Dear Darling

よく晴れた休日の朝。

窓の外では、庭木の葉が風に揺れていた。

ダイニングには焼きたてのトーストの香りが広がり、淹れたばかりのコーヒーから白い湯気が立ちのぼる。

向かいに座る蓮は、コーヒーカップを口元へ運びながら静かに言った。

「今日、俺の実家へ行かない?」

ひまりはスープを口に運ぼうとした手を止める。

「……蓮さんのご実家?」

「うん。」

蓮は小さく頷いた。

「父さんも母さんも、ひまりに会いたがってる。」

その言葉に、胸の奥が小さく波打つ。

結婚した記憶はない。

だから、蓮の両親に会うのも、ひまりの中では初めてに近かった。

スプーンをそっと皿へ戻し、少しだけ視線を落とす。

「……私が行っても、大丈夫?」

蓮は優しく笑った。

「大丈夫。」

迷いのない声だった。

「母さん、ずっと楽しみにしてたから。」

ひまりはその言葉を胸の中でゆっくりと受け止める。

「……うん。」

小さく頷くと、蓮も安心したように微笑んだ。

窓から吹き込んだ風がレースのカーテンをふわりと揺らす。

その柔らかな風が、ひまりの緊張まで少しだけ運んでくれた気がした。

   ◇

車は住宅街を抜け、やがて緑の多い落ち着いた街並みへ入っていく。

助手席から流れる景色を眺めながら、ひまりは窓の外へ目を向けていた。

街路樹の木漏れ日がフロントガラスを流れ、規則正しく差し込む光が膝の上で組んだ両手を照らす。

その指先を、そっと握りしめた。

信号待ちで車が止まる。

「緊張してる?」

不意に蓮が尋ねた。

ひまりは少し照れたように笑う。

「……少しだけ。」

「大丈夫。」

また、その言葉だった。

事故のあと。

公園で倒れたあの日も。

蓮は同じ言葉をくれた。

――大丈夫。

たったそれだけなのに、不思議と心が落ち着く。

「俺の家族だから。」

穏やかな横顔のまま続ける。

「何も心配しなくていい。」

ひまりは返事の代わりに、小さく頷いた。

窓の外では、初夏の陽射しが街路樹を鮮やかに照らしている。

その光が車内へ差し込み、蓮の横顔を柔らかく包んでいた。

   ◇

藤堂家の門がゆっくりと開く。

広い庭には季節の花が咲き、芝は丁寧に手入れされていた。

派手さはない。

けれど、この家で積み重ねられてきた時間が静かに息づいている。

車を降りると、玄関の扉が開いた。

「いらっしゃい。」

柔らかな声。

エプロン姿のお義母さんが、優しく微笑んでいた。

「ひまりちゃん。」

その笑顔につられるように、ひまりも小さく頭を下げる。

「今日はお招きいただき、ありがとうございます。」

「そんなにかしこまらなくていいのよ。」

お義母さんは嬉しそうに笑った。

「来てくれただけで十分。」

その言葉に、ひまりの肩から少しだけ力が抜ける。

奥から足音が聞こえた。

「来たか。」

低く落ち着いた声。

お義父さんだった。

背筋を伸ばした姿には威厳がある。

ひまりは思わず姿勢を正した。

「体調はどうだ。」

「はい。おかげさまで、少しずつ。」

お義父さんは静かに頷く。

「無理はするな。」

短い一言。

それだけなのに、不思議と温かかった。

蓮が靴を揃えながら苦笑する。

「父さん、それさっきも聞いた。」

「……そうか。」

真面目な顔のまま返すお義父さんに、お義母さんが思わず笑う。

「あなた、本当にそれしか言わないんだから。」

その空気に、ひまりもつられて笑みをこぼした。

緊張していた胸が、少しだけ軽くなる。

   ◇

食卓には季節の料理が並んでいた。

「今日はね、お手伝いさんにはお休みをお願いしたの。」

「せっかくひまりさんが帰ってくるんですもの。」

「今日は、お義母さんとして腕を振るわせてちょうだい。」

お義母さんが小鉢をひまりの前へそっと置いた。

「ひまりさん、これ好きだったでしょう?」

ひまりは小鉢へ視線を落とした。

湯気とともに、優しい香りが立ちのぼる。

けれど、その料理を好きだった記憶は、どこにもなかった。

一瞬だけ返事に迷い、困ったように微笑む。

その表情を見たお義母さんは、はっとしたように目を見開いた。

「あら……私ったら。」

ひまりは慌てて首を横に振る。

「いただきます。」

箸を取り、一口そっと口へ運ぶ。

じんわりと広がる優しい味に、思わず目を細めた。

「……おいしい。」

その一言に、お義母さんの表情がふわりとほころぶ。

「本当に、おいしいです。」

ひまりは嬉しそうに微笑んだ。

「私……きっと、この味が好きだったんですね。」

お義母さんは何も言わず、小さく頷く。

その瞳は、どこか嬉しそうに潤んでいた。

「今日はたくさん食べてね。」

「はい。」

蓮は何も言わなかった。

