嵐のような金曜日の夜が明け、新しい一週間が始まった。
月曜日の朝、真白はいつも通り、非の打ち所がない美しい姿勢で役員フロアのデスクに座っていた。
聖良にすべてを打ち明け、涙を流したことで、心の奥の重苦しい澱は少しだけ軽くなっていた。
けれど、蓮の過去に対する切なさと、自分がそれを丸ごと受け止める覚悟があるのかという問いへの答えは、まだ完全には出ていない。
「乾さん、おはよう。今週もよろしくね」
「小鳥遊さん、おはよう。よろしくお願いいたします」
周囲に人がいるため、極めて公的な挨拶を交わす二人。
だが、聖良の真白に向ける視線には、先週までの心配そうな曇りはなく、むしろ「私があなたを絶対に守る」という強い決意の光が宿っていた。
真白は、手元にある他社との合同プロジェクトの進行スケジュールに目を落とした。
緑川の名前を見るだけで、今も心臓がキュッと冷たく縮こまるような感覚に襲われる。けれど、真白はプロの秘書だ。
公私の混同は絶対にしない。彼女はすっと息を吸い込み、冷たい恐怖を完璧な仮面の下に押し込めた。
【佐伯視点:エースの沈黙と、水面下の包囲網】
同じ頃、営業一課のフロア。
佐伯は、隣のデスクで黙々とキーボードを叩く神尾の横顔を盗み見ていた。
今日の神尾は、先週までの魂が抜けたようなボロボロの姿とは打って変わって、恐ろしいほどに冷徹で、研ぎ澄まされた空気を纏っていた。社内向けの「人当たりの良い王子様」の笑顔は完全に消え去り、そこにあるのは、獲物を確実に追い詰める冷徹なビジネスパーソンとしての顔だ。
「神尾、例の件だけど」
佐伯が声を潜め、一枚の書類を渡す風を装って話しかけた。
「あちらの会社の上層部と繋がっているうちの部長に、緑川の『強引な仕事の進め方』についての懸念をそれとなく伝えておいた。一課のコンペ勝利の実績があるから、部長もこちらの意見をかなり真剣に聞いてくれたよ」
「……ありがとう、佐伯」
神尾は画面から目を離さず、低く、冷徹な声で答えた。
「緑川は必ず、仕事にかこつけて役員フロアかここ(一課)に現れる。彼女が公私の境界線を越えた瞬間を、絶対に逃さない」
神尾の指先が、流れるような速度でデータを処理していく。
その執念とも言える集中力に、佐伯は背筋が震えるのを感じた。
神尾はもう、怯えるだけの男ではない。最愛の乾真白を守るため、彼は自分自身の過去という怪物に、正面から引導を渡す覚悟を決めていた。
【聖良視点:秘書課の「盾」としての監視】
午後、合同プロジェクトの第一回合同定例会が、本社の役員会議室で開かれた。
常務の同伴として会議室の壁際に控える真白。そして、隣には聖良も同行していた。
「――それでは、本日のアジェンダに沿って説明いたします」
プロジェクターの前に立ち、華やかなスーツ姿で堂々とプレゼンを行う緑川。
その声は自信に満ちており、他社の役員たちを魅了する術をよく知っているようだった。
緑川は時折、営業一課の席に座る神尾へ、そして壁際に立つ真白へと、挑発的で歪んだ視線を投げかけてくる。
(……本当に、神経を逆撫でするのが上手な女)
真白の隣で、聖良は手元のタブレットにスタイラスペンを走らせるフリをしながら、美咲の挙動、発言、そして視線の配り方をすべて冷徹にログに記録していた。
「乾さん、お茶の差し替えを」
「はい、ただいま」
美咲がわざとらしく真白を指名し、空になったグラスを差し出す。
真白が完璧な所作で近づき、トレイでお茶を差し替えようとしたその瞬間、美咲が真白にしか聞こえない極めて小さな声で囁いた。
「よくそんな平気な顔でいられるわね、お人形さん。蓮くんに、私の言ったこと聞いた?」
その悪意に満ちた声に、真白の手が一瞬だけ止まりかける。
だが、真白が動揺を見せるより早く、聖良がすっと真白の隣に並び、美咲の前に立ちはだかった。
「緑川様、本日の定例会における資料の追加修正につきまして、こちらの確認事項がございます。お茶の給仕は私が引き継ぎますので、乾は常務の次席へと戻らせていただきます」
聖良の、非の打ち所がないけれど「これ以上、乾真白に近づくな」と無言で語る、鋭い眼差し。
緑川は一瞬だけ不愉快そうに眉をひそめたが、すぐに「……ええ、お願いするわ」と、取り繕うように笑った。
