「――おい神尾、例の新規コンペの件だけど、競合の東都企画がかなり強気な提案書をぶつけてきたらしい。常務もこの案件の成否をかなり気にされている」
火曜日の午前、営業一課のフロア。
課長の声が少し尖って響いた。
デスクを囲む課員たちの間に、ピリッとした緊張感が走る。
蓮はPCの画面を見つめたまま、鋭い眼差しで短く頷いた。
「想定の範囲内です。あちらの出方を踏まえて、プレゼン資料の構成をさらにブラッシュアップします。今日中に修正案を叩き台として作成しますので、確認をお願いします」
「よし、頼んだぞ。このコンペを落としたら、今期の営業目標の達成は厳しくなる。一課の命運はお前にかかってるからな」
プレッシャーをかける課長の言葉にも、蓮の表情は一切崩れない。
無駄のないタイピング音を響かせ、データを分析していくその横顔は、完全に「営業一課の絶対的エース」のそれだった。
午後、真白が常務の指示で営業フロアに役員会議の追加アジェンダを届けに来たとき、一課の空気はまだ張り詰めていた。
蓮は受話器を肩に挟みながら顧客と交渉し、同時にペンを走らせて資料に赤字を入れている。
その目の下には、少しだけ疲労の色が見えた。ここ数日、彼はこのコンペのために、睡眠時間を削ってデータを集めていたはずだ。
「……神尾さん、本当に無理しすぎ」
真白は書類を佐伯に手渡しながら、小さく胸を痛めた。
恋人として、彼の体を気遣ってやりたい。
けれど、ここはオフィスだ。秘書である自分が営業の彼に過度な肩入れをすれば、周囲の不審を誘いかねない。
それに何より、蓮は今、プライドをかけて戦っている。彼が仕事に懸けるプロとしての情熱を、誰よりも理解しているからこそ、下手に「大丈夫ですか?」などと声をかけて彼の集中力を削ぎたくはなかった。
「乾さん」
書類を受け取った佐伯が、声を潜めて真白に目配せをした。
「あいつ、昨日からほとんど何も食べてないんだよ。昼飯も『時間がない』ってコーヒーだけで済ませてさ。……このままだと、本番前に倒れるんじゃねぇかって心配なんだよね」
「……」
真白はきゅっと唇を結んだ。
(私に、できることは――)
オフィスでの自分の役割。
そして、彼のパフォーマンスを最大限に引き出すために、自分がすべき「完璧なサポート」とは何か。
真白は秘書課に戻ると、すぐにチーフへ確認を取った。
「チーフ、常務の来客用にお出ししている、あの京都老舗の和菓子ですが……糖分補給に非常に優れていると伺いました。営業一課で今、コンペのために徹夜続きのメンバーがいるのですが、そちらに差し入れとしていくつかお渡ししてもよろしいでしょうか?」
「あら、乾さん。気が利くわね! 営業一課が頑張ってくれないと私たちの役員フロアも回らないもの。ぜひ持っていってあげて」
「ありがとうございます」
公的な大義名分を得た真白は、お盆に個包装の和菓子と、淹れたての温かい緑茶を用意した。
そして16時。
営業一課の会議室で、一人でプレゼン資料の最終調整をしていた蓮のもとへ、真白は音を立てずにドアを開けて入っていった。
「失礼します。常務秘書課からの差し入れです。神尾さん、少し脳を休めてください」
入ってきた真白に、蓮は驚いたように顔を上げた。
真白の差し出した緑茶の温かい湯気が、張り詰めていた蓮の表情をふっと緩める。
「乾、さん……」
「営業一課のエースが本番前に倒れたら、常務のスケジュールにも影響が出ますので。……これ、すごく美味しい和菓子なんです。糖分を補給して、あと一踏ん張り、頑張ってください」
真白は完璧なビジネススマイルを浮かべ、けれど、お盆を置く瞬間に、小さなメモ用紙を蓮のキーボードの横に滑り込ませた。
そこには、手書きの丸っこい文字で、こう書かれていた。
『終わったら、おうちで一緒に最新作の続きをやりましょう。だから、絶対に無理はしないで、勝ってきてください! 私のヒーロー』
蓮はメモに目を落とし、それから、嬉しそうに、けれどどこか降参したようにふっと笑った。
「……ありがとう、乾秘書。最高に効く特効薬をもらったよ。必ず勝ってくる」
