記憶の欠片

 廊下を進むたびに、胸の鼓動が早くなる。


 お願いだから、あって……。


 足早に階段を上り、図書室の扉を開ける。


 静かな空間。


 紙の匂い。


 差し込む光。


 視線を走らせてすぐに、机の上のそれを見つけた。


 陽の光を受けて、ガラスの小瓶がきらりと光っている。


 「……あった…!」


 喉から、ほっと息がこぼれた。


 近づいて、そっと手に取る。


 クリスタルブルーの星の宝石が、小さな瓶の中でかすかに触れ合って音を立てた。


 私はそれを胸の前で、きゅっと握りしめる。


 温もりを確かめるみたいに。


 失くしてはいけないものが、ちゃんと、ここに戻ってきた。


 そう思った瞬間、胸の奥に張りついていた不安が、静かに溶けていった。


 図書室には、私ひとりしかいなかった。


 ページをめくる音すらなく、聞こえるのは、窓の外を抜けていく風の音だけ。


 カーテンが、かすかに揺れる。


 その動きに引き寄せられるように私はふと、図書室に付いている小さなバルコニーへと目を向けた。


 ——人影だ。


 思わず、息を止める。


 そこにいたのは、月城くんだった。


 窓越しに差し込む光の中で、彼の輪郭だけが、はっきりと浮かび上がっている。


 彼は私に気づくと、カーテン越しに、ちらりとこちらを見た。


 一瞬だけ、目が合う。


 その瞬間、彼の表情が揺れた。


 驚き。


 戸惑い。


 そして、ほんの少しの痛み。


 でも、それはすぐに消えた。


 彼は何もなかったように視線を逸らす。


 ——やっぱり。


 避けられている。


 ほんのり胸のあたりがチクリと痛んだ感覚がする。


 光が反射するその背中をしばらく見つめていると、彼は小さく息を吐いて、迷うように手を動かした。


 来い、と言っているわけじゃない。


 ただ、そこにいることを許しているような、そんな仕草だった。


 胸の奥が、理由もなくざわつく。


 ……どうして?


 分からないのに、足が自然とそちらへ向かおうとしている。


 風が、もう一度、カーテンを揺らした。


 まるで、この先へ来い、と促すみたいに。


 バルコニーに一歩踏み出した瞬間、季節の変わり目特有の、生ぬるい風が頬を撫でた。


 春とも夏とも言い切れない、少し重たい空気。


 視線を向けると、彼はそこに座っていた。


 手すりに背を預け、膝を立てて、まるでずっと前からここにいたみたいに自然な姿で。


 何か言おうとして口を開いたが、その前に——彼の方が先に口を開いた。


 「ここ、サボるのにいい場所なんだ」


 低くて落ち着いた声。


 「暖かいしさ。風も気持ちいいし。……心地いいところだろ?」


 そう言って、彼は少しだけ目を細めた。



 返事を考える間もなく突然、図書室の扉が開く音がした。


 ——担当の先生だ。


 反射的に、二人の視線が交わる。


 「やば」


 彼が小さく呟いた瞬間、手首を引かれた。


 「しゃがんで」


 囁くような声。


 言われるがまま私は身を低くして、彼の隣にしゃがみ込む。


 バルコニーの手すりと影が、ぎりぎり先生の視界を遮ってくれている。


 図書室の中から、足音と資料を置く音が聞こえる。


 息を殺す。


 こんなに近くにいるのに、お互い、何も言わない。


 風がまた吹いて、彼の黒髪が揺れた。


 心臓の音が、やけに大きく響いている気がした。


 ……見つかりませんように。


 静かな図書室と、この小さな隠れ場所。


 その境目で、時間だけがゆっくりと流れていた。


 ふたりで、しばらく何も言わずに景色を眺めていた。


 校舎の外に広がる街並みは思った以上に遠くまで続いていて、建物の隙間の向こうには——きらりと光る海がかすかに見えた。


 心地いい風が吹いて、私の髪も、彼の黒髪も、同じリズムで揺れる。


 ……近くにいるはずなのに。


 不思議と、彼は「近くにいない」気がした。


 手を伸ばせば届く距離なのに、触れたら壊れてしまいそうな、そんな雰囲気。


 月城くん。


 彼は、どこか現実から半歩ずれた場所に立っているみたいだった。


 やがて、校舎中に予鈴が響き渡る。


 ——戻らなきゃ。


 頭では分かっているのに、足が動かない。


 ここから離れたくない。


 もっと、隣にいたい。


 そんな気持ちを見透かしたみたいに、ふいに彼が口を開いた。


 「……あのさ」


 一瞬、こちらを見る。


 「…少しだけ」


 言葉を探すように、彼は目を逸らした。


 「ここにいてもいいんじゃない」


 躊躇いがちに、でも確かにそう言った。


 さっきまで余裕そうだった横顔が、どこかぎこちなくて——よく見ると、頬がうっすら赤い。


 風のせい、なんて言い訳ができそうなくらい微かな色づきなのに、それが妙に目についてしまう。


 「……別に、強制じゃないけど」


 そう付け足す声は少し低くて、さっきよりも小さい。


 照れを隠すみたいに、彼はまた遠くの街へ視線を戻す。


 風の音と、遠くの波のきらめき。


 胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 近くにいるのに、触れられない距離。


 でも、その距離が今は、やけに甘くて。


 胸の奥が、静かにざわつく。


 予鈴の余韻がまだ空気に残る中、風だけがふたりの間をそっと撫でていった。


 どうしようか迷っている、その一瞬の隙を縫うように、チャイムの音が校舎中に鳴り響いた。


 乾いた金属音が、初夏の空気を震わせる。


 窓の外では、さっきまで穏やかだった風が少しだけ強くなり、若葉の擦れる音が遅れて届いた。


 びくりと肩が揺れる。


 図書室の奥を見ると、担当の先生はもう椅子に腰を下ろしていて、机に積まれた本の影が午後の光で長く伸びている。


 ……今から教室に戻るのは、無理だ。


 そう理解した瞬間、胸の奥にふわりとした諦めと、妙な安堵が同時に広がった。


 この人と一緒にいたら、きっと、いつもと違う時間が流れる。


 ……ああ、もう戻れないな。


 そう悟った瞬間、私はゆっくりと目を閉じた。


 まぶたの裏で、光が滲む。


 黒い視界に残るのは、白く眩しい空と、濃くなり始めた緑の色。


 春の名残を含んだ風はもう冷たくなく、肌に触れるたび、少しだけ湿り気を帯びている。


 生ぬるい風が頬をなぞり、どこかで蝉の声がまだ遠くで準備運動をしているみたいに響く。


 近くでは、彼の制服の布が風に揺れる音。


 ——夏が、やってくる。


 教室の中で過ごすはずだった午後を置き去りにして、季節だけが先へ進んでいくような感覚。


 そのとき隣にいた彼が、ふっと息を落とすように呟いた。


 「……懐かしいな、この感じ」


 本当に、そっと。


 独り言みたいな声。


 その言葉は殆どが、風で木の葉が擦れる音に溶けてしまったけど、確かに私の耳に届いた。


 その言葉は、どういう意味だろう。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 初めて過ごすはずの時間、二人きりの空間。


 …なのに。


 全てが初めてじゃない気がして。


 この懐かしさの正体を彼に聞いてみたかったけど、言葉が出なかった。


 この距離感が心地いい。


 私が何か思い出して、この距離が変わってきしまうのが怖かった。


 …私の手で、壊してしまいたくなかった。


 私はまだ目を閉じたまま、生ぬるい風と、隣にいる彼の気配だけを静かに感じていた。