫だと言われても、信じることができなかった。

 怖かった。

 不安だった。

 玄関へ立つだけで胸が締めつけられた、あの日。

 けれど今は違う。

 この家には笑顔があった。

 安心があった。

 そして、大切な人が待っていてくれる。

 だから今、こうして自然に帰ってくることができた。

 ひまりはゆっくりと息を吸い込む。

「ただいま。」

 その声は、穏やかで、とても温かかった。

 蓮は静かに微笑む。

 その笑顔を見つめながら、ひまりも笑った。

 そして、少し照れくさそうに口を開く。

「……蓮。」

 初めて、名前を呼ぶ。

 “さん”は、もう付いていなかった。

 蓮は一瞬だけ目を見開く。

 待ち続けていた、その呼び方だった。

 胸の奥が熱くなる。

 そっと一歩近づき、ひまりを優しく抱きしめた。

 ひまりも、その温もりに身を委ねる。

 聞こえてくる鼓動が、懐かしくて、温かい。

 もう迷いはなかった。

 ひまりは蓮の背中へ、そっと腕を回す。

 あの日は分からなかった、この温もり。

 今は、世界で一番安心できる場所だった。

 しばらくの間、二人は何も話さなかった。

 静かな家に、時計の針だけが時を刻んでいる。

 やがて蓮が、小さく微笑んだ。

「おかえり、ひまり。」

 ひまりは蓮の胸に頬を寄せたまま、小さく頷く。

「うん。」

 その一言には、たくさんの想いが込められていた。

 失った記憶。

 もう一度恋をした日々。

 悲しみも、涙も、すべて抱きしめながら。

 二人は、また新しい一歩を歩き始める。

 窓の外では、夜空に瞬く星が静かに輝いていた。

 その優しい光は、二人の未来をそっと照らしている。

 ――おかえり。

 その言葉は、家へ帰ってきたひまりへ。

 そして、ようやく本当の意味で蓮のもとへ帰ってきた、ひまりの心へ贈る言葉でもあった。

              ― 完 ―