オタクな秘書の攻略方法〜来る者拒まず去る者追わずだった同期に一途に溺愛される

小鳥遊が去った後、新橋のガード下の騒がしさは、二人のテーブルにだけは一切届いていなかった。
ぬるくなったビールジョッキを前に、神尾蓮は両肘を膝につき、深く頭を抱えたまま動かない。
「……おい、神尾」
佐伯拓海は、焼き鳥のタレが染みた皿を脇に避け、声を落とした。
「マジなんだな。お前がここまで取り乱すなんて、入社以来、いや学生時代から数えても初めて見たぞ」
いつもなら「うるさい」と冷たく一蹴するはずの蓮が、今は反論する気力すらないように、掠れた声で呟く。
「……当たり前だろ。俺は、最低なことをしたんだ。彼女の大切なものを、自分の傲慢さで踏みにじった。弁解の余地なんて、どこにもない」
「恋愛未経験、か……。乾さん、ガードが固いとは思ってたけど、まさかそこまで純粋な人だったとはな」
佐伯は深く息を吐き出し、親友の横顔を見つめた。
普段の蓮は「来る者拒まず」で、寄ってくる女性たちをスマートにあしらうだけの冷徹な男だった。
誰も彼の本性に触れられないし、蓮自身も誰かに踏み込んでほしくないと壁を作っていた。
その蓮が、まさか自ら壁を壊し、泥塗れになって一人の女性を追いかけ、挙げ句にその手を汚して絶望している。
「なあ神尾。お前、乾さんの何がそこまで良かったんだよ。他にも綺麗な女なら、社内にも取引先にもいくらでもいただろ」
佐伯の純粋な問いに、蓮はゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から覗くその瞳は、ひどく暗く、そして痛々しいほど一途な熱を孕んでいた。
「……わからない。ただ、気づいた時には目で追ってた。彼女がオフィスで完璧な仕事をしてる姿も、誰も見てないところで必死にゲームに向き合ってる姿も……。俺が今まで出会ってきた誰よりも、嘘がなくて、まっすぐで、眩しかった。俺の完璧な外面なんかじゃなく、本質を暴いて、俺を泥臭く変えてしまうのは、彼女しかいないと思ったんだ」
蓮はシワの寄ったスラックスの膝を、ぎゅっと握りしめた。
「だけど、その結果がこれだ。嫌われるのが怖くて、焦って、一方的に押し付けて……本当に、どうしようもない馬鹿だ、俺は」
これまでのスマートな『王子』の化けの皮は完全に剥がれ落ち、そこにあるのは、一人の不器用で、どうしようもなく一途な「神尾蓮」という男の本性だけだった。
「……まぁ、小鳥遊さんも言ってたろ。決めるのは乾さんだってさ」
佐伯は蓮の肩をぽんと叩き、自分のジョッキを飲み干した。
「お前がマジだってことは、小鳥遊さんにも、俺にも伝わった。だったら、まずは乾さんの体調が戻るのを待て。それから、男らしく正面から謝り倒せ。お前の本気のツラ、見せてやればいい」
「……ああ。そうする」
蓮は静かに頷き、冷たい夜風が吹き込むガード下から空を見上げた。
乾真白。彼女にいつか、もう一度だけ自分を見てもらうために。
これまでの傲慢な自分をすべて捨ててでも、彼女の前に跪く覚悟を、蓮は泥濘(どろ)の底で静かに固めていた。