「ひまり、呼んできますね。」
食器を整えていたさなさんに、蓮が声を掛けた。
「さなさん、今日はもう上がってください。お疲れさまでした。」
「ありがとうございます。あとはお願いしますね。」
さなさんは穏やかに微笑み、玄関へ向かった。
扉が静かに閉まる。
家の中には、二人だけの穏やかな時間が流れ始めた。
蓮は二階へ上がり、ひまりの部屋の前で足を止める。
コンコン。
「ひまり。」
優しく声を掛ける。
「そろそろ夕飯をいただこう。」
「……はい。」
扉が開き、ひまりが顔を覗かせた。
二人は並んで階段を下りる。
⸻
食卓には、さなさんが作ってくれた夕食が並んでいた。
「今日の肉じゃが、おいしいですね。」
ひまりが箸を進めながら微笑む。
「さなさん、今日は少し甘めに味付けしてくれたみたい。」
「本当ですね。ほっとする味です。」
「うん。」
静かな食卓。
テレビもつけず、聞こえるのは食器の触れ合う小さな音だけ。
ひまりは時折、何かを考えるように箸を止めていた。
(何か、あったのかな。)
今日は一緒に会社へ行った。
久しぶりの外出で、思うことがあったのかもしれない。
そう思ったが、蓮は聞かなかった。
話したくなったら、ひまりから話してくれる。
今は、それでいい。
食後。
蓮はキッチンでコーヒー豆を挽く。
ガリ、ガリ、と豆を挽く音が静かなリビングに響く。
その間に、お湯を沸かし、ティーポットへ茶葉を入れる。
ふわりと優しい紅茶の香りが立ちのぼった。
蓮はティーカップをひまりの前へ置く。
「はい、ひまり。」
「ありがとうございます。」
「今日はセイロンにしたよ。」
「いい香り……。」
ひまりは両手でカップを包み、そっと目を閉じた。
蓮は自分のコーヒーを手にソファへ腰を下ろす。
しばらくは誰も話さない。
時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。
やがて、ひまりが口を開く。
「あの……。」
「今日、日記を読んだんです。」
蓮は静かに頷く。
「大学一年生の頃の日記でした。」
「そう。」
「毎週木曜日が楽しみって書いてあって。」
「本を読んで……。」
「なんだか、とても楽しそうでした。」
蓮は懐かしそうに微笑む。
「楽しかったよ。」
少しの沈黙。
ひまりは紅茶を見つめたまま、小さく尋ねた。
「大学時代の私たちって……どんな感じだったんですか?」
蓮はコーヒーカップを静かに置く。
話してもいいのだろうか。
思い出せないひまりに、過去を話すことが負担にならないだろうか。
ほんの一瞬だけ迷う。
けれど、ひまりの瞳は「知りたい」という気持ちでまっすぐ蓮を見つめていた。
蓮は小さく笑う。
「……少しだけ話そうか。」
ひまりは嬉しそうに頷いた。
「木曜日になるとね。」
「講義の空き時間は、いつも芝生の大きな木の下にいた。」
「芝生……。」
「うん。」
「風が気持ちよくてね。」
「ひまりは本を読むのが好きだったから、空き時間になると、いつもそこで本を読んでた。」
「私らしいですね。」
少し照れたように笑うひまりに、蓮もつられて笑う。
「お昼になると、二人でカフェテリアへ行った。」
「窓際にカウンター席があって。」
「いつもそこに並んで座ってた。」
「窓の外を見ながら、本の話をしたり、他愛ない話をしたり。」
「ひまりは決まって紅茶。」
「俺はコーヒー。」
「ひまり、いつもセイロンだった。」
その瞬間だった。
ふわり。
カップから立ちのぼる香りが、ひまりを包み込む。
――秋の日差しが差し込む大学のカフェテリア。
窓際のカウンター席。
大きな窓の向こうでは、色づき始めた木々が風に揺れている。
隣には蓮。
私は両手で紅茶のカップを包み込み、嬉しそうに笑っていた。
「ここのセイロン、おいしいですよ。」
「そう?」
「はい。私、この香りが好きなんです。」
蓮はコーヒーカップを手に、窓の外を眺めながら微笑む。
