Dear Darling

翌朝。

 ひまりがリビングへ下りると、キッチンから小さな音が聞こえてきた。

 トントン、と包丁の音。

「おはようございます。」

 声を掛けると、エプロン姿の蓮が振り返った。

「おはよう。」

 フライパンには半熟の目玉焼き。

 トースターからは、こんがりと焼けたパンの香りが漂っている。

「蓮さんが作ったんですか?」

「簡単なものだけね。」

 少し照れたように笑う蓮を見て、ひまりも思わず笑みがこぼれた。

「私、お皿出します。」

「ありがとう。食器は上の棚だよ。」

 棚を開ける。

 どれを使えばいいのか一瞬迷ったが、蓮が「あ、それで大丈夫」と声を掛けてくれた。

 それだけで少し安心する。

 二人で朝食を並べる。

 目玉焼き。

 サラダ。

 トースト。

 温かいコーヒーと牛乳。

「いただきます。」

 向かい合って食べる朝食は、まだ少しぎこちない。

 それでも、昨日より会話が増えていた。

「今日も暑くなりそうですね。」

「そうだね。」

「お仕事、大変ですか?」

「忙しいけど、大丈夫。」

 短い会話。

 けれど、不思議と心地よかった。

 朝食を終えると、蓮は時計に目をやった。

「そろそろ行くね。」

「はい。」

 玄関まで見送る。

 靴を履いた蓮が振り返る。

「困ったことがあったら電話して。」

「分かりました。」

 一呼吸おいて、ひまりは微笑んだ。

「行ってらっしゃい。」

 蓮も笑う。

「行ってきます。」

 ドアが閉まり、車の音が遠ざかる。

 家の中は、急に静かになった。

「……広いな。」

 思わず独り言がこぼれる。

 ◇

 洗濯機の終了音が鳴った。

「あ、終わった。」

 洗濯かごを抱え、ベランダへ出る。

 白いワイシャツを広げる。

 袖が風を受けて揺れた。

「毎日これを着て、お仕事に行くんだ。」

 ぽつりとつぶやく。

 隣には、自分の淡い色のブラウス。

 二人分の洗濯物が並ぶ景色が、少しだけ新鮮だった。

 ◇

 9時前、インターホンが鳴った。

「おはようございます。」

「おはようございます、さなさん。」

 いつもの柔らかな笑顔。

 買い物袋を両手に提げている。

「今日は暑いですねぇ。」

「はい。」

 二人でキッチンへ向かう。

 野菜を冷蔵庫へしまいながら、さなさんが振り返った。

「ひまりちゃん、この家で困ってることはない?」

 ひまりは少し考え、小さく笑った。

「実は……あります。」

「何かしら?」

「料理はできるんです。でも、この家のキッチンが分からなくて。」

 そう言うと、自分でも少し恥ずかしくなった。

「お味噌はどこなのか、お醤油はどこなのか……。」

「そういうことだったの。」

 さなさんは優しく笑う。

「じゃあ今日は、お家のキッチンを探検しましょうか。」

「探検?」

「ええ。」

 その言葉に、ひまりも自然と笑顔になった。

 ◇

「ここがお味噌。」

「はい。」

「お砂糖とお塩は間違えないように並べてあるの。」

「なるほど。」

「お米はここ。」

「はい。」

「普段使いのお茶碗はこの棚。」

 一つひとつ、さなさんが教えていく。

 ひまりは何度もうなずきながら、その場所を確かめた。

「蓮さん、朝はコーヒーを飲まれるの。」

「そうなんですね。」

「豆はここ。ミルはこの引き出し。」

 引き出しを開けると、コーヒーの香りがふわりと広がった。

「いい匂い……。」

「毎朝この香りがすると、一日が始まる気がするのよ。」

 ひまりは静かにうなずいた。

 この家には、この家の朝がある。

 そのことを少しずつ知っていく。

 ふと、さなさんが優しく尋ねた。

「明日の朝、お味噌汁だけでも作ってみる?」

 ひまりは驚いたように目を瞬かせた。

「私が……ですか?」

「大丈夫。分からないことがあったら、今から一緒に練習しましょう。」

 ひまりはキッチンを見回した。

 まだ知らない場所ばかり。

 でも、不思議と怖くはなかった。

「……はい。」

 ゆっくりとうなずく。

「やってみたいです。」

 その返事に、さなさんは目を細めた。

「きっと、蓮さん喜ぶわ。」

 ひまりは照れくさそうに笑う。

「うまくできるか分からないですけど。」

「大丈夫。」

 さなさんは味噌汁のお椀を棚から取り出しながら言った。

「料理はね、誰かに食べてもらいたいって気持ちが、一番のおいしい調味料なの。」

 その言葉を聞いたひまりは、小さく「はい」と返事をした。

 明日の朝。

 このキッチンに立つ自分を、少しだけ想像していた。