ホテルのエントランスへ車が滑り込むと、蓮は静かにエンジンを切った。
「着いたよ。」
優しい声に、ひまりは窓の外へ視線を向ける。
藤堂グループ創立七十周年記念パーティー。
県内でも有数の格式を誇るホテルには、黒塗りの車が次々と到着し、正装した招待客がエントランスへ吸い込まれていく。
ひまりは小さく息を吸った。
「……すごい。」
「緊張する?」
隣を見ると、蓮が穏やかに笑っていた。
「少しだけ。」
「大丈夫。」
そう言って、蓮は助手席のドアを開ける。
差し出された手に、自分の手を重ねた。
車を降りた瞬間、ふわりとした風がドレスの裾をやさしく揺らした。
淡いアイボリーのドレス。
胸元には控えめな刺繍が施され、腰から流れる柔らかなシルエットがひまりによく似合っている。
蓮は思わず見入った。
「……すごく似合ってる。」
不意に向けられた言葉に、ひまりは照れたように笑う。
「ありがとう。」
その笑顔を見た蓮の表情も自然とほどけた。
「行こうか。」
「うん。」
二人が歩き出した、そのときだった。
「兄さん!」
背後から弾むような声が響く。
蓮が振り返る。
「あれ、もう来てたのか。」
背の高い青年が、人懐っこい笑顔で駆け寄ってきた。
「今日は珍しく遅刻してないじゃん。」
「失礼だな。」
軽く肩を小突かれた青年は、大げさに顔をしかめる。
「いやいや、兄さん仕事になると時間ぴったりすぎるから。」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん。」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのやり取りを見ていたひまりは、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「え……。」
蓮がひまりへ視線を向ける。
「ああ、紹介してなかったね。」
「え?」
「弟。」
「…………。」
一秒。
二秒。
「えぇぇぇーーっ!? 蓮さん、弟さんいたの!?」
思わず声が大きくなる。
青年は吹き出した。
「あります?その反応。」
「だって……聞いてない!」
「言う機会がなくて。」
蓮が少し困ったように笑う。
「兄さん、奥さんに俺の存在認知されてないじゃん。」
「忘れてたわけじゃ……。」
「忘れてましたよね?」
言い返せなくなった蓮に、ひまりまで笑ってしまう。
張り詰めていた緊張が、一気にほどけていく。
「初めまして。」
青年は姿勢を正した。
「圭です。兄がお世話になってます。」
「こちらこそ……。」
ひまりも慌てて頭を下げる。
短いやり取りのあと、三人は笑顔のまま会場へ足を踏み入れた。
豪華なシャンデリアが天井一面に輝き、会場には穏やかな弦楽四重奏の音色が流れている。
談笑する人々の声。
グラスが触れ合う澄んだ音。
華やかな空気に包まれながら、蓮は自然とひまりの歩幅に合わせて歩いていた。
「疲れたら、すぐ言って。」
「うん。」
その返事を聞き、蓮は安心したように頷く。
そのときだった。
「藤堂さん。」
どこか聞いたことのある男性の声に、蓮が振り返る。
濃紺のスーツを着た男性が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「お久しぶりです。」
「こちらこそ。」
二人は軽く握手を交わす。
「先日の案件ではありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ助かりました。」
仕事関係の相手なのだろう。
そう思いながら、ひまりも軽く会釈をした。
その瞬間だった。
男性の表情が止まる。
驚いたように目を見開き、ゆっくりと口を開いた。
「……ひまり。」
その呼び方に、ひまりははっと顔を上げる。
目が合う。
一瞬だけ、時が止まったような静寂が流れた。
「あ……。」
懐かしい笑顔だった。
高校時代、毎日のように隣で笑っていた人。
胸が小さく揺れる。
でも、その次の瞬間――
私は、蓮さんの妻なんだ。
その事実が胸をよぎり、どう声をかけていいのか分からなくなる。
視線が一瞬だけ揺れた。
けれど、大翔は昔と何も変わらない笑顔で笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、不思議と肩の力が抜ける。
