記憶の欠片

 「星宮、悪いんだけどこれお願いできる?」


 先生から渡されたメモ。


 そこに書かれていたのは、布とテープの文字だった。


 「分かりました!」


 私はメモを握りしめ、職員室を出る。


 その時だった。


 廊下の先に、見覚えのある後ろ姿があった。


 黒い髪。


 少しだけ近寄りがたい雰囲気。


 「……月城くん?」


 声に反応して、彼が振り返る。


 「星宮」


 一瞬だけ、彼の表情が柔らかくなる。


 でも、それはすぐにいつもの落ち着いた顔に戻った。


 「買い出し?」


 「うん。布とテープ買いに行くの」


 そう言うと、彼は小さく頷いた。


 「俺も行くところ」


 その言葉を聞いた瞬間、自然と口から出ていた。


 「じゃあ、一緒に行かない?」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 彼は一瞬、目を伏せる。


 迷っているようだった。


 断られるかもしれない。


 そう思った時。


 「……」


 彼は小さく息を吐いて、困ったように笑った。


 「いいよ」


 その一言に、胸が少しだけ跳ねる。


 そして私たちは並んで歩き出した。


 夕日が差す階段を二人で降りる。


 文化祭準備の声が、遠くから聞こえる。


 いつもより少し騒がしい校舎。


 隣に月城くんがいるだけで、何気ない廊下の景色が少し違って見えた。


 そんなことを考えていた、その時だった。


 足元が、ふっと揺れる。


 「あ……」


 踏み出した足が、階段を捉え損ねた。


 身体が前へ傾く。


 次の瞬間。


 「…っ愛梨!」


 強く腕を引かれた。


 気づいた時には、私は彼の腕の中にいた。


 時間が止まったみたいだった。


 ステンドグラスから差し込む光が、踊り場を彩っている。


 赤、青、黄色。


 色とりどりの光が、私たち二人を包んでいた。


 近い。


 月城くんの顔が、すぐそこにある。


 驚いた表情。


 そして、私を心配する瞳。


 「……大丈夫?」


 低い声が耳に届く。


 でも。


 私が気になったのは、さっきの一言だった。


 「……今」


 声が漏れる。


 「え?」


 彼の表情が固まる。


 「今、私の名前……」


 そこまで言った瞬間。


 彼ははっとしたように目を逸らした。


 「……ごめん」


 小さく呟いて、すぐに距離を取る。


 まるで、今の言葉をなかったことにするみたいに。


 それから彼は、何事もなかったようにズボンについた埃を払った。


 けれど。


 その動きは、どこか不自然だった。


 私の方を見ようとしない。


 まるで、目を合わせたら今の出来事を認めてしまうみたいに。


 少しだけ沈黙が流れる。


 私は何か言おうとした。


 でも、彼の横顔は、いつもの月城くんに戻っていた。


 「……行こ」


 短い声。


 一瞬だけ間を置いて。


 「星宮」


 その呼び方に、胸の奥が小さく揺れた。


 さっきまでの温度が、嘘みたいに遠ざかる。


 なのに、私の耳にはまだ残っていた。


 ——愛梨。


 確かに呼ばれた、あの声。


 どうしてだろう。


 たった一度名前を呼ばれただけなのに。


 ずっと前から知っているような、不思議な感覚がした。


 「……うん」


 私は小さく返事をして、彼の隣へ並ぶ。


 また歩き出す。


 さっきより少しだけ離れた距離。


 でも。


 その距離の奥に、言葉にできない何かが残っている気がした。