不意のゲリラ豪雨が、窓ガラスを激しく叩いていた。
月曜日の18時前。
社内の多くの人間が雨足が弱まるのを待つ中、真白はオフィスのエントランスで、スマートフォンの雨雲レーダーを見つめていた。
(あと1時間は止みそうにない。……傘、持ってきてないな)
いつもなら「じゃあロビーで少しゲームでもして時間を潰そう」と切り替えられるのだが、今の真白の頭の中は、あの深夜3時のデータ更新履歴のことでいっぱいだった。
今日一日、オフィスで蓮の姿を見かけるたびに、彼の目の下にうっすらと浮かぶ隈が気になって仕方がなかったのだ。
「あ……」
不意に、ロビーの自動ドアが開き、ずぶ濡れの男が駆け込んできた。
神尾蓮だった。
取引先から戻ってきたのだろう。
いつもなら完璧に整えられている前髪が額に張り付き、上質なスーツの肩がぐっしょりと濡れている。
それでも、彼は手にした紙袋――真白が役員から頼まれていた、今夜中に必要な他社との契約書原本の束――だけは、自分のジャケットの内側に抱え込んで濡らさないように守っていた。
「神尾さん……っ」
真白は思わず一歩踏み出し、彼に駆け寄っていた。
完璧な秘書の仮面など、一瞬でどこかへ吹き飛んでいた。
「乾さん」
蓮は息を荒くしながら真白に気づくと、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
だがすぐに、いつもの「爽やかな王子様」の笑顔を作ろうとする。
「ちょうど良かった、これ、頼まれていた原本です。濡らさずに持ち帰れました」
「……そんなことより、ご自分がずぶ濡れじゃないですか」
真白の声は、これまでの事務的なトーンとは明らかに違っていた。少しだけ怒ったような、だけど、酷く心配そうな、剥き出しの素の声。
真白はバッグからハンカチを取り出すと、それを蓮に差し出した。
「拭いてください。風邪をひきます」
「……ありがとう」
蓮はハンカチを受け取ると、愛おしそうにそれを見つめ、そっと額の雨水を拭った。
ふたりの間に、沈黙が流れる。
いつもならすぐに立ち去るはずの真白が、その場に留まっていることに、蓮は微かに息を呑んだ。
「神尾さん」
真白は意を決して、蓮の目を真っ直ぐに見つめた。
「……深夜に、私の仕事のデータを更新するの、もうやめてください」
蓮の肩が、びくりと跳ねた。
「気づいて、いたんですか」
「当たり前です。私は秘書ですよ。データの管理ログくらい確認します。……自分の睡眠時間を削ってまで、あんな無茶なこと……誰も望んでいません」
真白は拳を握りしめ、一気に言葉を紡いだ。
「神尾さんに、あんな風に私の日常を守ってもらわなくても、私は自分で完璧に仕事をこなせます。だから……もう、あんな馬鹿な努力はしないでください」
きつい言葉。けれど、その瞳には、蓮を拒絶する冷たさは一切なかった。ただただ、彼の体を気遣い、自分への過剰な献身に胸を痛めている、優しい真白の心が透けて見えていた。
蓮はハンカチを握りしめたまま、ふっと、これまでに見たことのない、切なくて、だけど心の底から嬉しそうな笑みをこぼした。
それは「完璧な王子様」の仮面でも、「無表情な裏の顔」でもない、真白だけに向けられた、ただの不器用な男の笑顔だった。
「……乾さんにそう言われたら、従うしかないですね。でも」
蓮は少しだけ真白に近づき、真白を怖がらせないように、静かに、だけど力強い声で言った。
「乾さんの邪魔をしたくないのも、乾さんに笑っていてほしいのも、全部俺の本心です。……これだけは、信じてください」
雨の音に消されそうなほど静かな、だけど真っ直ぐな告白。
真白は心臓がうるさいほど脈打つのを感じながら、ただ、濡れた蓮の肩をじっと見つめることしかできなかった。
