オタクな秘書の攻略方法〜来る者拒まず去る者追わずだった同期に一途に溺愛される

「――乾さん。俺はもう乾さんしか見ていない。本当に愛しているのは君だけで……美咲とは、その、過去に――」
必死に真白の肩を掴み、すべてをさらけ出そうとした蓮のスマートフォンが、無慈悲なバイブ音を響かせた。
画面に表示されたのは、営業一課長の名前。
さらに役員フロアの廊下を、ドタバタとこちらへ走ってくる足音が聞こえる。
「……神尾! どこにいる! 常務から、先ほどのレセプションの件で至急確認したい重要事項があるそうだ。すぐに役員室へ戻ってくれ!」
課長の声に、蓮は絶望したように顔を歪めた。
だが、彼はプロだ。ここで仕事を放棄するわけにはいかない。
「乾さん」
蓮は真白の濡れた頬にそっと触れ、張り裂けそうなほど真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「絶対に、今日のうちに時間を作る。ちゃんとすべてを話すから。……お願いだから、俺を信じて待っていてほしい」
「……はい。行ってください、神尾さん」
真白は小さく頷き、彼を送り出した。
それが、引き裂かれるような長い夜の始まりだとは知らずに。
レセプション会場のあった高層ビルを出て、最寄り駅へと向かう帰り道。
夜の街灯に照らされた舗道で、真白は行く手を阻むように立つ人影に、息を呑んだ。
華やかなコートを羽織り、冷ややかな笑みを浮かべた女性――緑川だった。
「待っていたわ、乾秘書」
緑川はゆっくりと近づき、混乱する真白の前に立ちはだかる。
「蓮くんの『王子様』の仮面の下、少しは覗けたかしら? ……あの子、社内ではクリーンを装っているけれど、プライベートでは本当に酷い男なのよ?」
「……何のことでしょうか。私には関係のないことです」
真白は踵を返そうとしたが、美咲の言葉が逃げ道を塞ぐように投げかけられた。
「関係なくないでしょう? 今、彼と付き合っているんだから」
緑川は歪んだ歪な笑みを浮かべ、真白の耳元に囁くように、蓮の過去の『女性関係の内情』を事細かに語り始めた。
「あの子、私に裏切られてから、壊れちゃったのよ。自分から誘うことはしないけれど、寄ってくる女の子は、どんな子でも拒まない。一夜限りの関係なんて当たり前。翌朝には名前も覚えていないような相手とベッドを共にして、相手が本気になりそうになったら、冷たい目で一瞬で連絡先を消すの。……あなたのその大切にされている手も、肌も、あの子にとってはとっくに飽きるほど経験した『退屈な作業』の一部でしかないのよ」
「……っ」
「そんな歪んだ男と、あなたは本当に一緒にいられる? あなたが彼に抱いているその綺麗な幻想、全部あの子の過去のゴミ箱の中に放り込まれるだけよ」
緑川の悪意に満ちた言葉が、真白の心に深く、鋭く突き刺さる。
信じる信じないの問題ではない。緑川の語る「蓮の具体的な行動、冷徹な態度」があまりにも生々しく、そして彼ならやりかねないという「傷ついた男の防衛反応」としてのリアリティを持って、真白の脳裏に焼き付いてしまったのだ。
どうやって自宅のマンションに帰り着いたのか、記憶になかった。
スウェットに着替える気力もなく、玄関の床にへたり込んだまま、真白は膝を抱えて震えていた。
緑川の言葉が、頭の中で何度も、何度もリフレインする。
(私の『初めて』は……彼にとっては、もう『退屈な』中身のない『作業』のひとつなの……?)
そこへ、画面に「神尾蓮」の名が表示され、通話が繋がった。
『乾さん! やっと仕事が終わった。今から君の家に向かう。……今すぐ、話させてほしい』
電話の向こうの蓮の声は、ひどく焦り、息を切らせていた。
だが、今の真白の頭は混乱の極みに達しており、正常な思考が全くできなかった。
彼の声を聞くだけで、緑川の語った生々しい過去の描写が脳裏をよぎり、胸が引き裂かれそうになる。
「……すみません、神尾さん。……今の私は、冷静にあなたの話を聞ける状態ではありません。……お願いです。少しだけ、考える時間をください」
『え……? 乾さん、待ってくれ、俺は――』
「失礼します」
限界だった。真白は通話を切ると、スマートフォンの電源を落とし、床に顔を伏せて声を殺して泣いた。
【神尾視点】
『……少しだけ、考える時間をください』
無機質な通話終了の音が、夜の静まり返ったオフィスビルのエントランスに響いた。
「嘘だろ……」
蓮はスマートフォンの画面を見つめたまま、その場に崩れ落ちそうになった。
指先が冷たく震え、心臓が恐怖で激しくのたうち回る。
真白が拒絶した。
あの完璧で、どんな時も俺を優しく包み込んでくれた真白が、声のトーンを失い、俺との対話を拒んだ。
(どうしてだ。俺の薄汚れた過去に、完全に幻滅したのか――?)
来るもの拒まず、去るもの追わず。
確かに俺は、緑川に裏切られて以来、心にコンクリートを流し込み、近づいてくる女たちをただの「寂しさを埋める道具」として消費してきた。
名前も思い出せないような関係を何度も重ね、それを「大人のスマートな生き方」だと自分に言い聞かせていた。
そのツケが、今、世界で一番失いたくない、初めて本気で愛した女性を傷つけ、遠ざけようとしている。
「あぁ、クソッ……!!」
蓮は壁に拳をぶつけ、激しい自己嫌悪と絶望に頭を抱えた。
もし、このまま彼女が俺の元から去ってしまったら。
またあの、冷たくて中身のない、からっぽの「王子様」の仮面を被って、死んだように生きる日々に逆戻りするのか。
「嫌だ……それだけは、絶対に嫌だ……。乾さん、お願いだから……俺を捨てないでくれ……」
夜の冷たい風の中、蓮はただ一人、自らの犯してきた過去の過ちの重さに、押し潰されそうになりながら立ち尽くしていた。