Dear Darling

救急車が救命救急センターの搬入口へ滑り込んだ。

 後部ドアが開くと同時に、待機していた医師と看護師が一斉に駆け寄る。

「交通外傷です!」

 救急隊員の声が響いた。

「二十四歳女性。助手席乗車。正面衝突。搬送時より意識レベル低下。血圧低下傾向。腹部膨隆あり。酸素投与中、末梢ルート一本確保済みです。」

「引き継ぎます。」

 ストレッチャーはそのまま救命救急処置室へ運び込まれた。

「モニター装着。」

「ルートもう一本。」

「採血。クロスマッチも。」

「血圧九十切りました!」

 スタッフが次々と役割を果たしていく。

 医師は迷いなく腹部へ超音波プローブを当てた。

 モニターに黒い液体貯留像が映し出される。

「FAST陽性。」

 医師の表情が引き締まる。

「腹腔内出血です。」

「……緊急開腹。」

「オペ室へ連絡。輸血準備。」

 処置室の空気が一変する。

 ひまりは酸素マスクをつけたまま、微動だにしない。

 閉じた瞼は開くことなく、モニターの電子音だけが静かに鳴り続けていた。

     ◇

 会議室では、取引先との打ち合わせが続いていた。

 資料をめくる音だけが、静かに響いている。

 テーブルの上に伏せたスマートフォンが、小さく震えた。

 蓮は一瞬だけ視線を向ける。

 画面には――「お義母さん」の文字。

 ――あとで折り返そう。

 そう思い、再び視線を資料へ戻した。

 しかし、その直後。

 もう一度。

 そして、もう一度。

 短い間隔で着信が続く。

 胸の奥がざわついた。

 ――何かあったのか……?

 席を立ちかけた、その時だった。

「それでは次の資料ですが――」

 進行役の声が会議室に響く。

 取引先の視線が一斉に資料へ向く。

 この場を中断するわけにはいかなかった。

 蓮は胸騒ぎを押し込めるように、再び会議へ意識を戻した。

     ◇

「本日はありがとうございました。」

 会議が終わると同時に、蓮は足早に会議室を出た。

 廊下へ出るなり、スマートフォンを開く。

 不在着信 三件。

 すべて、お義母さんからだった。

 嫌な予感が背筋を駆け抜ける。

 急いで折り返すと、ワンコールで電話はつながった。

『……蓮さん。』

 震えた声だった。

「お義母さん、どうしたんですか。」

 受話器の向こうで、小さく息をのむ音が聞こえた。

『ひまりが……事故に遭ったの。』

 その一言で、蓮の思考が止まる。

『警察から連絡があって……。』

『今、病院で手術を受けてるの。』

 事故。

 手術。

 その二つの言葉だけが、頭の中で何度も反響する。

『何度も電話したの。』

『でも、つながらなくて……。』

『蓮さんのお母様にも連絡して、来てもらっているの。』

 その言葉で、蓮はようやく現実を受け止めた。

「……すぐ向かいます。」

 それだけを告げ、電話を切る。

 胸の鼓動だけが、激しく鳴り響いていた。

     ◇

 病院までは、高速道路を使っても三時間以上かかる。

 アクセルを踏み込んでも、その距離は縮まらない。

 ――どうして電話に出られなかった。

 ――どうして今日に限って。

 後悔ばかりが胸を締めつける。

 信号待ちのたびに時計へ目をやる。

 一分一秒が、もどかしかった。

 それでも今は、一秒でも早くひまりのもとへ駆けつけるしかない。

     ◇

 救命救急センターの廊下は、不気味なほど静まり返っていた。

 消毒液の匂いが漂い、足音だけが乾いた音を響かせる。

 廊下の奥。

 赤く灯る「手術中」のランプが、蓮の目に飛び込んできた。

 その前には、ひまりの母が俯いたまま椅子に座っていた。

 そして、その隣には、自分の母の姿もある。

「……母さん。」

 息を切らしながら近づくと、母は静かに立ち上がった。

 何も言わず、小さく頷くだけだった。

 蓮も何も尋ねない。

 母がここにいる理由は、聞かなくても分かっていた。

 ひまりの母がゆっくりと顔を上げる。

 泣き続けていたのだろう。

 目元は赤く腫れ、声もかすれていた。

「蓮さん……。」

 蓮は閉ざされた手術室の扉を見つめたまま尋ねる。

「……ひまりは。」

「まだ……手術中なの。」

 その一言に、蓮は小さく頷いた。

 それ以上、言葉は出てこなかった。

 三人はただ、赤く灯るランプを見つめ続ける。

 時計の秒針だけが、静まり返った廊下に規則正しく響いていた。

 一分が、ひどく長い。

 十分が、一時間にも感じられる。

 蓮は膝の上で両手を組んだ。

 強く握り締めているはずなのに、小さな震えだけはどうしても止められない。

 ――ひまり。

 お願いだ。

 帰ってきてくれ。

 今朝、電話で交わした何気ない会話が脳裏によみがえる。

 『気をつけて帰ってね。』

 その優しい声が、何度も耳の奥で繰り返された。

 もし今日、仕事が入っていなかったら。

 もし、あの場所へ一緒に行けていたら。

 そんな「もし」が、次から次へと胸を締めつける。

 蓮は唇を固く結び、震える拳をさらに強く握り締めた。

 そのときだった。

 廊下の奥から、血液製剤の入った保冷ケースを抱えた看護師が足早に駆けてくる。

 その先から、手術着姿の医師が慌ただしく歩み寄った。

「中の状況は?」

 医師が問いかける。

 看護師は足を止めることなく答えた。

「まだ止血に難渋しています。」

 二人はそのまま手術室へ入り、扉はすぐに閉じられた。

 再び静寂が戻る。

 蓮は閉ざされた扉を見つめたまま、一歩も動くことができなかった。

 震える手を、もう一度強く握り直す。

 それでも、その震えだけはどうしても止まらなかった。