月曜日の18時前。
社内の多くの人間が雨足が弱まるのを待つ中、真白はオフィスのエントランスで、スマートフォンの雨雲レーダーを見つめていた。
(あと1時間は止みそうにない。……傘、持ってきてないな)
いつもなら「じゃあロビーで少しゲームでもして時間を潰そう」と切り替えられるのだが、今の真白の頭の中は、あの深夜3時のデータ更新履歴のことでいっぱいだった。
今日一日、オフィスで蓮の姿を見かけるたびに、彼の目の下にうっすらと浮かぶ隈が気になって仕方がなかったのだ。
「あ……」
不意に、ロビーの自動ドアが開き、ずぶ濡れの男が駆け込んできた。
神尾蓮だった。
取引先から戻ってきたのだろう。
いつもなら完璧に整えられている前髪が額に張り付き、上質なスーツの肩がぐっしょりと濡れている。
それでも、彼は手にした紙袋――真白が役員から頼まれていた、今夜中に必要な他社との契約書原本の束――だけは、自分のジャケットの内側に抱え込んで濡らさないように守っていた。
「神尾さん……っ」
真白は思わず一歩踏み出し、彼に駆け寄っていた。
完璧な秘書の仮面など、一瞬でどこかへ吹き飛んでいた。
「乾さん」
蓮は息を荒くしながら真白に気づくと、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
だがすぐに、いつもの「爽やかな王子様」の笑顔を作ろうとする。
「ちょうど良かった、これ、頼まれていた原本です。濡らさずに持ち帰れました」
「……そんなことより、ご自分がずぶ濡れじゃないですか」
真白の声は、これまでの事務的なトーンとは明らかに違っていた。少しだけ怒ったような、だけど、酷く心配そうな、剥き出しの素の声。
真白はバッグからハンカチを取り出すと、それを蓮に差し出した。
「拭いてください。風邪をひきます」
「……ありがとう」
蓮はハンカチを受け取ると、愛おしそうにそれを見つめ、そっと額の雨水を拭った。
ふたりの間に、沈黙が流れる。
いつもならすぐに立ち去るはずの真白が、その場に留まっていることに、蓮は微かに息を呑んだ。
「神尾さん」
真白は意を決して、蓮の目を真っ直ぐに見つめた。
「……深夜に、私の仕事のデータを更新するの、もうやめてください」
蓮の肩が、びくりと跳ねた。
「気づいて、いたんですか」
「当たり前です。私は秘書ですよ。データの管理ログくらい確認します。……自分の睡眠時間を削ってまで、あんな無茶なこと……誰も望んでいません」
真白は拳を握りしめ、一気に言葉を紡いだ。
「神尾さんに、あんな風に私の日常を守ってもらわなくても、私は自分で完璧に仕事をこなせます。だから……もう、あんな馬鹿な努力はしないでください」
きつい言葉。けれど、その瞳には、蓮を拒絶する冷たさは一切なかった。ただただ、彼の体を気遣い、自分への過剰な献身に胸を痛めている、優しい真白の心が透けて見えていた。
蓮はハンカチを握りしめたまま、ふっと、これまでに見たことのない、切なくて、だけど心の底から嬉しそうな笑みをこぼした。
それは「完璧な王子様」の仮面でも、「無表情な裏の顔」でもない、真白だけに向けられた、ただの不器用な男の笑顔だった。
「……乾さんにそう言われたら、従うしかないですね。でも」
蓮は少しだけ真白に近づき、真白を怖がらせないように、静かに、だけど力強い声で言った。
「乾さんの邪魔をしたくないのも、乾さんに笑っていてほしいのも、全部俺の本心です。……これだけは、信じてください」
雨の音に消されそうなほど静かな、だけど真っ直ぐな告白。
真白は心臓がうるさいほど脈打つのを感じながら、ただ、濡れた蓮の肩をじっと見つめることしかできなかった。



