Dear Darling

朝のダイニングに、焼きたてのパンの香りが広がっていた。

 テーブルには、ひまりが手際よく並べた朝食が並ぶ。

「できたよ。」

 エプロン姿のひまりが、少し得意そうに笑った。

「ありがとう。」

 向かいに座ると、蓮は自然と「いただきます」と手を合わせる。

 一口食べる。

 優しい味だった。

「今日も美味しい。」

 その一言に、ひまりは照れたように笑う。

「よかった。」

 その笑顔を見るたびに思う。

 ――もう、それだけでいい。

 何気ない朝を、こうしてまた迎えられる。

 それだけで十分だった。

 朝食を終えると、ひまりは食器を片付け始める。

「洗い物、やるよ。」

 そう声を掛けると、ひまりは首を横に振った。

「大丈夫。これくらい一人でできる。」

 少しだけ誇らしげなその表情に、蓮は微笑む。

「分かった。」

 手伝わない。

 それも、今の蓮にできる大切なことだった。

 “できる”という自信を、奪いたくない。

 だから、少し離れた場所から見守る。

 それでいい。

 書斎へ向かい、仕事を始める。

 パソコンを開き、メールを確認し、資料へ目を通す。

 いつもと変わらない午前中。

 それでも、ときどき視線は窓の外へ向いてしまう。

 庭では、ひまりが花壇の前にしゃがみ込んでいた。

 咲き始めた花を見つめ、時折、小さく笑っている。

 その姿を見るたび、自然と肩の力が抜けた。

 仕事の合間、ふとスマートフォンが震える。

 画面には、ひまりからのメッセージ。

『ねぇ、蓮さん。庭のバラ、一つ咲いたよ🌹』

 思わず笑みがこぼれる。

 すぐに返信する。

『午後、見に行く。』

 数秒後。

『約束ね😊』

 その短いやり取りだけで、仕事への足取りまで軽くなった。

 昼前、玄関のチャイムが鳴った。

 さなさんがやって来たのだ。

「こんにちは。」

「さなさん!」

 ひまりの弾んだ声が聞こえる。

 その声につられて書斎を出ると、さなさんが優しく微笑んだ。

「蓮さん。」

「こんにちは。」

「最近のひまりさん、とてもいい顔をしていますね。」

 蓮は静かに頷く。

「そうですね。」

 それ以上の言葉は出なかった。

 笑顔が戻ってきた。

 料理をして。

 花を見て笑う。

 その姿を見ているだけで、心が満たされる。

 記憶は、急がなくていい。

 思い出そうとしなくてもいい。

 今、目の前にいるひまりが笑っている。

 それだけで、幸せだから。

 夜。

 屋敷は静かな眠りに包まれていた。

 寝室のドアが控えめにノックされる。

 コン、コン。

「どうぞ。」

 蓮が声を掛けると、ゆっくりとドアが開いた。

 パジャマ姿のひまりが、少し照れたように立っていた。

「蓮さん。」

「うん?」

 ひまりは両手を胸の前で重ね、小さく息を吸う。

「……今日は、一緒のお部屋で寝てもいい?」

 一瞬、鼓動が大きく鳴る。

 それでも蓮は、いつものように穏やかに微笑んだ。

「うん。」

 その一言に、ひまりの表情がふわりと和らぐ。

「ありがとう。」

 照れくさそうに笑うその顔を見て、蓮も自然と笑みをこぼした。

 二人は同じベッドへ腰を下ろす。

 少しだけ距離を空け、それぞれが心地よい場所を見つける。

 蓮はベッドサイドのスタンドを少しだけ暗くすると、文庫本を手に取った。

 そして、ワイヤレスイヤホンを耳につける。

 ページを一枚めくる。

 隣では、ひまりが静かに蓮を見つめていた。

 本を読む横顔。

 長い指先。

 ページをめくるたびに動く、その手まで目が離せない。

 少しだけ迷ったあと、ひまりはそっと手を伸ばした。

 蓮のパジャマの袖を、指先で軽く引く。

 くいっ。

 その小さな感触に、蓮は顔を上げた。

 イヤホンを片方外し、優しく微笑む。

「どうした?」

 ひまりはイヤホンを指差した。

「それ……何を聴いてるの?」

 蓮は少し照れたように笑った。

「最近、よく聴いてる曲。」

「Mrs. Pineapple?」

「うん。」

 一呼吸おいて、曲名を口にする。

「『Dear Darling』。」

 ひまりは少し身を乗り出した。

「私も聴いてみたい。」

「いいよ。」

 蓮は外したイヤホンをひまりへ差し出す。

「ありがと。」

 耳につけた瞬間、優しい歌声が静かに流れ始めた。

 穏やかなメロディー。

 どこか切なく、それでいて温かい歌詞。

 ひまりは目を閉じ、小さく微笑んだ。

「……素敵な曲だね。」

 蓮はその横顔を見つめ、柔らかく頷く。

「うん。」

 その一言だけで十分だった。

 言葉よりも、同じ音楽を分け合う時間が心地よかった。

 やがて、隣から規則正しい寝息が聞こえてくる。

 そっと視線を向けると、ひまりはイヤホンをつけたまま眠っていた。

 蓮は思わず小さく笑う。

「寝ちゃったか。」

 起こさないようにイヤホンを外し、充電ケースへ戻す。

 肩まで布団を掛け直し、頬にかかった髪を指先でそっと払った。

 穏やかな寝顔を見つめながら、その頬を優しくひと撫でする。

「……おやすみ、ひまり。」

 小さく囁くと、蓮はスタンドの灯りを消した。

 暗闇の中、ひまりは安心したように小さく寝返りを打つ。

 その寝顔は、少しだけ笑っているように見えた。

 蓮は静かに目を細める。

 この笑顔を守りたい。

 焦らなくていい。

 急がなくていい。

 君が君の歩幅で前を向ける日まで。

 僕は、いつまでも待っている。

 静かな夜が、更けていった。