火曜日の朝。
熱が下がり、体力が戻った真白は、いつもより15分早く会社に出社していた。
「乾さん、もう大丈夫なの? 無理しないでね」
「ご心配をおかけして申し訳ありません、チーフ。もうすっかり平気です」
シニョンはミリ単位の狂いもなく美しくまとめられ、ネイビーのスーツにはシワ一つない。
肌の赤みを消すために少しだけ厚めにしたベースメイクも、彼女の「完璧な秘書の仮面」をより強固に補強していた。
けれど、胸の奥は、今にも暴発しそうなほどぐちゃぐちゃだった。
聖良から「神尾くんに怒鳴り込んできた」という話は聞いていた。
彼が本当は恋愛経験豊富なのに一途だとか、猛省しているとか、そんな説明もされた。
(だからって、私のファーストキスを奪っていい理由にはならない。……なにより、私は恋愛なんて興味ないのに。どうしてあの人のせいで、こんなに心が掻き乱されなきゃいけないの?)
怒りと、戸惑いと、未だに唇に残るあの熱い感触への動揺。様々な感情が泥のように渦巻いていた。
だが、乾真白はプロだ。プライベートの混乱を仕事に持ち込むことなど、彼女のプライドが絶対に許さない。
午前10時。常務宛ての書類を整理するため、真白が役員フロアのシュレッダーの前に立った、その時だった。
「……乾さん」
背後から、低く、抑えられた声が聞こえた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは神尾蓮だった。
真白の目が、すっと冷徹な光を帯びる。
「神尾さん。おはようございます。何か秘書課に御用でしょうか」
完璧な、隙のない営業スマイル。
いつも以上の声のトーンの高さと、淀みのないプロフェッショナルな対応。
心の中のぐちゃぐちゃな葛藤など一ミリも見せず、真白は完璧な壁を蓮の前に築き上げた。
対する蓮は、いつもの「爽やかな王子様」の笑顔を完全に消していた。
真白の体調を気遣うような、そして酷く申し訳なさそうな、痛々しいほど真剣な瞳で真白を見つめている。
一歩近づこうとして、しかし真白の冷徹な仮面を見て、蓮の足がピタリと止まった。
「体調は……もう、大丈夫ですか」
「ええ、問題ありません。ご心配をおかけしました」
真白は事務的に一礼する。
その目は、完全に蓮を「ただの同僚」のように突き放していた。
「乾さん。あの夜のこと、俺は――」
「神尾さん」
真白は蓮の謝罪の言葉を、凛とした声で遮った。
「その件に関しましては、状況整理はすでに終了しております。仕事上の支障はありませんので、どうぞお気になさらないでください。……それでは、私はこれで失礼いたします」
「……っ」
蓮が何かを言いかけるより早く、真白は美しくターンすると、背筋をピンと伸ばしたまま、優雅な足取りでその場を去っていった。
完璧にやり通した。
けれど、パーテーションの陰に入った瞬間、真白はバインダーを抱える指先が、小さく震えていることに気づいていた。
熱が下がり、体力が戻った真白は、いつもより15分早く会社に出社していた。
「乾さん、もう大丈夫なの? 無理しないでね」
「ご心配をおかけして申し訳ありません、チーフ。もうすっかり平気です」
シニョンはミリ単位の狂いもなく美しくまとめられ、ネイビーのスーツにはシワ一つない。
肌の赤みを消すために少しだけ厚めにしたベースメイクも、彼女の「完璧な秘書の仮面」をより強固に補強していた。
けれど、胸の奥は、今にも暴発しそうなほどぐちゃぐちゃだった。
聖良から「神尾くんに怒鳴り込んできた」という話は聞いていた。
彼が本当は恋愛経験豊富なのに一途だとか、猛省しているとか、そんな説明もされた。
(だからって、私のファーストキスを奪っていい理由にはならない。……なにより、私は恋愛なんて興味ないのに。どうしてあの人のせいで、こんなに心が掻き乱されなきゃいけないの?)
怒りと、戸惑いと、未だに唇に残るあの熱い感触への動揺。様々な感情が泥のように渦巻いていた。
だが、乾真白はプロだ。プライベートの混乱を仕事に持ち込むことなど、彼女のプライドが絶対に許さない。
午前10時。常務宛ての書類を整理するため、真白が役員フロアのシュレッダーの前に立った、その時だった。
「……乾さん」
背後から、低く、抑えられた声が聞こえた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは神尾蓮だった。
真白の目が、すっと冷徹な光を帯びる。
「神尾さん。おはようございます。何か秘書課に御用でしょうか」
完璧な、隙のない営業スマイル。
いつも以上の声のトーンの高さと、淀みのないプロフェッショナルな対応。
心の中のぐちゃぐちゃな葛藤など一ミリも見せず、真白は完璧な壁を蓮の前に築き上げた。
対する蓮は、いつもの「爽やかな王子様」の笑顔を完全に消していた。
真白の体調を気遣うような、そして酷く申し訳なさそうな、痛々しいほど真剣な瞳で真白を見つめている。
一歩近づこうとして、しかし真白の冷徹な仮面を見て、蓮の足がピタリと止まった。
「体調は……もう、大丈夫ですか」
「ええ、問題ありません。ご心配をおかけしました」
真白は事務的に一礼する。
その目は、完全に蓮を「ただの同僚」のように突き放していた。
「乾さん。あの夜のこと、俺は――」
「神尾さん」
真白は蓮の謝罪の言葉を、凛とした声で遮った。
「その件に関しましては、状況整理はすでに終了しております。仕事上の支障はありませんので、どうぞお気になさらないでください。……それでは、私はこれで失礼いたします」
「……っ」
蓮が何かを言いかけるより早く、真白は美しくターンすると、背筋をピンと伸ばしたまま、優雅な足取りでその場を去っていった。
完璧にやり通した。
けれど、パーテーションの陰に入った瞬間、真白はバインダーを抱える指先が、小さく震えていることに気づいていた。



