記憶の欠片

 教室を出ると、廊下の壁にもたれかかるようにして、日菜が立っていた。


 「……日菜?」


 声をかけると、ゆっくり顔を上げる。


 「愛梨……」


 その姿を見た瞬間。


 私は思わず笑ってしまった。


 「え?」


 日菜は不思議そうに首を傾げる。


 「だって……」


 額には汗。


 少し乱れた髪。


 そして、どこか放心したような表情。


 「そんなに怖かったの?」


 「怖かったよ……!」


 日菜は即答した。


 「だって急に後ろから来るんだもん……!」


 その必死な様子がおかしくて、私はまた笑ってしまう。


 すると。


 「ははっ」


 後ろから、別の笑い声が聞こえた。


 振り返る。


 そこには、壁に寄りかかって笑っている湊音くんがいた。


 「橘、逃げるの速すぎ」


 「だって怖かったんだもん!」


 「いや、あれはもう逃げるっていうより避難だっただろ」


 「ひどい!」


 そんな二人のやり取りを見て、また笑みがこぼれる。


 文化祭。


 こんなふうに誰かと笑い合う時間。


 それが、なんだかすごく新鮮だった。


 記憶を失ってから私はずっと、知らないことばかりだった。


 でも、こうして新しい思い出が増えていくことも、悪くないと思えた。


 それから私たちは、いろんなクラスの屋台を回った。


 焼きそばの匂い。


 わたあめの甘さ。


 どこかで流れる音楽と、笑い声。


 気づけば空は少しずつ色を変えていて、校舎に差し込む光も、柔らかくなっていた。


「……もうすぐ終わりだね」


 日菜が名残惜しそうに言う。


「うん。でも——」


 私は小さく笑う。


「二日目も、楽しもう」


 胸の奥に残るざわめきを抱えたまま、それでも、初夏の文化祭の余韻をもう少しだけ味わっていた。