Dear Darling

目覚ましが鳴る少し前、ひまりはゆっくりと目を開けた。

 枕元の時計に目を向ける。

「……起きられた。」

 小さく笑ってベッドを降りる。

 カーテンを開けると、朝のやわらかな光が部屋いっぱいに広がった。

 身支度を整え、一階へ下りる。

 静かなリビングを通り抜け、キッチンへ向かう。

 昨日、さなさんと開けた引き出し。

 お椀も、お箸も、味噌も、ちゃんと見つかった。

「よかった。」

 ほっと息をついて、エプロンの紐を結ぶ。

 お米を炊飯器にセットし、鍋にだしを張る。

 包丁を握ると、不思議なくらい手が迷わない。

 母と並んで立った台所。

 何度も作った朝ごはん。

 その時間だけは、今もちゃんと残っていた。

 味噌汁を火にかけ、鮭を焼く。

 最後は卵焼き。

 卵液を流し込み、そっと巻いていく。

「よし……。」

 もう一度、卵液を流す。

 じゅっ、と少しだけ大きな音がした。

「あっ。」

 火を弱めながら、思わず笑う。

「卵焼き、焦げないでね。」

 誰に聞かせるでもない、小さなお願い。

 その声に、廊下へ出た蓮が足を止めた。

 今日は少し寝坊した。

 急いでキッチンへ向かおうとした、その時だった。

 包丁の音。

 味噌汁の香り。

 そして、聞き覚えのないはずなのに、胸が熱くなる独り言。

 蓮は足音を忍ばせて階段を下りる。

 朝日に照らされたキッチン。

 ひまりは卵焼きをお皿に移すと、少し首をかしげた。

「……うん。」

 自分で合格を出したように笑う。

 その笑顔に、蓮は思わず頬を緩めた。

 ひまりが振り返る。

「あっ。」

 目が合った。

「お、おはようございます。」

「……おはよう。」

 ひまりは少し照れながら、お皿を食卓へ運ぶ。

「もう少しでできますから。」

 蓮はその後ろ姿を見つめたまま、小さく笑った。

「……見ててもいい?」

 ひまりは振り返って目をぱちぱちさせる。

「え?」

「そのまま。」

 一瞬きょとんとしたあと、ひまりは照れくさそうに笑った。

「そんなに見られると、卵焼きが緊張しちゃいます。」

 一拍置いて、蓮も笑う。

「じゃあ……卵焼きに気付かれないように見る。」

 思わず吹き出すひまり。

「それ、難しいです。」

 朝のキッチンに、小さな笑い声が広がった。

ひまりは笑いながら首を横に振った。

「もう、本当に見てるんですね。」

「うん。」

「手伝わないんですか?」

 そう尋ねると、蓮は少し考えるように視線を落とした。

「手伝いたい。」

 その一言に、ひまりの手が止まる。

「でも……。」

 蓮は穏やかに笑った。

「今日は、ひまりに任せたい。」

 その言葉に、ひまりは小さく頷く。

「はい。」

 味噌汁をお椀によそい、ご飯を盛りつける。

 最後に焼き鮭と卵焼きを並べると、食卓は温かな湯気で満たされた。

「できました。」

 蓮は嬉しそうに椅子を引く。

 二人で向かい合って座る。

「いただきます。」

 声が重なった。

 蓮は味噌汁をひと口飲み、ほっと息をつく。

 ひまりは箸を持ったまま、その様子をそっと見つめていた。

「……どうですか?」

 少しだけ不安そうな声。

 蓮は顔を上げる。

「おいしい。」

 その一言だけだった。

 でも、その表情を見て、ひまりの肩から力が抜ける。

「よかった。」

 自然と笑みがこぼれた。

蓮は卵焼きを口に運ぶ。

 ひまりも同じように一切れ食べる。

「あっ。」

 小さく声を漏らした。

「ちょっと焼きすぎちゃいました。」

 蓮は卵焼きを見つめ、それからふっと笑う。

「さっき、お願いしてたもんね。」

「え?」

「『卵焼き、焦げないでね』って。」

 一瞬、時が止まる。

 ひまりはみるみる頬を赤くした。

「……聞こえてたんですか?」

「うん。」

 蓮は何でもないことのように頷く。

「ちゃんとお願い、届いてたよ。」

「もう……。」

 ひまりは恥ずかしそうに顔を伏せる。

「独り言だったのに……。」

 その様子がおかしくて、蓮は小さく笑った。

「ごめん。」

 そう言いながらも、少しも悪いと思っていないような笑顔だった。

 ひまりは照れ隠しに卵焼きを口へ運ぶ。

「忘れてください。」

「無理かな。」

 即答だった。

 ひまりは「もう」と小さく笑いながら、さらに頬を赤くする。

 そんなひまりを見つめる蓮の表情は、さっきまでのいたずらっぽい笑顔とは少し違っていた。

 目を細め、愛おしいものを見るように、静かに微笑んでいる。

 その視線に気づいたひまりは、不思議そうに首をかしげる。

「どうしました?」

 蓮はゆっくり首を横に振る。

「……ううん。」

 それ以上は何も言わず、味噌汁をひと口飲んだ。