「じゃあ、俺も今度飲んでみようかな。」
「だめです。」
思わず笑ってしまう。
「なんで?」
「蓮さんはコーヒーじゃないと。」
「そういうもの?」
「そういうものです。」
二人の笑い声が重なる。
私はバッグから手帳を取り出した。
その間には、一枚の雑誌の切り抜きが挟まっている。
『素敵な靴を履くと、素敵な場所へ連れて行ってくれる。』
その記事を蓮へ見せながら、夢中で話す。
「私、この言葉が大好きなんです。」
「出版社で働いて、本を作る仕事がしたい。」
「誰かの人生を少しだけ変えられるような、本を作ってみたいんです。」
隣で蓮が優しく笑う。
「ひまりなら、きっとなれるよ。」
――その笑顔が、胸いっぱいに広がった。
「あ……。」
ひまりの手が止まった。
「ひまり?」
蓮は静かに名前を呼ぶ。
「今、一瞬……見えました。」
胸に手を当てながら、ゆっくりと言葉を探す。
「大学のカフェテリア。」
「窓際の席で……蓮さんと並んで座っていました。」
蓮は何も言わず、ひまりの続きを待つ。
「私……。」
「蓮さんに、雑誌の切り抜きを見せていました。」
ひまりは目を閉じる。
「出版社で働きたいって。」
「本を作る仕事がしたいって。」
「そう話していました。」
静かな沈黙が流れる。
ひまりはゆっくり目を開いた。
「……そこまでです。」
「その先は、思い出せません。」
蓮は穏やかに微笑んだ。
「十分だよ。」
ひまりは少し驚いたように蓮を見る。
「一つ思い出せた。」
「それだけで十分。」
その一言に、ひまりの肩からふっと力が抜けた。
「不思議ですね。」
「香りだけで思い出すなんて。」
「記憶って、案外そういうものなのかもしれない。」
蓮は静かにコーヒーを口に運ぶ。
ひまりも、もう一度セイロンティーを口にした。
その横顔はいつもと変わらず穏やかだった。
「今日は、ありがとうございました。」
ひまりが静かに頭を下げる。
「大学時代のこと。」
「少し知ることができて、嬉しかったです。」
蓮は優しく微笑んだ。
「俺も。」
短い言葉だった。
けれど、その一言にはたくさんの想いが込められていた。
しばらく二人は何も話さず、それぞれの飲み物を口にする。
静かな夜。
窓の外では虫の声が聞こえ始めていた。
やがて、ひまりが立ち上がる。
「今日は、もう休みます。」
「うん。」
蓮も立ち上がった。
二人は並んで廊下を歩く。
ひまりの部屋の前で足を止めると、ひまりが振り返った。
「あの……。」
「明日も日記、読んでいいですか?」
蓮は迷うことなく頷いた。
「もちろん。」
その返事を聞いたひまりは、ほっとしたように笑う。
「ありがとうございます。」
「おやすみなさい。」
「おやすみ、ひまり。」
部屋の扉が静かに閉まる。
蓮はその扉をしばらく見つめていた。
部屋の中から物音が聞こえる。
着替えをしているのだろう。
その音を聞いてようやく安心し、ゆっくりと階段を下りた。
リビングへ戻る。
誰もいない静かな部屋。
飲みかけのコーヒーは、もう少し冷めていた。
蓮はソファへ腰を下ろす。
静寂の中で、今日の出来事を思い返す。
『大学のカフェテリア。』
『窓際の席で……蓮さんと並んで座っていました。』
『出版社で働きたいって。』
ひまりの声が、何度も胸の中で響く。
「……思い出してくれた。」
その一言が、静かな部屋へ溶けていく。
ほんの一欠片。
それでも確かに、ひまり自身の記憶だった。
蓮はゆっくりと目を閉じる。
張りつめていたものが、少しだけほどけていく。
そっと目頭を押さえた。
熱いものが込み上げる。
けれど、声は漏らさない。
「焦らなくていい。」
小さく呟く。
「少しずつでいいから。」
今日、一欠片。
明日は、また別の一欠片。
それを一緒に集めていけばいい。
蓮は静かに笑った。
「ありがとう、ひまり。」
誰もいないリビングに、その声だけが優しく残った。