「……大翔。」
自然と笑みがこぼれた。
「久しぶり。」
「……うん。久しぶり。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
「元気だった?」
「うん。大翔こそ?」
「見てのとおり。」
高校時代へ少しだけ戻ったような、懐かしい空気が流れる。
その様子を見つめながら、蓮は静かに微笑んでいた。
高校時代の友人なのだろう。
そのくらいにしか思っていなかった。
すると大翔は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「俺らが別れた後、全然連絡取らなかっただろ。」
その一言で、時間が止まる。
蓮の胸が、わずかに揺れた。
――別れた後。
それだけで十分だった。
この人が、ひまりの高校時代の恋人。
初めて知る事実だった。
驚きはあった。
それでも、胸は不思議なくらい静かだった。
ひまりが歩んできた人生には、自分の知らない時間がある。
それは、ごく当たり前のことだった。
蓮は何も言わず、二人を静かに見守る。
「時々思い出してたんだ。」
「ひまり、幸せでいるかなって。」
大翔はゆっくりと蓮へ視線を向けた。
そして、安心したように微笑む。
「良かったな、ひまり。」
「今、すごく幸せそうだ。」
その言葉に、未練も後悔もなかった。
ただ、昔大切だった人の幸せを心から願う、まっすぐな優しさだけがあった。
「ありがとう。」
少しの沈黙が流れる。
大翔は小さく息をつき、静かな声で続けた。
「だけど……春香のことは、本当に残念だったな。」
ひまりの笑顔が止まる。
「……残念?」
ゆっくりと首をかしげる。
「春香に……何があったの?」
大翔は目を見開いた。
「……え?」
戸惑いが、その表情に広がる。
「俺……なんかまずいこと言った?」
空気が変わる。
蓮はすぐにひまりへ視線を向けた。
顔色が少しずつ青ざめていく。
呼吸も浅くなっている。
「ひまり。」
そっと名前を呼ぶ。
返事はない。
蓮は大翔へ静かに視線を向けた。
「……ここでは話せない。」
短くそう告げると、ひまりの肩を優しく支えた。
「少し外へ行こう。」
ひまりは小さく頷くことしかできなかった。
◇
ホテルの中庭へ出ると、夜風がそっと二人を包み込んだ。
会場から漏れる弦楽四重奏の音色も、ここまで来るとかすかに聞こえるだけだった。
噴水の水音が、静かな夜に心地よく響いている。
蓮は歩みを止め、ひまりへ振り返った。
「ここなら、落ち着いて話せる。」
ひまりは小さく頷く。
まだ春香の名前が頭から離れなかった。
――春香に何があったの?
その答えを知るのが怖い。
けれど、知らなければ前へ進めない気もしていた。
蓮はそっと、ひまりの手を包み込む。
少し冷たくなっていたその手を、優しく温めるように。
「ひまり。」
「……うん。」
「これから話すことは……君にとって、とてもつらいことかもしれない。」
ひまりは蓮を見つめたまま、小さく息をのむ。
「でも、もう隠したくない。」
蓮は静かに続けた。
「君には知る権利がある。」
夜風が木々を揺らし、葉擦れの音が静寂に溶けていく。
蓮は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
「去年の春だった。」
その一言で、空気が変わる。
「俺はどうしても外せない仕事が入っていて……君を実家まで送ることができなかった。」
ひまりは何も言わず耳を傾ける。
「君は一人で電車に乗って帰った。」
「最寄り駅には、春香さんが迎えに来てくれていた。」
蓮は遠くを見つめるように視線を上げた。
「久しぶりに再会した二人は、昔話をしながら一日を過ごしたそうだ。」
噴水の水音だけが静かに流れる。
「俺も、その日は君が楽しそうでよかったと思っていた。」
蓮は言葉を切った。
握る手に、わずかに力が入る。
「……だけど。」
ひまりの胸が小さく震える。
蓮はゆっくりと口を開いた。
「その帰り道だった。」
その一言が静かな夜に溶けた瞬間――
ひまりの意識は、ゆっくりとあの日へ引き戻されていく。
見上げた春の空。
春香の笑顔。
そして――
あの帰り道。
