Dear Darling

電車のドアが開く。

 懐かしい故郷の空気が、ふわりと頬を撫でた。

 ホームへ降り立つと、どこか懐かしい匂いが胸いっぱいに広がる。

 この街を離れてから、もう何年になるだろう。

 そんなことを思いながら改札を抜けた、その瞬間だった。

「ひまり!」

 聞き慣れた声に顔を上げる。

「春香!」

 二人は同時に駆け寄った。

「久しぶり!」

「全然変わってない!」

 思わず抱き合い、顔を見合わせて笑う。

「会いたかった。」

「私も!」

 それだけで、離れていた時間が一気に埋まっていく気がした。

「蓮さん、仕事だから一緒に来られなくて。」

 ひまりが少し申し訳なさそうに笑うと、春香はいたずらっぽく肩をすくめた。

「じゃあ今日は、私がひまりを独り占めだね。」

「ふふっ。」

 二人は肩を並べ、駅を後にした。

 駅前には新しい店が並び、歩道もきれいに整備されている。

「ずいぶん変わったね。」

「再開発したんだって。」

「へぇ。」

 驚きながら歩いていると、不意にひまりが足を止めた。

「でも……。」

 大きく息を吸い込む。

「この匂いは変わらない。」

 春香も同じように深呼吸をして笑った。

「分かる。」

「帰ってきたって感じがするよね。」

「うん。」

 二人は顔を見合わせ、笑い合った。

 商店街を歩きながら、高校時代の思い出話に花が咲く。

「覚えてる? 文化祭。」

 春香が吹き出す。

「クレープ屋さんやったやつ?」

「そう!」

「ひまり、生地を焦がして先生に怒られてた。」

「違うもん!」

 ひまりは頬を膨らませる。

「最初の一枚だけ!」

「あとの三枚も焦げてたよ?」

「えぇー!」

 二人は顔を見合わせ、大笑いした。

「あと、駅前のパン屋さん。」

「あー!」

「新作が出るたびに買ってた。」

「部活帰りに毎日のように寄ってたよね。」

 懐かしい景色を歩くだけで、次から次へと思い出があふれてくる。

 あの頃は、毎日が当たり前に続くと思っていた。

 気づけば昼になり、二人は昔から通っていた洋食店へ入った。

 店内は少しだけ新しくなっていたが、どこか懐かしい雰囲気は昔のままだった。

「いただきます。」

 運ばれてきたハンバーグから、湯気がふわりと立ち上る。

「懐かしい。」

「このデミグラスソース、変わらないよね。」

「うん、おいしい。」

 ひまりはひと口食べると、思わず頬を緩めた。

「この味、大好きだったな。」

「私も。」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 食後のドリンクを飲みながら、春香がふとひまりのバッグへ目を向けた。

「あれ?」

 バッグのポケットから少しだけのぞく栞に気づき、春香が嬉しそうに笑う。

「まだ持っててくれたんだ。」

 ひまりはバッグから栞を取り出し、少し照れくさそうに微笑んだ。

「もちろん。」

「ずっと使ってるよ。」

 春香は懐かしそうに目を細めた。

「卒業式の日に渡した栞。」

「離れちゃうひまりに、頑張れって気持ちを込めて選んだんだよね。」

 ひまりは栞へそっと指を滑らせる。

「覚えてる。」

「『本を開くたびに私を思い出してね』って言ってくれた。」

 春香は照れくさそうに笑った。

「そんな恥ずかしいこと言ったっけ。」

「言ったよ。」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 ひまりは栞を大切そうにバッグへしまった。