食器を整えていたさなさんに、蓮が声を掛けた。
「さなさん、今日はもう上がってください。お疲れさまでした。」
「ありがとうございます。あとはお願いしますね。」
さなさんは穏やかに微笑み、玄関へ向かった。
扉が静かに閉まる。
家の中には、二人だけの穏やかな時間が流れ始めた。
蓮は二階へ上がり、ひまりの部屋の前で足を止める。
コンコン。
「ひまり。」
優しく声を掛ける。
「そろそろ夕飯をいただこう。」
「……はい。」
扉が開き、ひまりが顔を覗かせた。
二人は並んで階段を下りる。
⸻
食卓には、さなさんが作ってくれた夕食が並んでいた。
「今日の肉じゃが、おいしいですね。」
ひまりが箸を進めながら微笑む。
「さなさん、今日は少し甘めに味付けしてくれたみたい。」
「本当ですね。ほっとする味です。」
「うん。」
静かな食卓。
テレビもつけず、聞こえるのは食器の触れ合う小さな音だけ。
ひまりは時折、何かを考えるように箸を止めていた。
(何か、あったのかな。)
今日は一緒に会社へ行った。
久しぶりの外出で、思うことがあったのかもしれない。
そう思ったが、蓮は聞かなかった。
話したくなったら、ひまりから話してくれる。
今は、それでいい。
食後。
蓮はキッチンでコーヒー豆を挽く。
ガリ、ガリ、と豆を挽く音が静かなリビングに響く。
その間に、お湯を沸かし、ティーポットへ茶葉を入れる。
ふわりと優しい紅茶の香りが立ちのぼった。
蓮はティーカップをひまりの前へ置く。
「はい、ひまり。」
「ありがとうございます。」
「今日はセイロンにしたよ。」
「いい香り……。」
ひまりは両手でカップを包み、そっと目を閉じた。
蓮は自分のコーヒーを手にソファへ腰を下ろす。
しばらくは誰も話さない。
時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。
やがて、ひまりが口を開く。
「あの……。」
「今日、日記を読んだんです。」
蓮は静かに頷く。
「大学一年生の頃の日記でした。」
「そう。」
「毎週木曜日が楽しみって書いてあって。」
「本を読んで……。」
「なんだか、とても楽しそうでした。」
蓮は懐かしそうに微笑む。
「楽しかったよ。」
少しの沈黙。
ひまりは紅茶を見つめたまま、小さく尋ねた。
「大学時代の私たちって……どんな感じだったんですか?」
蓮はコーヒーカップを静かに置く。
話してもいいのだろうか。
思い出せないひまりに、過去を話すことが負担にならないだろうか。
ほんの一瞬だけ迷う。
けれど、ひまりの瞳は「知りたい」という気持ちでまっすぐ蓮を見つめていた。
蓮は小さく笑う。
「……少しだけ話そうか。」
ひまりは嬉しそうに頷いた。
「木曜日になるとね。」
「講義の空き時間は、いつも芝生の大きな木の下にいた。」
「芝生……。」
「うん。」
「風が気持ちよくてね。」
「ひまりは本を読むのが好きだったから、空き時間になると、いつもそこで本を読んでた。」
「私らしいですね。」
少し照れたように笑うひまりに、蓮もつられて笑う。
「お昼になると、二人でカフェテリアへ行った。」
「窓際にカウンター席があって。」
「いつもそこに並んで座ってた。」
「窓の外を見ながら、本の話をしたり、他愛ない話をしたり。」
「ひまりは決まって紅茶。」
「俺はコーヒー。」
「ひまり、いつもセイロンだった。」
その瞬間だった。
ふわり。
カップから立ちのぼる香りが、ひまりを包み込む。
――秋の日差しが差し込む大学のカフェテリア。
窓際のカウンター席。
大きな窓の向こうでは、色づき始めた木々が風に揺れている。
隣には蓮。
私は両手で紅茶のカップを包み込み、嬉しそうに笑っていた。
「ここのセイロン、おいしいですよ。」
「そう?」
「はい。私、この香りが好きなんです。」
蓮はコーヒーカップを手に、窓の外を眺めながら微笑む。