緑茶を一口飲み、和菓子を口に運んだ彼の瞳には、先ほどまでの張り詰めた疲労感ではなく、揺るぎない自信と力が満ち満ちていた。
火曜日の午前、営業一課のフロア。
課長の声が少し尖って響いた。
デスクを囲む課員たちの間に、ピリッとした緊張感が走る。
蓮はPCの画面を見つめたまま、鋭い眼差しで短く頷いた。
「想定の範囲内です。あちらの出方を踏まえて、プレゼン資料の構成をさらにブラッシュアップします。今日中に修正案を叩き台として作成しますので、確認をお願いします」
「よし、頼んだぞ。このコンペを落としたら、今期の営業目標の達成は厳しくなる。一課の命運はお前にかかってるからな」
プレッシャーをかける課長の言葉にも、蓮の表情は一切崩れない。
無駄のないタイピング音を響かせ、データを分析していくその横顔は、完全に「営業一課の絶対的エース」のそれだった。
午後、真白が常務の指示で営業フロアに役員会議の追加アジェンダを届けに来たとき、一課の空気はまだ張り詰めていた。
蓮は受話器を肩に挟みながら顧客と交渉し、同時にペンを走らせて資料に赤字を入れている。
その目の下には、少しだけ疲労の色が見えた。ここ数日、彼はこのコンペのために、睡眠時間を削ってデータを集めていたはずだ。
「……神尾さん、本当に無理しすぎ」
真白は書類を佐伯に手渡しながら、小さく胸を痛めた。
恋人として、彼の体を気遣ってやりたい。
けれど、ここはオフィスだ。秘書である自分が営業の彼に過度な肩入れをすれば、周囲の不審を誘いかねない。
それに何より、蓮は今、プライドをかけて戦っている。彼が仕事に懸けるプロとしての情熱を、誰よりも理解しているからこそ、下手に「大丈夫ですか?」などと声をかけて彼の集中力を削ぎたくはなかった。
「乾さん」
書類を受け取った佐伯が、声を潜めて真白に目配せをした。
「あいつ、昨日からほとんど何も食べてないんだよ。昼飯も『時間がない』ってコーヒーだけで済ませてさ。……このままだと、本番前に倒れるんじゃねぇかって心配なんだよね」
「……」
真白はきゅっと唇を結んだ。
(私に、できることは――)
オフィスでの自分の役割。
そして、彼のパフォーマンスを最大限に引き出すために、自分がすべき「完璧なサポート」とは何か。
真白は秘書課に戻ると、すぐにチーフへ確認を取った。
「チーフ、常務の来客用にお出ししている、あの京都老舗の和菓子ですが……糖分補給に非常に優れていると伺いました。営業一課で今、コンペのために徹夜続きのメンバーがいるのですが、そちらに差し入れとしていくつかお渡ししてもよろしいでしょうか?」
「あら、乾さん。気が利くわね! 営業一課が頑張ってくれないと私たちの役員フロアも回らないもの。ぜひ持っていってあげて」
「ありがとうございます」
公的な大義名分を得た真白は、お盆に個包装の和菓子と、淹れたての温かい緑茶を用意した。
そして16時。
営業一課の会議室で、一人でプレゼン資料の最終調整をしていた蓮のもとへ、真白は音を立てずにドアを開けて入っていった。
「失礼します。常務秘書課からの差し入れです。神尾さん、少し脳を休めてください」
入ってきた真白に、蓮は驚いたように顔を上げた。
真白の差し出した緑茶の温かい湯気が、張り詰めていた蓮の表情をふっと緩める。
「乾、さん……」
「営業一課のエースが本番前に倒れたら、常務のスケジュールにも影響が出ますので。……これ、すごく美味しい和菓子なんです。糖分を補給して、あと一踏ん張り、頑張ってください」
真白は完璧なビジネススマイルを浮かべ、けれど、お盆を置く瞬間に、小さなメモ用紙を蓮のキーボードの横に滑り込ませた。
そこには、手書きの丸っこい文字で、こう書かれていた。
『終わったら、おうちで一緒に最新作の続きをやりましょう。だから、絶対に無理はしないで、勝ってきてください! 私のヒーロー』
蓮はメモに目を落とし、それから、嬉しそうに、けれどどこか降参したようにふっと笑った。
「……ありがとう、乾秘書。最高に効く特効薬をもらったよ。必ず勝ってくる」
緑茶を一口飲み、和菓子を口に運んだ彼の瞳には、先ほどまでの張り詰めた疲労感ではなく、揺るぎない自信と力が満ち満ちていた。