「この栞を見るたびに、春香も頑張ってるんだろうなって思ってた。」

 その言葉に、春香は嬉しそうに微笑む。

「じゃあ、プレゼントしたかいがあった。」

 少し間を置いて、春香がふとひまりを見つめた。

「そういえば、大翔とは連絡取ってるの?」

 ひまりは首を横に振った。

「ううん。」

「私が地元を離れることになったし、お互い遠距離は難しいだろうって話になって。」

 春香は静かに頷く。

「嫌いになって別れたわけじゃないんだよね?」

「うん。」

 ひまりは穏やかに微笑んだ。

「円満に別れたよ。」

「だから、あれ以来連絡も取ってないな。」

「そっか。」

 春香は安心したように笑う。

「でも、今は蓮さんがいるもんね。」

 ひまりは左手を見つめた。

 薬指にはめられた結婚指輪が、窓から差し込む陽射しを受けて静かに輝いている。

 自然と笑みがこぼれた。

「うん。」

「今の私は、すごく幸せ。」

 その一言に、春香も心から嬉しそうに微笑んだ。

「よかった。」

「本当によかった。」

 二人は店を出て、午後の柔らかな陽射しの中をゆっくり歩き始める。

 他愛もない話をしながら笑い合う、その時間が愛おしかった。

 この一日が、ずっと続くものだと信じていた。

 誰も、その数時間後に訪れる出来事を知ることなく――。

     ♢

店を出ると、春の日差しは少しだけ傾き始めていた。

「まだ電車まで時間あるよね?」

 春香が腕時計を見ながら言う。

「うん。」

「じゃあ、最後に寄りたいところがあるんだ。」

「どこ?」

「着いてからのお楽しみ。」

 春香はそう言って笑うと、助手席のドアを開けた。

「どうぞ、お客様。」

「ありがとうございます。」

 ひまりは笑いながら車へ乗り込む。

 ドアが閉まり、シートベルトを締める音が重なった。

 車はゆっくりと走り出す。

 住宅街を抜け、川沿いの道へ入ると、窓の外にはのどかな春の景色が広がっていた。

 ひまりは窓を少しだけ開ける。

 やわらかな春風が車内へ流れ込み、ふわりと髪を揺らした。

「気持ちいい。」

 目を細めるひまりに、春香も微笑む。

「今日は天気も最高だもんね。」

 しばらく走ると、春香は堤防沿いの空きスペースへ車を停めた。

「着いたよ。」

 車を降りたひまりは、思わず足を止める。

「わぁ……。」

 一面に広がる菜の花畑。

 黄色い花々が春風に揺れ、その向こうを穏やかな川がゆっくりと流れている。

「覚えてる?」

 春香が隣に並ぶ。

「もちろん。」

 二人は土手の上をゆっくり歩き始めた。

「高校を卒業したあとも来たよね。」

「来たね。」

「あの頃は、大人になるのが怖かったな。」

 春香が空を見上げる。

「でも、ちゃんと大人になれた。」

 ひまりもつられるように空を見上げた。

 澄み渡る青空。

 白い雲が、ゆっくりと流れていく。

「私ね。」

 ひまりは左手を胸の前へ添えた。

 薬指の結婚指輪が、春の日差しを受けて小さく輝く。

「仕事も頑張って。」

「蓮さんと笑って歳を重ねて。」

 少し照れくさそうに笑う。

「またここに来たいな。」

「今度は蓮さんと。」

 少しだけ間を置いて、照れくさそうに続けた。

「いつか子どもができたら、一緒に。」

 春香は何も言わず、その横顔を見つめていた。

 やがて、優しく微笑む。

「きっと素敵なお母さんになるよ。」

「そうかな。」

「うん。」

 その言葉に、ひまりも笑った。

 時計を見ると、帰りの電車まで三十分ほどだった。

「そろそろ駅まで送るね。」

「ありがとう。」

 二人は車へ戻る。

 エンジンが静かにかかる。

 助手席でシートベルトを締めながら、ひまりは窓の外へ目を向けた。

 黄色い菜の花が、春風に揺れている。

「また帰ってきたら会おうね。」

 春香が前を向いたまま言う。

「うん。」

「今度は蓮さんも一緒に。」

「絶対。」

 ひまりは笑顔で頷いた。

「約束。」

「約束。」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 車はゆっくりと堤防を下り、住宅街へ入っていく。

 穏やかな午後。

 信号が青へ変わり、春香は静かにアクセルを踏み込んだ。

 その瞬間だった。

 車道へ、一つのボールが転がる。

「あっ……!」

 春香が息をのむ。

 次の瞬間、小さな男の子が道路へ飛び出した。

「危ない!」

 春香は反射的にハンドルを右へ切る。

 タイヤがアスファルトを激しく軋ませた。

 車体が大きく傾く。

「春香!」

 ひまりの叫び声が響く。

 正面から、大型トラックが迫ってくる。

 耳をつんざくようなクラクション。

 避けられない――。

 轟音が、世界を引き裂いた。