【神尾視点:静かなる宣戦布告】
会議室の席から、その一部始終を蓮は静かに見つめていた。
緑川が真白に接触しようとした瞬間、蓮の身体は怒りで凍りつきそうになった。だが、聖良の完璧なカバーによって、真白への直接の被害は防がれた。
(乾さん……俺のせいで、あんなに張り詰めた場所に立たせてしまって、本当に申し訳ない……)
壁際で、再び凛と背筋を伸ばして常務の後ろに立つ真白。その健気で、プロフェッショナルな姿を見るたびに、蓮の胸はちぎれそうになる。
彼女は今、一人で戦っている。自分の過去を受け入れるために、傷つきながらも懸命に。
ならば、俺がすべきことはただ一つだ。
会議が終了し、参加者たちが退室していく中、緑川がわざとらしく蓮のデスクの横を通り過ぎようとした。
「蓮くん、今日のプロジェクトの件で、後で二人だけで――」
「緑川」
蓮は立ち上がり、彼女の言葉を冷たく遮った。
その目は、かつて緑川が知っていた、彼女の言う通りに動いていた「都合の良い男」の目ではなかった。底冷えするような、完全な拒絶の光を宿した男の目だ。
「公私の混同は慎んでください。今回のプロジェクトにおいて、あなたとの個別の打ち合わせは必要ありません。今後の連絡はすべて、一課の窓口である佐伯、もしくは書面を通してのみ受け付けます」
「な……っ」
緑川の顔が、驚きと屈辱で強張る。
「乾秘書をはじめ、我が社のスタッフに対してこれ以上の不適切な接触や発言が見受けられた場合、プロジェクトの担当者変更、およびコンプライアンス違反として、正式に御社の人事部へ抗議を行います」
蓮は緑川を見下ろし、一文字ずつ、はっきりと告げた。
「二度と、俺の前に現れるな。そして――乾さんに、指一本触れるな」
完璧な王子様の仮面の下に隠されていた、神尾蓮の本気の牙。
緑川はその鋭い覇気に圧され、言葉を失ったまま、怒りで肩を震わせて立ち尽くすしかなかった。
少し離れた場所で、常務の資料を片付けながら、真白はその蓮の後ろ姿をじっと見つめていた。
自分を守るために、すべてを投げ打って戦おうとしている彼の背中。
真白の心の中で、閉ざされていた何かが、静かに揺れ動き始めていた。
月曜日の朝、真白はいつも通り、非の打ち所がない美しい姿勢で役員フロアのデスクに座っていた。
聖良にすべてを打ち明け、涙を流したことで、心の奥の重苦しい澱は少しだけ軽くなっていた。
けれど、蓮の過去に対する切なさと、自分がそれを丸ごと受け止める覚悟があるのかという問いへの答えは、まだ完全には出ていない。
「乾さん、おはよう。今週もよろしくね」
「小鳥遊さん、おはよう。よろしくお願いいたします」
周囲に人がいるため、極めて公的な挨拶を交わす二人。
だが、聖良の真白に向ける視線には、先週までの心配そうな曇りはなく、むしろ「私があなたを絶対に守る」という強い決意の光が宿っていた。
真白は、手元にある他社との合同プロジェクトの進行スケジュールに目を落とした。
緑川の名前を見るだけで、今も心臓がキュッと冷たく縮こまるような感覚に襲われる。けれど、真白はプロの秘書だ。
公私の混同は絶対にしない。彼女はすっと息を吸い込み、冷たい恐怖を完璧な仮面の下に押し込めた。
【佐伯視点:エースの沈黙と、水面下の包囲網】
同じ頃、営業一課のフロア。
佐伯は、隣のデスクで黙々とキーボードを叩く神尾の横顔を盗み見ていた。
今日の神尾は、先週までの魂が抜けたようなボロボロの姿とは打って変わって、恐ろしいほどに冷徹で、研ぎ澄まされた空気を纏っていた。社内向けの「人当たりの良い王子様」の笑顔は完全に消え去り、そこにあるのは、獲物を確実に追い詰める冷徹なビジネスパーソンとしての顔だ。
「神尾、例の件だけど」
佐伯が声を潜め、一枚の書類を渡す風を装って話しかけた。
「あちらの会社の上層部と繋がっているうちの部長に、緑川の『強引な仕事の進め方』についての懸念をそれとなく伝えておいた。一課のコンペ勝利の実績があるから、部長もこちらの意見をかなり真剣に聞いてくれたよ」
「……ありがとう、佐伯」
神尾は画面から目を離さず、低く、冷徹な声で答えた。
「緑川は必ず、仕事にかこつけて役員フロアかここ(一課)に現れる。彼女が公私の境界線を越えた瞬間を、絶対に逃さない」