止まっていた時間が、再び動き始めようとしていた。
「着いたよ。」
優しい声に、ひまりは窓の外へ視線を向ける。
藤堂グループ創立七十周年記念パーティー。
県内でも有数の格式を誇るホテルには、黒塗りの車が次々と到着し、正装した招待客がエントランスへ吸い込まれていく。
ひまりは小さく息を吸った。
「……すごい。」
「緊張する?」
隣を見ると、蓮が穏やかに笑っていた。
「少しだけ。」
「大丈夫。」
そう言って、蓮は助手席のドアを開ける。
差し出された手に、自分の手を重ねた。
車を降りた瞬間、ふわりとした風がドレスの裾をやさしく揺らした。
淡いアイボリーのドレス。
胸元には控えめな刺繍が施され、腰から流れる柔らかなシルエットがひまりによく似合っている。
蓮は思わず見入った。
「……すごく似合ってる。」
不意に向けられた言葉に、ひまりは照れたように笑う。
「ありがとう。」
その笑顔を見た蓮の表情も自然とほどけた。
「行こうか。」
「うん。」
二人が歩き出した、そのときだった。
「兄さん!」
背後から弾むような声が響く。
蓮が振り返る。
「あれ、もう来てたのか。」
背の高い青年が、人懐っこい笑顔で駆け寄ってきた。
「今日は珍しく遅刻してないじゃん。」
「失礼だな。」
軽く肩を小突かれた青年は、大げさに顔をしかめる。
「いやいや、兄さん仕事になると時間ぴったりすぎるから。」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん。」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのやり取りを見ていたひまりは、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「え……。」
蓮がひまりへ視線を向ける。
「ああ、紹介してなかったね。」
「え?」
「弟。」
「…………。」
一秒。
二秒。
「えぇぇぇーーっ!? 蓮さん、弟さんいたの!?」
思わず声が大きくなる。
青年は吹き出した。
「あります?その反応。」
「だって……聞いてない!」
「言う機会がなくて。」
蓮が少し困ったように笑う。
「兄さん、奥さんに俺の存在認知されてないじゃん。」
「忘れてたわけじゃ……。」
「忘れてましたよね?」
言い返せなくなった蓮に、ひまりまで笑ってしまう。
張り詰めていた緊張が、一気にほどけていく。
「初めまして。」
青年は姿勢を正した。
「圭です。兄がお世話になってます。」
「こちらこそ……。」
ひまりも慌てて頭を下げる。
短いやり取りのあと、三人は笑顔のまま会場へ足を踏み入れた。
豪華なシャンデリアが天井一面に輝き、会場には穏やかな弦楽四重奏の音色が流れている。
談笑する人々の声。
グラスが触れ合う澄んだ音。
華やかな空気に包まれながら、蓮は自然とひまりの歩幅に合わせて歩いていた。
「疲れたら、すぐ言って。」
「うん。」
その返事を聞き、蓮は安心したように頷く。
そのときだった。
「藤堂さん。」
どこか聞いたことのある男性の声に、蓮が振り返る。
濃紺のスーツを着た男性が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「お久しぶりです。」
「こちらこそ。」
二人は軽く握手を交わす。
「先日の案件ではありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ助かりました。」
仕事関係の相手なのだろう。
そう思いながら、ひまりも軽く会釈をした。
その瞬間だった。
男性の表情が止まる。
驚いたように目を見開き、ゆっくりと口を開いた。
「……ひまり。」
その呼び方に、ひまりははっと顔を上げる。
目が合う。
一瞬だけ、時が止まったような静寂が流れた。
「あ……。」
懐かしい笑顔だった。
高校時代、毎日のように隣で笑っていた人。
胸が小さく揺れる。
でも、その次の瞬間――
私は、蓮さんの妻なんだ。
その事実が胸をよぎり、どう声をかけていいのか分からなくなる。
視線が一瞬だけ揺れた。
けれど、大翔は昔と何も変わらない笑顔で笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、不思議と肩の力が抜ける。
