王宮を渡る風から、ぬくもりが消え失せて久しい。
かつて陰謀と怨嗟が渦巻いていた後宮は、いまや手入れの行き届いた美しい庭園のように穏やかだった。
しかし、その静寂の底には、重く湿った沈黙が横たわっている。
「アルフレッド様、本日の決裁書類でございます」
薄暗い執務室。15歳になったアルフレッド・クインテラは、差し出された羊皮紙に目を通しながら、短く息を吐いた。
流れるような銀髪に、氷を削り出したかのような冴え渡る青い瞳。
15歳という若さでありながら、その佇まいには隙がなく、すでに一国の主としての威厳と冷徹さを漂わせている。
「……ハミルトン公爵からの書状か。『先王の病状を鑑み、国の安泰のため、速やかに公爵家の令嬢を正妃に迎えられたし』……相変わらず、父上が弱ると途端にハエのように群がってくる」
冷ややかな声で呟き、アルフレッドは書類を机に投げ捨てた。
「陛下……レオンハルト様のご容態は?」
「芳しくない。医官は言葉を濁すが、もう長くはないだろう」
アルフレッドは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
遠くに見えるのは、母――大太后エレナが暮らす宮だ。
かつて平民の側室として蔑まれ、命を狙われ続けた母。
父・レオンハルトは、血みどろの政争と歪んだ法律を打ち破り、数年前にエレナを「唯一の正妻(王妃)」として正式に迎えた。
二人の間にあるのは、苦難を乗り越えた末の深く固い絆――真実の「愛」だった。
だが、その「愛」が、いま王国を再び引き裂こうとしている。
「父上は、母上を愛しすぎた」
アルフレッドの呟きは、刃のように冷たかった。
「父上が母上だけを正妃に据え、他の貴族からの側室要求を突っぱね続けた結果、何が起きた? 大貴族たちの不満は限界に達し、いまや王家の権威は失墜しかけている。父上が病に伏した途端、奴らは『平民上がりの王妃を排除し、我が娘を正妃に』と、露骨な圧力をかけてきた」
「しかしアルフレッド様、陛下とエレナ様の愛があったからこそ、あの狂った旧法は撤廃されたのです」
「そうだ。だが、その代償がこれだ」
アルフレッドは拳を固く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
「父上は愛を貫いた。だがその結果、政治的な足場を失い、死の床に伏してまで貴族たちの脅迫に晒されている。母上もまた、王妃という至高の座に就きながら、未だに『身分不相応な女』と陰口を叩かれ、矢おもてに立ち続けている……! これが、愛の果てか?」
少年王子の胸を焼くのは、怒りではなかった。
深く、暗い「呪縛」だった。
――愛ゆえに、父は追いつめられた。
――愛ゆえに、母は今なお傷ついている。
(愛などという不確実で、曖昧な感情に依存するから国が揺らぐのだ。愛は人を盲目にし、判断を誤らせ、守るべきものを弱くする……!)
