オタクな秘書の攻略方法〜来る者拒まず去る者追わずだった同期に一途に溺愛される

(……視線を感じる。気のせい、じゃないよね?)
火曜日の出来事から数日。
木曜日の午前中、24階の役員フロアの廊下を歩きながら、真白は背中にピリピリとした微弱な電気のようなものを感じていた。
秘書課の乾真白は、今日も非の打ち所がない完璧な立ち姿だ。手元には、11時から始まる経営会議の議題を整理したバインダー。
しかし、その優秀なセンサーが、廊下ですれ違った営業一課の神尾蓮を捉えた瞬間、脳内の警報がけたたましく鳴り響いた。
蓮は、生活産業グループの部長の後ろを、いつもの涼やかな笑顔で歩いていた。誰が見ても非の打ち所がない、紳士的で爽やかなエースの姿だ。
すれ違うその一瞬。
蓮の視線が、すっと真白の顔へと向けられた。
社内の他の人間には、単なる「すれ違いざまの社交的な目配せ」にしか見えなかっただろう。だが、真白にはわかった。
蓮の切れ長の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ浮かんだ、悪戯っぽく、すべてを見透かすような冷ややかな光。
そして、すれ違いざまに聞こえるか聞こえないかの声で、蓮の口元がかすかに動いた気がした。
『――チョコ、美味しかった?』
声は聞こえなかったはずなのに、真白の脳内には確かにその言葉が再生された。
真白は表情筋をミリ単位で制御し、美しく、冷ややかなプロの会釈を返して通り過ぎた。
(な、何なの、あの男……っ!)
廊下の角を曲がった瞬間、真白は人知れず小さく息を吐き出した。
心臓が少しだけ早く鼓動しているのは、決してときめきなんかではない。
自分の平穏な「オタクライフ」と「完璧な秘書としてのキャリア」を脅かす不確定要素に対する、極限の警戒心だ。
(私は恋愛なんて興味ないの! アニメとゲームの推しを愛でるだけで、人生の幸福度は上限突破してるんだから。あの男の意図が分からない……面白がって私をからかってるだけだわ、絶対に!)
真白はバインダーをぎゅっと抱きしめ、唇を小さくツンと尖らせた。
恋愛未経験の彼女にとって、男性からの「個人的な好意やアプローチ」という概念自体が脳内辞書に存在しない。
だからこそ、蓮の行動はすべて「自分の弱みを握った上での、スマートで意地悪なゲーム」のように思えて仕方がなかった。
「乾さん、経営会議の準備は?」
「はい、すべて整っております。今すぐ役員室へ参ります」
上司の声に、真白は一瞬で「秘書の仮面」を完全に貼り直し、背筋を伸ばして歩き出した。
だが、あの神尾蓮の、どこか愉しげで不敵な視線の残像だけが、いつまでも脳裏の隅にこびりついて離れなかった。