Dear Darling

翌日。

 蓮はいつもと変わらぬ朝を過ごし、仕事へ向かった。

     ◇

 夕方。

 仕事を終えた蓮は、会社を出ると車を花屋へ走らせた。

 店先には、季節の花々が夕陽を浴びてやわらかく揺れている。

 店内をゆっくり見渡す。

 華やかすぎるものではない。

 大きすぎるものでもない。

 今日、この想いを託すのにふさわしい花を、一つひとつ丁寧に選んでいく。

「こちらでお包みしますね。」

「お願いします。」

 花束を受け取ると、蓮は小さく礼を言った。

 助手席へそっと置き、静かに車を走らせる。

 昨夜。

 眠ってしまったひまりの寝顔を見ながら決めた。

 待つだけでは終わらない。

 今度は、自分が一歩踏み出そうと。

     ◇

 車がゆっくりと藤堂家の門をくぐる。

 手入れの行き届いた庭を抜け、車寄せに車を止めた。

 エンジンを切ると、小さく息をつく。

(大丈夫。)

 自分に言い聞かせるように、そう呟いた。

 玄関の扉を開ける。

 吹き抜けのエントランスホールは、夕暮れの柔らかな光に包まれていた。

 廊下の奥から足音が近づいてくる。

「おかえりなさい。」

 ひまりだった。

 やわらかな笑顔を見るだけで、自然と肩の力が抜ける。

「ただいま。」

 並んで長い廊下を歩く。

 何気ないこの時間が、今は何より愛おしかった。

「今日は少し早かったんだね。」

「うん。仕事が予定より早く終わったから。」

「そっか。」

 他愛もない会話。

 それだけなのに、不思議と心が満たされる。

 玄関へ戻ると、蓮は車のキーを手に取った。

「少し出かけない?」

 ひまりは少し驚いたように目を丸くする。

「今から?」

「うん。」

 理由は聞かない。

 ただ、蓮さんがそう言うなら。

「いいよ。」

 その笑顔に、蓮も穏やかに笑い返した。

     ◇

 助手席のドアを開ける。

「どうぞ。」

「ありがとう。」

 ひまりが乗り込もうとした、その時。

「あ、ごめん。」

 助手席に置いたままだった花束に気づき、蓮は苦笑した。

「忘れてた。」

 花束をそっと後部座席へ移す。

「きれいなお花。」

 ひまりが振り返る。

「誰かに渡すの?」

 蓮はエンジンをかけながら、小さく笑った。

「あとで分かるよ。」

「そうなんだ。」

 仕事のお付き合いかな。

 そんなふうに思っただけで、それ以上は聞かなかった。

 車は静かに走り出す。

 夕暮れの街を抜け、少しずつ見慣れた景色が遠ざかっていく。

 住宅街を抜けると、街路樹が続く道へ入った。

「今日は少し遠く?」

「そんなに遠くないよ。」

 穏やかな音楽が車内に流れる。

 昨日、一緒に聴いた曲とは違う。

 それでも心地よくて、ひまりは窓の外へ目を向けた。

 流れる景色を眺めているうちに、どこか見覚えのある並木道が現れる。

「この道……。」

 胸の奥が、小さくざわめいた。

 やがて車はゆっくり速度を落とし、大きな門の前で止まる。

 ひまりは窓の外を見つめ、小さく息をのんだ。

「……大学?」

 エンジンが止まる。

 夕暮れに染まるキャンパスは、静かに二人を迎えていた。

「少し歩こうか。」

「うん。」

 二人は車を降りる。

 蓮は後部座席から花束を取り出した。

(やっぱり、誰かに会うのかな。)

 そう思いながら、ひまりは蓮の隣を歩き始めた。

 風が木々を揺らす。

 夕暮れのキャンパスは人影もまばらで、石畳を踏む足音だけが静かに響いていた。

「あ……。」

 目の前に広がる芝生を見た瞬間、一冊の日記が頭に浮かぶ。

『今日は大学の芝生で、蓮さんっていう人と出会った。』

 何度も読み返した、あの日の日記。

「ここ……。」

 思わず立ち止まる。

「日記に書いてあった場所……。」

 蓮も足を止めた。

「覚えてた?」

 ひまりは小さく首を振る。

「ううん。」

 少し照れたように笑う。

「覚えてたんじゃなくて、読んだの。」

「私の日記。」

「蓮さんと初めて会った場所だって。」

 蓮は安心したように微笑んだ。

「そっか。」

 それ以上、何も言わない。

 思い出してほしかったわけじゃない。

 今のひまりと、この場所へ来たかった。

 ただ、それだけだった。

「座ろうか。」

「うん。」

 二人は昔と同じように芝生へ腰を下ろす。

 夕陽に照らされた空は、少しずつ茜色を深めていた。

 心地よい沈黙が流れる。

 話さなくても、不思議と落ち着く。

 蓮はそっと花束へ視線を落とした。

(大丈夫。)

(もう、迷わない。)

