追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 七日目。
 厨房への夜間潜入を試みた夜のこと。

 深夜、ミレイユは厨房の換気用の小窓から中へ入った。
 暗い厨房には、昼の料理の匂いがまだ濃く残っている。
 焼いた肉の名残、香草、温め直されたスープ、粉ものの乾いた匂い。
 猫の鼻にはどれも鮮烈すぎるほどで、足を踏み入れた瞬間、空腹がきゅうと鳴いた。

 棚にはパンの残りが置いてあった。

(ごめんなさい、少しだけ)

 パンを少しかじる。
 昼間から何も食べていなかったので、やけに美味しかった。
 ぱさぱさしているはずなのに、小麦の匂いがじんわり甘い。

 厨房の隅には干した魚もあった。
 その存在に気づいたとたん、猫の鼻が勝手にひくひく動く。
 見たくないのに見てしまう、みたいな感じだった。

 干し魚へ近づいた、そのとき。
 扉が開いた。

「誰かいるのか?」

 松明を持った見回りの衛兵が入ってきたのだ。
 ミレイユは咄嗟に調理台の下へ潜り込む。
 腹を床につけて、耳を伏せ、息を止める。
 調理台の下は暗く、猫一匹が隠れるには十分だったが、松明の光は床を舐めるように伸びてきて、ひげの先がぴりぴりした。

 衛兵が中を照らす。

「……気のせいか」

 靴音が近づき、止まり、また離れていく。
 その短いあいだが、ひどく長く感じられた。
 ミレイユは息を殺したまま待ち、扉の音が遠ざかってからようやく体の力を抜いた。
 干し魚は持っていけなかった。
 結局、パンのかけらだけを口にくわえて小窓から外へ出る。

 月明かりの下へ出た途端、前足から崩れるみたいにその場へ座り込んだ。

「ミャゥゥ……(疲れた……)」

 この数日間、猫として生きてきた。
 状況は何も変わっていない。
 魔女は王宮に居座り、ミレイユは猫のまま王宮の庭を彷徨っている。

 このまま魔法が解けなかったら、どうなるのだろう。
 本当にこのまま、猫として生きていくのか。
 誰にも本当のことを伝えられないまま、庭の片隅や屋根の上で日々をやり過ごしていくのか。

「ニャッ!(やだ)」

 思わず声が出た。
 とても正直な気持ちだった。

 猫の生活は、たしかに思ったほど悪くない。
 高いところへ登れるし、星はよく見えるし、狭い場所に丸まると妙に落ち着く。
 でも、そういう問題じゃない。
 悪くないけど、やだ。

 早く戻りたい。
 お父様とお母様に会いたい。
 侍女頭の小言を聞きたい。
 侍女の淹れてくれるお茶を飲みたい。
 知らない王太子殿下にどきどきしながら挨拶する、あの婚約式の朝に戻りたい。

 ミレイユが空を見上げると、丸い月が庭を照らしていた。
 夜の王宮は静かで、静かすぎて、余計に心細い。

(諦めない。諦めたら終わりよ。何かきっと、手があるはず)

 そう何度も心の中で言い聞かせた。



 ミレイユは観察を続けた。
 王宮の日常が、だいぶわかってきた。
 人が多く通る時間、庭師が来る時間、厨房から匂いが流れてくる時間。
 そして、魔女——偽ミレイユの行動もある程度把握できた。

 週に二度、定例の会食か何かで王宮にやってくる。
 昼食は本棟の食堂で取り、そのあと午後の一定の時間になると、必ず別棟の一室へ入る。
 同じ時間、同じ部屋だ。

(殿下と会うのと、お妃教育のため?)

 建物の中に入るのは危険だった。
 窓から覗けないかも試してみたけれど、その部屋の窓は庭から見えない位置にある。
 屋根伝いに回れないかとも考えたが、途中で人目につく可能性が高い。

 じわじわと手詰まり感が増していく。

 そして、手詰まりを意識し始めた十一日目の夜。
 転機が訪れた。

 月のない夜だった。
 ミレイユは池の脇で水を飲んでいた。
 夜の池は昼より静かで、水面が黒く光っている。
 遠くでは蛙の声が途切れ途切れに響き、濡れた石の匂いがした。

 そのとき、本棟の一室に明かりが点いた。
 窓が開き、人影が現れる。
 濃紺の上衣。昼間にも倉庫の屋根から見かけた人物だ。

 人影は窓に肘をつき、夜の庭を眺めていた。
 何かを考えているような、静かな佇まいだった。
 ただ立っているだけなのに、不思議と目を引かれる。

 ミレイユは水を飲むのも忘れて動きを止め、その人影を見た。
 耳が自然と前を向き、尻尾の先だけが一度、小さく揺れる。

(王太子殿下……かな)

 暗くて顔はわからない。
 けれど立ち姿から、若い男性だということはわかる。
 ふと、その人物がこちらを向いた気がした。
 暗い庭の中、目が合ったかどうかは距離がありすぎてわからない。
 わからないのに、なぜか胸の奥が妙にざわついた。

 ミレイユは草の上に座ったまま、その窓を見つめる。
 逃げるべきなのか、このまま見ていていいのか、自分でもわからなかった。

(もし本当に王太子殿下なら……何を考えているんだろう)

 婚約が成立した。
 相手は、しかし偽物だ。
 殿下はそれを知らない。

(……申し訳ない気持ちが湧いてくる)

 自分は被害者だ。
 何も悪いことはしていない。
 それでも、見知らぬ殿下が騙されているのを知っていて、何もできないでいる。
 その事実が、ミレイユの胸にじんわりとした痛みを残した。

(変な話ね……もし猫にならなかったら、今頃私が婚約者として王宮に入っていた。そうしたら、あの窓から夜の庭を見下ろす殿下を、建物の中から見ていたのかもしれない)

 そんなことを思う自分に、少しだけ戸惑う。
 会ったこともない相手なのに。
 声も知らない相手なのに。

 人影はしばらくして窓を閉め、明かりも消えた。
 ミレイユはその場に座ったまま、消えた窓をいつまでも見つめていた。