「じゃあ、俺も今度飲んでみようかな。」
「だめです。」
思わず笑ってしまう。
「なんで?」
「蓮さんはコーヒーじゃないと。」
「そういうもの?」
「そういうものです。」
二人の笑い声が重なる。
私はバッグから手帳を取り出した。
その間には、一枚の雑誌の切り抜きが挟まっている。
『素敵な靴を履くと、素敵な場所へ連れて行ってくれる。』
その記事を蓮へ見せながら、夢中で話す。
「私、この言葉が大好きなんです。」
「出版社で働いて、本を作る仕事がしたい。」
「誰かの人生を少しだけ変えられるような、本を作ってみたいんです。」
隣で蓮が優しく笑う。
「ひまりなら、きっとなれるよ。」
――その笑顔が、胸いっぱいに広がった。
「あ……。」
ひまりの手が止まった。
「ひまり?」
蓮は静かに名前を呼ぶ。
「今、一瞬……見えました。」
胸に手を当てながら、ゆっくりと言葉を探す。
「大学のカフェテリア。」
「窓際の席で……蓮さんと並んで座っていました。」
蓮は何も言わず、ひまりの続きを待つ。
「私……。」
「蓮さんに、雑誌の切り抜きを見せていました。」
ひまりは目を閉じる。
「出版社で働きたいって。」
「本を作る仕事がしたいって。」
「そう話していました。」
静かな沈黙が流れる。
ひまりはゆっくり目を開いた。
「……そこまでです。」
「その先は、思い出せません。」
蓮は穏やかに微笑んだ。
「十分だよ。」
ひまりは少し驚いたように蓮を見る。
「一つ思い出せた。」
「それだけで十分。」
その一言に、ひまりの肩からふっと力が抜けた。
「不思議ですね。」
「香りだけで思い出すなんて。」
「記憶って、案外そういうものなのかもしれない。」
蓮は静かにコーヒーを口に運ぶ。
ひまりも、もう一度セイロンティーを口にした。
その横顔はいつもと変わらず穏やかだった。
「今日は、ありがとうございました。」
ひまりが静かに頭を下げる。
「大学時代のこと。」
「少し知ることができて、嬉しかったです。」
蓮は優しく微笑んだ。
「俺も。」
短い言葉だった。
けれど、その一言にはたくさんの想いが込められていた。
しばらく二人は何も話さず、それぞれの飲み物を口にする。
静かな夜。
窓の外では虫の声が聞こえ始めていた。
やがて、ひまりが立ち上がる。
「今日は、もう休みます。」
「うん。」
蓮も立ち上がった。
二人は並んで廊下を歩く。
ひまりの部屋の前で足を止めると、ひまりが振り返った。
「あの……。」
「明日も日記、読んでいいですか?」
蓮は迷うことなく頷いた。
「もちろん。」
その返事を聞いたひまりは、ほっとしたように笑う。
「ありがとうございます。」
「おやすみなさい。」
「おやすみ、ひまり。」
部屋の扉が静かに閉まる。
蓮はその扉をしばらく見つめていた。
部屋の中から物音が聞こえる。
着替えをしているのだろう。
その音を聞いてようやく安心し、ゆっくりと階段を下りた。
リビングへ戻る。
誰もいない静かな部屋。
飲みかけのコーヒーは、もう少し冷めていた。
蓮はソファへ腰を下ろす。
静寂の中で、今日の出来事を思い返す。
『大学のカフェテリア。』
『窓際の席で……蓮さんと並んで座っていました。』
『出版社で働きたいって。』
ひまりの声が、何度も胸の中で響く。
「……思い出してくれた。」
その一言が、静かな部屋へ溶けていく。
ほんの一欠片。
それでも確かに、ひまり自身の記憶だった。
蓮はゆっくりと目を閉じる。
張りつめていたものが、少しだけほどけていく。
そっと目頭を押さえた。
熱いものが込み上げる。
けれど、声は漏らさない。
「焦らなくていい。」
小さく呟く。
「少しずつでいいから。」
今日、一欠片。
明日は、また別の一欠片。
それを一緒に集めていけばいい。
蓮は静かに笑った。
「ありがとう、ひまり。」
誰もいないリビングに、その声だけが優しく残った。