神尾の指先が、流れるような速度でデータを処理していく。
その執念とも言える集中力に、佐伯は背筋が震えるのを感じた。
神尾はもう、怯えるだけの男ではない。最愛の乾真白を守るため、彼は自分自身の過去という怪物に、正面から引導を渡す覚悟を決めていた。
【聖良視点:秘書課の「盾」としての監視】
午後、合同プロジェクトの第一回合同定例会が、本社の役員会議室で開かれた。
常務の同伴として会議室の壁際に控える真白。そして、隣には聖良も同行していた。
「――それでは、本日のアジェンダに沿って説明いたします」
プロジェクターの前に立ち、華やかなスーツ姿で堂々とプレゼンを行う緑川。
その声は自信に満ちており、他社の役員たちを魅了する術をよく知っているようだった。
緑川は時折、営業一課の席に座る神尾へ、そして壁際に立つ真白へと、挑発的で歪んだ視線を投げかけてくる。
(……本当に、神経を逆撫でするのが上手な女)
真白の隣で、聖良は手元のタブレットにスタイラスペンを走らせるフリをしながら、美咲の挙動、発言、そして視線の配り方をすべて冷徹にログに記録していた。
「乾さん、お茶の差し替えを」
「はい、ただいま」
美咲がわざとらしく真白を指名し、空になったグラスを差し出す。
真白が完璧な所作で近づき、トレイでお茶を差し替えようとしたその瞬間、美咲が真白にしか聞こえない極めて小さな声で囁いた。
「よくそんな平気な顔でいられるわね、お人形さん。蓮くんに、私の言ったこと聞いた?」
その悪意に満ちた声に、真白の手が一瞬だけ止まりかける。
だが、真白が動揺を見せるより早く、聖良がすっと真白の隣に並び、美咲の前に立ちはだかった。
「緑川様、本日の定例会における資料の追加修正につきまして、こちらの確認事項がございます。お茶の給仕は私が引き継ぎますので、乾は常務の次席へと戻らせていただきます」
聖良の、非の打ち所がないけれど「これ以上、乾真白に近づくな」と無言で語る、鋭い眼差し。
緑川は一瞬だけ不愉快そうに眉をひそめたが、すぐに「……ええ、お願いするわ」と、取り繕うように笑った。
【神尾視点:静かなる宣戦布告】
会議室の席から、その一部始終を蓮は静かに見つめていた。
緑川が真白に接触しようとした瞬間、蓮の身体は怒りで凍りつきそうになった。だが、聖良の完璧なカバーによって、真白への直接の被害は防がれた。
(乾さん……俺のせいで、あんなに張り詰めた場所に立たせてしまって、本当に申し訳ない……)
壁際で、再び凛と背筋を伸ばして常務の後ろに立つ真白。その健気で、プロフェッショナルな姿を見るたびに、蓮の胸はちぎれそうになる。
彼女は今、一人で戦っている。自分の過去を受け入れるために、傷つきながらも懸命に。
ならば、俺がすべきことはただ一つだ。
会議が終了し、参加者たちが退室していく中、緑川がわざとらしく蓮のデスクの横を通り過ぎようとした。
「蓮くん、今日のプロジェクトの件で、後で二人だけで――」
「緑川」
蓮は立ち上がり、彼女の言葉を冷たく遮った。
その目は、かつて緑川が知っていた、彼女の言う通りに動いていた「都合の良い男」の目ではなかった。底冷えするような、完全な拒絶の光を宿した男の目だ。
「公私の混同は慎んでください。今回のプロジェクトにおいて、あなたとの個別の打ち合わせは必要ありません。今後の連絡はすべて、一課の窓口である佐伯、もしくは書面を通してのみ受け付けます」
「な……っ」
緑川の顔が、驚きと屈辱で強張る。
「乾秘書をはじめ、我が社のスタッフに対してこれ以上の不適切な接触や発言が見受けられた場合、プロジェクトの担当者変更、およびコンプライアンス違反として、正式に御社の人事部へ抗議を行います」
蓮は緑川を見下ろし、一文字ずつ、はっきりと告げた。
「二度と、俺の前に現れるな。そして――乾さんに、指一本触れるな」
完璧な王子様の仮面の下に隠されていた、神尾蓮の本気の牙。
緑川はその鋭い覇気に圧され、言葉を失ったまま、怒りで肩を震わせて立ち尽くすしかなかった。
少し離れた場所で、常務の資料を片付けながら、真白はその蓮の後ろ姿をじっと見つめていた。
自分を守るために、すべてを投げ打って戦おうとしている彼の背中。
真白の心の中で、閉ざされていた何かが、静かに揺れ動き始めていた。



