Dear Darling

休日の朝。

朝食を終えた二人は、近所の公園まで散歩に出かけていた。

六月の柔らかな風が木々を揺らし、芝生では子どもたちの笑い声が響いている。

「気持ちいいですね。」

ひまりが空を見上げる。

「うん。今日は散歩日和だね。」

並んで歩く時間は、どこか穏やかだった。

ベンチに腰を下ろすと、小さな男の子が犬を追いかけて走っていく。

「かわいい……。」

思わず頬が緩む。

蓮もその横顔を見て、小さく笑った。

「子ども、好き?」

「はい。見てるだけで元気をもらえます。」

「そっか。」

風が吹く。

木漏れ日が揺れる。

遠くでは子どもたちがサッカーボールを追いかけていた。

「元気ですね。」

「ほんとだ。」

その時だった。

「わっ!」

一人の男の子が蹴ったボールが、勢いよく転がってくる。

ころころ、と芝生の上を転がり、ひまりの足元で止まりそうになった。

「あ。」

ひまりはしゃがみ込み、手を伸ばす。

けれど、指先が少しだけ届かない。

ボールはするりと逃げるように後ろへ転がっていった。

「あ……ごめんなさい。」

「大丈夫。」

蓮が笑って立ち上がる。

「俺が取るよ。」

軽く駆け寄り、ボールを拾う。

「ありがとう、お兄ちゃん!」

男の子が嬉しそうに駆け寄ってくる。

蓮は笑顔でボールを渡した。

「はい。次はもう少し優しく蹴ろうね。」

「はーい!」

子どもたちはまた元気に走っていく。

蓮はその背中を見送りながら、自然と振り返った。

──ひまり。

その瞬間。

ひまりが、膝から崩れ落ちていった。

「ひまり!」

返事はない。

肩が小刻みに震えている。

蓮は駆け寄り、ひまりの前へしゃがみ込んだ。

焦点の合わない瞳が、震えながら宙をさまよう。



耳の奥で、高い音が鳴る。

キィ──────ン。

息が吸えない。

胸が苦しい。

冷たい。

寒い。

どうして。

どうしてこんなに怖いの。

視界が揺れる。

芝生が遠くなる。

誰かが叫んでいる。

誰……?

わからない。

──危ない!

キキッ――

耳を裂くような音。

ガシャン。

赤。

怖い。

怖い。

「……っ」

声が出ない。

身体が動かない。

助けて。

助けて。

助けて!

何が怖いのかも分からない。

なのに、

涙だけが止まらない。



「ひまり!」

その声だけは、はっきり聞こえた。

「ひまり、俺だ。」

蓮はひまりをそっと抱き寄せる。

左腕で震える背中を包み込み、右手を後頭部へ添えた。

逃げ場をなくすためではなく、

「もう大丈夫だ」と伝えるように。

「大丈夫。」

耳元で静かに告げる。

「大丈夫だ。ゆっくり息を吸って。」

ひまりの呼吸は浅く速い。

蓮は背中をゆっくりとさすり続けた。

「そう……。」

「そのままでいい。」

ひまりの肩が小さく上下する。

少しだけ空気が肺に入る。

もう一度。

もう一度。

「そう。」

蓮は安心させるように優しく言った。

「上手だ。」

その声だけを頼りに、

ひまりは少しずつ呼吸を取り戻していく。

耳鳴りが遠ざかる。

ぼやけていた景色の中で、最初にはっきり見えたのは蓮の顔だった。

張りつめていたものが、一気にほどける。

「……っ、ごめ……なさい……。」

涙があふれた。

止めようとしても止まらない。

蓮は後頭部に添えた手をそのままに、ひまりを静かに抱きしめ続ける。

「謝らなくていい。」

その短い一言だけが、今のひまりには十分だった。

しばらくして、呼吸はゆっくりと落ち着きを取り戻した。

公園にはまた子どもたちの笑い声が響いている。

さっきボールを追いかけていた男の子が、不安そうにこちらを見つめていた。

「お兄ちゃん……お姉ちゃん、大丈夫?」

蓮は優しく微笑む。

「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう。」

男の子はほっとしたように笑い、友達のもとへ走っていった。

ひまりはその後ろ姿を見送り、小さく息を吐く。

「ボールを見た瞬間……急に苦しくなって……。」

「うん。」

「何が怖いのか、自分でも分からないんです……。」

蓮は何も聞かなかった。

答えを探そうともしない。

ただ、ひまりの隣にいる。

それだけだった。

少し風が吹く。

木々の葉がやさしく揺れる。

「帰ろうか。」

「……はい。」

二人はゆっくり立ち上がった。

帰り道。

会話はほとんどない。

それでも沈黙は、不思議と苦しくなかった。

しばらく歩いたところで、ひまりの足が止まる。

蓮が振り返る。

ひまりはそっと蓮の袖に触れた。

離れないように。

確かめるように。

指先がゆっくりと袖を滑り、蓮の手へ重なる。

恐る恐る。

小さく。

その手を握った。

蓮は何も言わない。

ただ、その細い手を優しく包み返す。

「帰ろう。」

「……はい。」

ひまりは少しだけ力を込めた。

その温もりだけは、不思議なくらい怖くなかった。

夕暮れの街を、二人の影がゆっくりと並んで伸びていく。

繋いだ手は、家に着くまで一度も離れることはなかった。