追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 二日目。
 ミレイユは公爵家の周辺を探りに行った。

 門の近くで気配を消すように様子を窺っていると、昼前に馬車が出てきた。
 窓から見えた顔は、ミレイユの姿をした魔女だ。
 婚約式は昨日終わった。では今日はどこへ向かうのか。王宮か、それとも別の挨拶回りか。
 ミレイユは反射的に馬車を追おうとしたが、馬の脚はあまりにも速く、白い車輪の軌跡だけを残して、あっという間に見失ってしまった。

(どこへ行ったの……王宮?もう婚約が成立したということ?)

 もっとしっかり、スケジュールを読み込んでおけばよかったと後悔しても遅い。

 時間が経てば経つほど、魔女の偽装は固まっていく。
 本物のミレイユが『私が本物です』と訴えたところで、魔女がミレイユの姿をしている以上、誰も信じないかもしれない。
 そう思うと、背中の毛がじわりと逆立つような不安が走った。

(早くしないと)

 でも、どうすればいい。
 猫のまま王宮へ乗り込む?
 誰に話せる?
 どうやって魔法を解く?

 問いばかりが増えて、答えはひとつも出てこない。
 ミレイユは考えに考えたが、結局何もできないまま夜になった。
 その夜も、教会の軒下で眠った。



 三日目の朝、ミレイユは本格的に途方に暮れていた。
 雨が降り始めたのだ。五月の雨は思った以上に冷たい。
 毛並みが濡れると、体が急激に冷えていく。
 何度かプルプルプルと水を弾いてみたけれど、水を含んだ毛が肌に張りついて、歩くだけでも重たい。

 屋根のある場所を探して走り回ったが、軒下に陣取ろうとすれば先住猫に唸られ、物置小屋に潜り込もうとすれば使用人に追い出された。
 濡れた耳を伏せ、ひげの先から雫を落としながら路地をさまよっていたとき、ふと気づく。
 いつの間にか、王宮の外壁の近くまで来ていた。

 王宮は街の中心にある。
 高い石壁がぐるりと周囲を囲み、その中に王家の居所とさまざまな施設が収まっている。
 ミレイユも婚約式当日に、初めて正門を通るはずだった。
 ——あの魔女に横取りされるまでは。

 石壁に沿って歩きながら、ミレイユは考えた。
 この中に、今ごろ魔女がいる。
 ミレイユに化けた魔女が、王太子の婚約者として振る舞っている。

(誰も助けてくれない)

 そのとき——ぐるるる、と猫の喉から腹の虫の音がした。
 緊張感のない音なのに、今の自分にはやけに切実だった。

(……とりあえず、食べないと)

 ミレイユは王宮の外壁を見上げる。
 石壁の一部が古くなって、少し崩れているところがあった。
 猫一匹なら通れそうな隙間だ。

 王宮の中には厨房がある。
 食べ物がある。
 何より、屋根がある。
 ミレイユは隙間を見た。

(……どうせ猫だし)

 白いひげをぴくりと震わせて、隙間に頭を突っ込んだ。

 王宮の庭は、思ったよりずっと広かった。
 壁の中へ入ってみると、そこには整然とした庭園が広がっている。
 幾何学模様に刈り込まれた生け垣と、色とりどりの花壇。
 中央には噴水があり、石畳の小径が縦横に伸びていた。

(綺麗……)

 五月の雨に濡れた庭は、それでも十分に美しい。
 花びらには雫が乗り、生け垣の葉先からは細い水がぽたぽた落ちていた。
 人間の目で見ていた庭より、今はひとつひとつが近く、鮮やかに見える気がする。

 けれど、ぼんやり鑑賞している場合ではなかった。
 庭師の姿が見えたのだ。雨合羽を着た男が、花壇の傍でしゃがみ込んでいる。

 気づかれたらまずい。

 ミレイユは急いで生け垣の陰へ潜り込んだ。
 葉のあいだをするりと抜けるのは、もうずいぶん慣れてしまった。
 生け垣の内側は思った以上に快適で、葉が雨を遮ってくれるぶん、中はさほど濡れていない。
 土もほんのりあたたかく、鼻先を近づけると青い匂いがした。

 一息ついてから、ミレイユは庭を観察した。
 王宮の本棟は庭の北側に建っている。
 石造りの威厳ある建物で、いくつもの塔が空へ突き出していた。
 南側には別の建物がある。厨房か、使用人棟だろうか。
 煙突の位置からして、そのあたりの可能性が高そうだった。

(悪くない状況……かな?)

 ここにいれば、屋根の代わりに生け垣がある。
 食べ物は——魚が泳いでいる池もあった。
 猫に魚は定番だ。自分は令嬢だが、今は猫なので、致し方ない。
 そう思わないとやっていけない。

 そして何より、ここには魔女がいる。
 近くにいれば、何か手がかりが掴めるかもしれない。
 遠くの路地で震えているより、ずっとましだ。

(当面、ここにいよう)

 そう決めた途端、雨が少し強くなった。
 ミレイユは生け垣の中で丸くなる。
 前足を胸の下へしまい込み、尻尾を体へ巻きつけると、猫の本能が「その形がいちばんあたたかい」と教えてくる。
 なんだか悔しいけれど、実際その通りだった。
 雨音を聞きながらじっとしているうちに、冷え切っていた体が少しずつ戻ってくる。

 その日の午後から、ミレイユの『王宮潜伏生活』が始まった。

 食料は池の魚。
 最初は水に前足を突っ込んで掬い上げようとしたが、魚は素早く身を翻して逃げてしまう。
 水しぶきだけが肉球を濡らし、ひどくみじめだった。
 どうしたものかと思っていたら、今度は猫の体の本能が教えてくれた。

 静かに待つ。
 息を潜める。
 影が近づいた瞬間、素早く引っ掻く。

 何度か失敗した末に、小さなフナを一匹捕まえることができた。
 跳ねる魚を前に、少しだけ達成感があったのが悔しい。

 生で食べることへの抵抗は、もちろんあった。
 若干どころではない。かなりあった。
 けれど文明的な調理方法がない以上、選択肢はない。
 ミレイユはぎゅっと目をつむり、意を決してかぶりついた。

「フニャッ!(……美味しい)」

 自分でも驚いた。
 猫の舌は本当に正直だ。悔しいけれど、鮮度のいい魚はちゃんと美味しい。
 水は噴水の縁から飲んだ。
 これは令嬢としての矜持を大いに傷つけたが、渇くよりはましだった。
 夜は生け垣の中か、庭の端にある石造りの東屋の陰で眠った。
 東屋の下は石が冷たかったが、雨をしのげるだけでもありがたい。



 王宮に忍び込んだ次の日の朝。
 ミレイユは日課として、魔女の動向を観察することにした。

 昼頃、ミレイユの姿をした魔女が馬車で王宮へやって来た。
 生け垣の隙間からその様子を窺って、ミレイユは思わず目を細める。

(……私、あんな顔してたの?)

 他人の目で自分の顔を見るというのは、奇妙な体験だった。
 確かにあれは自分の顔だ。けれど、表情が違う。
 口元のかたさも、目つきの冷たさも、あれはミレイユではない。
 あの魔女は、ひどく機嫌が悪そうな顔をしていた。

(うまくいってないのかしら)

 そう思うと少し複雑で、でも少しだけ安堵した。
 どうやら、何もかも思い通りというわけではないらしい。