 昨夜、自分に誓った想いを胸に。

 蓮は静かに花束を手に取った。

「ひまり。」

 その声に、ひまりはゆっくりと振り向いた。

蓮は花束を両手で持ち、ひまりへ向き直った。

「ここは、俺たちが初めて出会った場所。」

 ひまりは小さく頷く。

「日記で読んだから……知ってる。」

「うん。」

 蓮は穏やかに微笑んだ。

「昔のひまりは、この場所でよく笑ってた。」

 夕暮れの空を見上げる。

「俺も、たくさん笑ってた。」

 風が芝生を優しく揺らした。

「でも。」

 蓮はもう一度、ひまりへ視線を戻す。

「今日ここへ来たのは、昔を思い出してほしかったからじゃない。」

 ひまりは黙って耳を傾けている。

「今のひまりと、もう一度ここへ来たかった。」

 その言葉に、ひまりの瞳が静かに揺れた。

「記憶が戻っても。」

「戻らなくても。」

「今、俺の隣で笑ってくれるひまりが好きなんだ。」

 蓮は花束をそっと差し出した。

「受け取ってくれる?」

 ひまりは戸惑いながら両手を伸ばし、花束を受け取る。

 優しい花の香りが、ふわりと風に乗った。

「ひまり。」

 蓮は静かに言葉を続ける。

「君と出会ってから、毎日が特別になった。」

「笑う日も。」

「泣く日も。」

「何気ない毎日も。」

「全部、君がいたから幸せだった。」

 ひまりの瞳に涙が滲む。

「事故の日から。」

「君はたくさん苦しんだ。」

「不安だったと思う。」

「怖かったと思う。」

「それでも。」

「君は今日まで、一歩ずつ前を向いて歩いてきた。」

「その姿を、俺はずっと見てきた。」

 蓮は優しく微笑んだ。

「だから。」

「もう一度、伝えさせてほしい。」

 ひまりは花束を胸に抱き寄せる。

 蓮はまっすぐにひまりを見つめた。

「ひまり。」

「これから先も。」

「嬉しい日も。」

「悲しい日も。」

「君の隣で、一緒に笑って、一緒に歳を重ねていきたい。」

 一瞬、世界から音が消えたようだった。

 風だけが、静かに二人を包んでいる。

「ひまり。」

「俺と、結婚してください。」

 ひまりは花束を抱きしめたまま、何も言えなかった。

 涙が頬を伝う。

 嬉しい。

 胸がいっぱいで、言葉が見つからない。

「……ごめんなさい。」

 やっとこぼれた声に、蓮は静かに首を振る。

「謝らなくていい。」

 その優しさが、また涙を誘う。

 ひまりは涙を拭い、小さく笑った。

「……変な返事だよね。」

 蓮も少しだけ笑う。

「うん。」

「私たち……もう夫婦なのに。」

 二人で顔を見合わせる。

 自然と笑みがこぼれた。

 笑いながら、ひまりはもう一度蓮を見つめる。

「記憶を失って目が覚めた時。」

「家も。」

「指輪も。」

「蓮さんも。」

「全部知らないものばかりだった。」

 花束を抱く手に、少しだけ力が入る。

「怖かった。」

「何も思い出せなくて。」

「本当に、この人が私の旦那さんなんだろうかって。」

 ひまりはゆっくりと息をついた。

「でも。」

「毎日、一緒にご飯を食べて。」

「お話をして。」

「笑って。」

「気づいたら。」

 涙がこぼれる。

「蓮さんが笑うと嬉しくて。」

「隣にいると安心して。」

「もっと一緒にいたいって思うようになって。」

 少し照れながら笑う。

「私。」

「もう一度。」

「蓮さんに恋をしました。」

 蓮は何も言えなかった。

 胸が熱くなる。

 ただ、その言葉を大切に受け止める。

 ひまりは花束をぎゅっと抱きしめる。

「だから。」

「私も。」

「もう一度。」

 まっすぐ蓮を見つめる。

「蓮さんのお嫁さんになりたい。」

 蓮はゆっくりと微笑んだ。

「……ありがとう。」

 その一言に、すべての想いが込められていた。

 二人はしばらく見つめ合う。

 夕風が、そっと二人の間を通り抜ける。

 蓮が少し照れたように笑う。

「……キスしてもいい?」

 ひまりは目を丸くした。

 でも、その問いかけが嬉しかった。

 今の自分の気持ちを、大切にしてくれている。

 少しだけ頬を染めながら、小さく頷いた。

「……うん。」

 蓮はそっとひまりの頬へ手を添える。

 そして、唇へ優しく触れるだけのキスをした。

 本当に一瞬だった。

 唇が離れると、ひまりは真っ赤になって花束で顔を隠す。

「ひまり?」

 花束の向こうから、小さな声が聞こえる。

「……恥ずかしい。」

 蓮は思わず吹き出した。

「顔、隠れてる。」

「だって……。」

 花束の向こうで笑うひまりにつられ、蓮も笑う。

 二人の笑い声が、夕暮れのキャンパスへ静かに溶けていった。

 もう一度始まった恋は、あの日と同じ場所で、未来への約束へと変わった。