Dear Darling

ホテルの中庭を、涼やかな風が吹き抜けていく。

 夏の暑さはやわらぎ、木々の葉が風に揺れるたび、心地よい葉擦れの音が響いた。

 ひまりはベンチに腰掛け、噴水から流れ落ちる水を静かに眺めていた。

 隣には蓮がいる。

 二人とも言葉はなかった。

 それでも、その沈黙は不思議と心地よかった。

 ひまりはゆっくりと息を吸い、小さく口を開く。

「……全部、思い出したの。」

 蓮の表情が止まる。

 その一言だけで十分だった。

 十七歳の記憶。

 失われていた7年。

 事故の日。

 そして、夫婦として過ごしたかけがえのない日々。

 そのすべてが、ひまりの中に戻ってきたのだと、蓮は悟った。

「……本当に?」

 震える声で問いかける。

 ひまりは静かに頷いた。

「うん。全部。」

 その短い返事に、蓮はそっと目を閉じた。

 どれほど、この瞬間を待ち続けてきただろう。

 何度も願い、何度も祈った。

 ようやく戻ってきた記憶。

 けれど、それは同時に、ひまりが再び親友を失う悲しみまで思い出したということでもあった。

 ひまりは空を見上げた。

 高く澄んだ空。

「ずっと心のどこかが苦しかった。」

「理由も分からないまま、胸に穴が開いているような気がしてた。」

 一筋の涙が頬を伝う。

「でも……分かった。」

「私は、春香を失ったんだね。」

 蓮は何も言わず、ひまりの手を包んだ。

 その温もりに、ひまりはそっと目を閉じる。

「泣いてばかりいたら、春香に叱られちゃう。」

 涙を拭いながら、小さく笑う。

 その笑顔は切なく、それでも前を向こうとしていた。

「お願いがあるの。」

 蓮は静かに頷く。

「春香のお墓参りに行きたい。」

 少し間を置いて、ひまりは続けた。

「ちゃんと、お別れをしたいの。」

 蓮は優しく頷いた。

「もちろん。」

「一緒に行こう。」

 ひまりは何も言わず、小さく頷く。

 そして、そっと蓮の手を握り返した。