そのとき、ドアが静かに開き、エレナが入ってきた。
「アルフレッド」
数々の修羅場を潜り抜けてきたエレナの顔立ちは、今も優しく、そして気品に満ちていた。
しかし、その目元には隠しきれない疲労と、夫を案じる深い憂いが刻まれている。
「母上……。父上のご様子は?」
「ええ。少し前に、うとうとと眠りにつかれたわ。アルフレッド、あなたも少し休みなさい。連日、貴族たちとの手紙のやり取りで眠っていないでしょう?」
エレナは息子の元へ歩み寄り、その頬に優しく手を添えようとした。
だが、アルフレッドはほんの僅か、自然な動作を装って後退りし、その手をすり抜けた。
エレナの手が、宙で止まる。
「……アルフレッド?」
「心配には及びません、母上。私には、なすべき仕事があります」
アルフレッドの瞳には、一切の感情が宿っていなかった。
母を慈しむ温もりも、甘えも、そこにはない。
ただ、冷徹な理性を保つ防壁だけが築かれていた。
「母上。ハミルトン公爵をはじめとする保守派貴族どもの動きは、私が抑え込みます。あなたが心を痛める必要はありません」
「アルフレッド……あなたは、私とレオンハルト様のために戦ってくれているのね。でもね、私は後悔していないわ。あなたのお父様と愛し合い、こうして家族になれたことを」
エレナは優しく微笑んだ。
だが、その「愛」という言葉を聞いた瞬間、アルフレッドの胸の奥で、カチリと冷たい鍵がかかる音がした。
「母上」
アルフレッドは淡々と言い放った。
「愛ゆえの幸せなど、政治の前には無力です。父上があなたを愛したことで、この国にどれほどの血と混乱が流れたか、あなた自身が一番知っているはずだ」
エレナの顔から、すっと血の気が引いた。
「私は、父上のようにはならない。私は誰も愛さない。愛という弱みを持たず、完璧な論理と力でこの国を支配してみせます」
「そんな……アルフレッド、あなたは愛を捨てるというの? それでは、あなた自身が孤独になってしまう……!」
「孤独? 結構です。王とは元より孤独なものだ」
アルフレッドは冷たく背を向け、チェス盤が置かれたデスクへと歩を進めた。
「愛は人を弱くする。私は二度と、この国も、あなたも、愛などという不確定な感情の犠牲にはさせない」
整然と並べられた白と黒の駒。アルフレッドは終局を迎えたチェス盤を見つめながら、心の中で固く誓った。
父が遺した「愛の王国」は、脆く崩れかけている。
ならば自分が創り出すしかない。
誰も愛さず、誰も裏切らず、完璧な均衡だけで支配する――隙のない「絶対の王宮」を。
青い瞳に宿るのは、氷のような冷徹な決意。
父と母が紡いだ壮絶な愛の歴史を背負いながら、若き天才王子は、みずから「愛の呪縛」へと囚われていくのだった。
かつて陰謀と怨嗟が渦巻いていた後宮は、いまや手入れの行き届いた美しい庭園のように穏やかだった。
しかし、その静寂の底には、重く湿った沈黙が横たわっている。
「アルフレッド様、本日の決裁書類でございます」
薄暗い執務室。15歳になったアルフレッド・クインテラは、差し出された羊皮紙に目を通しながら、短く息を吐いた。
流れるような銀髪に、氷を削り出したかのような冴え渡る青い瞳。
15歳という若さでありながら、その佇まいには隙がなく、すでに一国の主としての威厳と冷徹さを漂わせている。
「……ハミルトン公爵からの書状か。『先王の病状を鑑み、国の安泰のため、速やかに公爵家の令嬢を正妃に迎えられたし』……相変わらず、父上が弱ると途端にハエのように群がってくる」
冷ややかな声で呟き、アルフレッドは書類を机に投げ捨てた。
「陛下……レオンハルト様のご容態は?」
「芳しくない。医官は言葉を濁すが、もう長くはないだろう」
アルフレッドは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
遠くに見えるのは、母――大太后エレナが暮らす宮だ。
かつて平民の側室として蔑まれ、命を狙われ続けた母。
父・レオンハルトは、血みどろの政争と歪んだ法律を打ち破り、数年前にエレナを「唯一の正妻(王妃)」として正式に迎えた。
二人の間にあるのは、苦難を乗り越えた末の深く固い絆――真実の「愛」だった。
だが、その「愛」が、いま王国を再び引き裂こうとしている。
「父上は、母上を愛しすぎた」
アルフレッドの呟きは、刃のように冷たかった。
「父上が母上だけを正妃に据え、他の貴族からの側室要求を突っぱね続けた結果、何が起きた? 大貴族たちの不満は限界に達し、いまや王家の権威は失墜しかけている。父上が病に伏した途端、奴らは『平民上がりの王妃を排除し、我が娘を正妃に』と、露骨な圧力をかけてきた」
「しかしアルフレッド様、陛下とエレナ様の愛があったからこそ、あの狂った旧法は撤廃されたのです」
「そうだ。だが、その代償がこれだ」
アルフレッドは拳を固く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
「父上は愛を貫いた。だがその結果、政治的な足場を失い、死の床に伏してまで貴族たちの脅迫に晒されている。母上もまた、王妃という至高の座に就きながら、未だに『身分不相応な女』と陰口を叩かれ、矢おもてに立ち続けている……! これが、愛の果てか?」
少年王子の胸を焼くのは、怒りではなかった。
深く、暗い「呪縛」だった。
――愛ゆえに、父は追いつめられた。
――愛ゆえに、母は今なお傷ついている。
(愛などという不確実で、曖昧な感情に依存するから国が揺らぐのだ。愛は人を盲目にし、判断を誤らせ、守るべきものを弱くする……!)
