オタクな秘書の攻略方法〜来る者拒まず去る者追わずだった同期に一途に溺愛される

金曜日の20時前。
役員フロアの電灯が間引きされ、薄暗くなった秘書課のオフィスで、真白は一人デスクに向かっていた。
チーフを含め、他のメンバーはすでに退社している。
真白も帰ろうと思えば帰れたのだが、今日こそは、自分の心に決着をつけるためにここに残っていた。
(神尾さん、まだ下にいるはず……)
営業一課のフロアにはまだ明かりがついていることを、先ほど内線書類を届ける際に確認している。
真白はゴクリと唾を呑み、意を決してメッセージアプリを開いた。
これまでは業務用のツールでしかやり取りをしていなかったが、以前、緊急連絡用にと交換したきり動いていなかった彼の個人アカウントをタップする。
『神尾さん、お疲れ様です。もし今お時間がよろしければ、役員フロアの応接室でお話しさせていただけないでしょうか』
送信ボタンを押した瞬間、心臓が耳の奥で警鐘を鳴らすようにドクドクと暴れ出した。
断られたらどうしよう。そんな不安がよぎる。しかし、スマートフォンは1分もしないうちに、短いバイブレーションを返してきた。
『すぐに行きます』
その5分後。
静まり返った応接室の重厚なドアが、静かに開いた。
「乾さん……っ」
現れた蓮は、ジャケットを脱ぎ、シャツの第1ボタンを少し緩めた、少し崩れたオフィス姿だった。いつもの非の打ち所がないスマートさではなく、少し息を弾ませ、緊張に肩を強張らせている。
真白は応接テーブルを挟んで、蓮と対峙した。
けれど、もう「完璧な秘書」の笑顔は作らなかった。冷たい仮面も被らない。ただ、等身大の、ちょっぴり頑固で負けず嫌いな「乾真白」として、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「神尾さん。……わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
「いいえ。……乾さんから連絡がもらえるなんて、思っていなかったから」
蓮は少し痛々しそうに、けれど嬉しさを隠せないような、複雑な眼差しを真白に向けている。
「神尾さんにお伝えしたいことがあって、お呼びしました。……私、神尾さんの深夜のデータ更新のこと、すごく怒っていました」
「……うん。本当に、自分勝手なことをしてすまなかった」
「違います」
真白は小さく首を振った。
「怒っていたのは、神尾さんが私の日常を犯そうとしたからじゃありません。……神尾さんが、私なんかのために、ご自分の体を削ってまで必死になっているのが、見ていて苦しかったからです」
「乾さん……」
「私……神尾さんにキスされた時、本当にショックでした。私のファーストキスは、いつか私が本当に大好きになった人と、私のオタクなところも全部好きだって言ってくれる人と、静かな場所でするものだって、勝手に夢見ていたから」
真白の瞳から、ぽろりと一滴の涙がこぼれ落ちる。今度は悔しい涙ではない。
自分の本当の、誰にも見せてこなかったピュアな本音を、目の前の男に預けるための、特別な涙だった。
「でも、神尾さんが私に見せてくれたたくさんの誠意は、全部本物でした。それを分かっていながら、意地を張って無視し続けるなんて、私のプライドが許さなかった。……だから、もう仮面を被って喋るのはやめます」
真白は涙を指先で拭い、蓮に向かって一歩、踏み出した。
「神尾さん。私は、完璧な秘書でもなければ、あなたに見合うような綺麗な女性でもありません。家ではヨレヨレのスウェットでゲームばかりしている、残念なオタク女子です。……それでも、本当にいいんですか?」
応接室の静寂の中に、真白の声が優しく響いた。