ただ、ひまりの湯のみが少し空いていることに気付き、そっと急須を手に取る。

「ありがとう。」

ひまりが微笑む。

「うん。」

それだけのやり取り。

けれど、お義母さんはその様子を見て、小さく目を細めた。

昼食が終わり、食器が片付けられる。

庭では風鈴が、涼しげな音を鳴らしていた。

その音を聞きながら、お義父さんが蓮へ声をかける。

「蓮。」

「うん?」

「少し時間はあるか。」

「あるよ。」

「新規事業の資料が届いていてな。お前の意見も聞いておきたい。」

蓮は頷く。

「分かった。」

立ち上がりかけたその時、一瞬だけひまりへ視線を向けた。

その瞳には、わずかな気遣いが宿っている。

お義母さんはその視線を受け止めると、優しく微笑んだ。

「ゆっくり話していらっしゃい。」

蓮は小さく頷き、お義父さんとともに書斎へ向かった。

廊下を歩く足音が遠ざかる。

リビングには、時計の針が時を刻む音だけが静かに響いていた。

お義母さんは湯のみへ温かいお茶を注ぎ直す。

立ちのぼる湯気が、午後の光の中へゆっくりと溶けていく。

「ひまりちゃん。」

穏やかな声だった。

「こっちへいらっしゃい。」

窓際のソファへ腰を下ろすと、庭の木々が風に揺れるのが見えた。

レースのカーテンがふわりと膨らみ、柔らかな陽射しが二人の足元へ静かに広がっていく。

お義母さんは、その景色をしばらく眺めていた。

まるで、言葉を探しているように。

やがて、そっと湯のみを置く。

初夏のやわらかな陽射しが、サイドボードに飾られた二人のウエディングフォトを静かに照らしていた。

静かな時間が流れたあと、お義母さんはゆっくりと口を開いた。

「事故のあとね。」

「先生から、腹部を強く損傷していると説明を受けたの。」

「すぐに手術になって……。」

その先は少しだけ言葉が途切れる。

「手術室の前でね。」

「蓮と、お母さまと私、三人で、ただ祈ることしかできなかった。」

「どれくらい時間が経ったのかしら。」

「本当に長かった。」

少し目を伏せ、お義母さんは続けた。

「先生が出ていらしてね。」

『手術は無事に終わりました。』

その一言に、三人で胸をなで下ろしたのも束の間だった。

『まだ予断を許さない状態です。』

『あとは、ご本人の生命力を信じるしかありません。』

その言葉を聞いても、蓮は取り乱さなかった。

深く頭を下げて、

「ありがとうございました。」

ただ、それだけを口にしたの。

ひまりは小さく息をのむ。

「何日経っても、意識は戻らなかった。」

「朝は仕事へ行く前に。」

「夜は仕事が終わってから。」

「あの子は毎日病院へ通っていたの。」

「病室ではね、仕事の話をしたり、お天気の話をしたり。」

「何でもない話ばかり。」

お義母さんは、ふっと優しく笑った。

「でも、一度も――」

『早く目を覚まして。』

「そう言ったことはなかった。」

「いつも同じ言葉だけ。」

『待ってる。』

『焦らなくていい。』

『帰っておいで。』

ひまりの視界が滲む。

眠る自分のそばで、

「待ってる。」

そう語りかける蓮の姿が、なぜか胸の奥に浮かんだ。

お義母さんは静かに息をつき、遠くを見つめるように微笑んだ。

「……私はね。」

「何度も願ったの。」

ひまりは顔を上げる。

「どうか、この子を蓮のところへ返してくださいって。」

その一言が、静かに胸へ落ちた。

お義母さんはそっとひまりの隣へ座り、その手を優しく包み込む。

「……ごめんなさい。」

ひまりの声は震えていた。

お義母さんは、ゆっくりと首を横に振る。

「謝ることなんて、何もないのよ。」

そして、ひまりの手をもう一度優しく握った。

「……頑張ったわね。」

その一言で、張りつめていたものが音もなくほどけていく。

涙が止まらなかった。

「本当によく頑張った。」

しばらく二人は何も話さなかった。

庭の風鈴だけが、涼やかな音を響かせている。

やがて、お義母さんが穏やかに微笑んだ。

「ひまりちゃん。」

「帰ってきてくれて、ありがとう。」

ひまりは声にならないまま、小さく頷いた。

その時、廊下から足音が聞こえた。

書斎から戻ってきた蓮だった。

ひまりの赤くなった目に気づき、一瞬だけ心配そうな表情を浮かべる。

けれど、何も聞かなかった。

「帰ろうか。」

その一言に、ひまりは涙を拭って微笑む。

「……うん。」

車が静かに走り出す。

しばらく流れる穏やかな沈黙。

膝の上に置いたひまりの手に、そっと温もりが重なる。

蓮の手だった。

ひまりはその手を見つめる。

そして、ゆっくりと握り返した。

蓮も、何も言わない。

ただ、その手を優しく握り返す。

ひまりは、その温もりを離さなかった。