そのとき、ドアが静かに開き、エレナが入ってきた。
「アルフレッド」
数々の修羅場を潜り抜けてきたエレナの顔立ちは、今も優しく、そして気品に満ちていた。
しかし、その目元には隠しきれない疲労と、夫を案じる深い憂いが刻まれている。
「母上……。父上のご様子は?」
「ええ。少し前に、うとうとと眠りにつかれたわ。アルフレッド、あなたも少し休みなさい。連日、貴族たちとの手紙のやり取りで眠っていないでしょう?」
エレナは息子の元へ歩み寄り、その頬に優しく手を添えようとした。
だが、アルフレッドはほんの僅か、自然な動作を装って後退りし、その手をすり抜けた。
エレナの手が、宙で止まる。
「……アルフレッド?」
「心配には及びません、母上。私には、なすべき仕事があります」
アルフレッドの瞳には、一切の感情が宿っていなかった。
母を慈しむ温もりも、甘えも、そこにはない。
ただ、冷徹な理性を保つ防壁だけが築かれていた。
「母上。ハミルトン公爵をはじめとする保守派貴族どもの動きは、私が抑え込みます。あなたが心を痛める必要はありません」
「アルフレッド……あなたは、私とレオンハルト様のために戦ってくれているのね。でもね、私は後悔していないわ。あなたのお父様と愛し合い、こうして家族になれたことを」
エレナは優しく微笑んだ。
だが、その「愛」という言葉を聞いた瞬間、アルフレッドの胸の奥で、カチリと冷たい鍵がかかる音がした。
「母上」
アルフレッドは淡々と言い放った。
「愛ゆえの幸せなど、政治の前には無力です。父上があなたを愛したことで、この国にどれほどの血と混乱が流れたか、あなた自身が一番知っているはずだ」
エレナの顔から、すっと血の気が引いた。
「私は、父上のようにはならない。私は誰も愛さない。愛という弱みを持たず、完璧な論理と力でこの国を支配してみせます」
「そんな……アルフレッド、あなたは愛を捨てるというの? それでは、あなた自身が孤独になってしまう……!」
「孤独? 結構です。王とは元より孤独なものだ」
アルフレッドは冷たく背を向け、チェス盤が置かれたデスクへと歩を進めた。
「愛は人を弱くする。私は二度と、この国も、あなたも、愛などという不確定な感情の犠牲にはさせない」
整然と並べられた白と黒の駒。アルフレッドは終局を迎えたチェス盤を見つめながら、心の中で固く誓った。
父が遺した「愛の王国」は、脆く崩れかけている。
ならば自分が創り出すしかない。
誰も愛さず、誰も裏切らず、完璧な均衡だけで支配する――隙のない「絶対の王宮」を。
青い瞳に宿るのは、氷のような冷徹な決意。
父と母が紡いだ壮絶な愛の歴史を背負いながら、若き天才王子は、みずから「愛の呪縛」へと囚われていくのだった。