「……大翔。」
自然と笑みがこぼれた。
「久しぶり。」
「……うん。久しぶり。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
「元気だった?」
「うん。大翔こそ?」
「見てのとおり。」
高校時代へ少しだけ戻ったような、懐かしい空気が流れる。
その様子を見つめながら、蓮は静かに微笑んでいた。
高校時代の友人なのだろう。
そのくらいにしか思っていなかった。
すると大翔は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「俺らが別れた後、全然連絡取らなかっただろ。」
その一言で、時間が止まる。
蓮の胸が、わずかに揺れた。
――別れた後。
それだけで十分だった。
この人が、ひまりの高校時代の恋人。
初めて知る事実だった。
驚きはあった。
それでも、胸は不思議なくらい静かだった。
ひまりが歩んできた人生には、自分の知らない時間がある。
それは、ごく当たり前のことだった。
蓮は何も言わず、二人を静かに見守る。
「時々思い出してたんだ。」
「ひまり、幸せでいるかなって。」
大翔はゆっくりと蓮へ視線を向けた。
そして、安心したように微笑む。
「良かったな、ひまり。」
「今、すごく幸せそうだ。」
その言葉に、未練も後悔もなかった。
ただ、昔大切だった人の幸せを心から願う、まっすぐな優しさだけがあった。
「ありがとう。」
少しの沈黙が流れる。
大翔は小さく息をつき、静かな声で続けた。
「だけど……春香のことは、本当に残念だったな。」
ひまりの笑顔が止まる。
「……残念?」
ゆっくりと首をかしげる。
「春香に……何があったの?」
大翔は目を見開いた。
「……え?」
戸惑いが、その表情に広がる。
「俺……なんかまずいこと言った?」
空気が変わる。
蓮はすぐにひまりへ視線を向けた。
顔色が少しずつ青ざめていく。
呼吸も浅くなっている。
「ひまり。」
そっと名前を呼ぶ。
返事はない。
蓮は大翔へ静かに視線を向けた。
「……ここでは話せない。」
短くそう告げると、ひまりの肩を優しく支えた。
「少し外へ行こう。」
ひまりは小さく頷くことしかできなかった。
◇
ホテルの中庭へ出ると、夜風がそっと二人を包み込んだ。
会場から漏れる弦楽四重奏の音色も、ここまで来るとかすかに聞こえるだけだった。
噴水の水音が、静かな夜に心地よく響いている。
蓮は歩みを止め、ひまりへ振り返った。
「ここなら、落ち着いて話せる。」
ひまりは小さく頷く。
まだ春香の名前が頭から離れなかった。
――春香に何があったの?
その答えを知るのが怖い。
けれど、知らなければ前へ進めない気もしていた。
蓮はそっと、ひまりの手を包み込む。
少し冷たくなっていたその手を、優しく温めるように。
「ひまり。」
「……うん。」
「これから話すことは……君にとって、とてもつらいことかもしれない。」
ひまりは蓮を見つめたまま、小さく息をのむ。
「でも、もう隠したくない。」
蓮は静かに続けた。
「君には知る権利がある。」
夜風が木々を揺らし、葉擦れの音が静寂に溶けていく。
蓮は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
「去年の春だった。」
その一言で、空気が変わる。
「俺はどうしても外せない仕事が入っていて……君を実家まで送ることができなかった。」
ひまりは何も言わず耳を傾ける。
「君は一人で電車に乗って帰った。」
「最寄り駅には、春香さんが迎えに来てくれていた。」
蓮は遠くを見つめるように視線を上げた。
「久しぶりに再会した二人は、昔話をしながら一日を過ごしたそうだ。」
噴水の水音だけが静かに流れる。
「俺も、その日は君が楽しそうでよかったと思っていた。」
蓮は言葉を切った。
握る手に、わずかに力が入る。
「……だけど。」
ひまりの胸が小さく震える。
蓮はゆっくりと口を開いた。
「その帰り道だった。」
その一言が静かな夜に溶けた瞬間――
ひまりの意識は、ゆっくりとあの日へ引き戻されていく。
見上げた春の空。
春香の笑顔。
そして――
あの帰り道。
止まっていた時間が、再び動き始めようとしていた。


