追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

「ニャッ!(な、なに——!)」

 叫んだつもりだった。
 けれど、喉から飛び出したのは人間の声ではない。

 甲高い、猫の鳴き声だった。

 ミレイユは自分の手を見た。
 いや、手ではない。前足だ。
 白い毛に覆われた、小さな前足。
 先には爪があり、ぷに、とした肉球までついている。

「ニャ……ニャ……???(どういうこと!?どういうことなの!?)」

 パニックのまま辺りを見回すと、見慣れたはずの居室が巨大な広間のように見えた。
 ドレッサーの脚は柱みたいに聳え、椅子の座面は飛び乗れる気がしないほど高い。

 横を見る。
 窓に映った自分の姿が見えた。
 どこからどう見ても、真っ白な白猫だった。

 猫になっている。
 自分が。
 猫になっている。

 頭が真っ白になる、とはこういうことを言うのだろう。
 考えたいことは山ほどあるのに、何ひとつまとまらない。
 ただ心臓だけが、どくどくとうるさく鳴っていた。

「あらあら、思ったよりずっと可愛い」

 ミランダが、くすくす笑いながら見下ろしていた。
 けれど、その笑顔はもう先ほどまでの貼りついたものではない。
 心から楽しんでいる、ぞっとするほど底意地の悪い笑みだった。

「ニ、ニャ——!!(あなた、何をしたの!元に戻して!今すぐ!)」
「言葉は通じないんですよ、お嬢様。その姿では」

 ミランダがしゃがみ込み、顔を寄せてくる。
 榛色の目が、愉快そうに細められた。

「五年前から計画してたんです。アドリアン殿下に近づく機会を。やっと掴んだ婚約式という好機、あなたには悪いけど、少しだけお借りしますね」
「ニャニャ!?(五年!?)」

「殿下とは一度だけ、遠くからお姿を拝見したことがあるんです。それだけで十分でした。あのお方は私のものになるべき人。なのに、あなたみたいな地味な令嬢に婚約者の席を取られるなんて、納得できませんでしょう?」

 そう言ってミランダが髪に手をやると、黒髪がゆっくりとプラチナブロンドへ変わっていく。
 瞳の色も、碧に。輪郭も、背格好も、少しずつミレイユに似ていく。
 目の前で、自分がもう一人作られていくみたいで、背筋がぞわりと粟立った。

 変身魔法。
 この女は、魔女だ。

「大丈夫、あなたをここで殺したりはしませんよ。この魔法は、生きているあなたの姿をなぞる魔法。あなたには生きていてもらわないと」
(殺さない、って……それが優しさのつもり?)」
「ただ、猫になって、どこかよそへ行ってもらえれば。この国では猫は不吉なもの。公爵家の屋敷で白猫が見つかれば、良いようにはなりませんよ」

 怒りが、かっとこみ上げた。
 次の瞬間、白い毛がぶわっと逆立つ。
 背中が勝手に弓なりになり、耳がぺたりと伏せられた。
 猫の体というのは、こんなにも感情がそのまま外へ漏れるものらしい。
 隠す暇もなかった。

「シャーーッ!!」
「あら、怒ってる。可愛い」

 魔女は楽しそうだった。
 ミレイユの怒りを、愛玩動物のじゃれつきでも眺めるみたいに見下ろしている。
 本気で腹を立てているのに、その本気ごと小馬鹿にされているのがわかった。

(この女は——!)
「大体ね、お嬢様。あなたが王太子殿下の婚約者に選ばれたのは、家柄だけの話です。あなた自身に何か特別なものがあったわけじゃない。ブランシュフォール公爵家の娘というラベルが必要だっただけ」

 その言葉は、思ったよりずっと深くミレイユに刺さった。

「入れ替わってしまえば、誰も気づかない。それほどの存在感しかなかったということですよ」
(……そうかも)

 ちくり、と胸が痛む。
 王太子殿下のことを何も知らず、殿下も自分のことを何も知らない。
 ただ名前と家柄だけで結ばれていた縁だ。
 婚約者と呼ばれていても、まだ何ひとつ始まっていない関係だったのかもしれない。

 でも——。

(それでも、許せない)

 どんな理由があろうと、婚約式の当日に婚約者を猫に変えて入れ替わるなんて、絶対に許してはいけないことだ。
 殿下を騙すことも。公爵家のみんなを欺くことも。
 そして何より、ミレイユを勝手に白猫に変えたことも。

(絶対に戻る。この女のしたことを証明してみせる)

 奥歯を噛みしめたい気分だった。
 けれど、いまのミレイユにできるのは、小さな前足にぎゅっと力を込めることだけだ。
 肉球のあいだから、かすかに爪がのぞいた。
 魔女が立ち上がり、鏡の前に立つ。

「完璧。さあ、今日から私がミレイユ・ド・ブランシュフォールです」
「ミャ!ミャーーー!(待って!戻して!元に戻してください!)」

 ミレイユは喉が痛くなるほど鳴いた。
 けれど、それは甲高い猫の鳴き声でしかない。
 言葉にはならないし、悔しさも伝わらない。
 魔女がドアを開ける。そして振り向きもせずに言った。

「逃げなさい。さもなくば、侍女たちが見つけてしまう。不吉とされる猫がどんな扱いを受けるか——教えてあげなくてもわかっているでしょう?」

 ドアが閉まった。
 ぱたん、という音がやけに冷たく響く。
 ミレイユは一人、広すぎる居室の床に取り残された。

(嘘でしょ。嘘よ。これは夢。夢に決まってる)」

 ぶるぶると体が震える。
 尻尾の先まで勝手に細かく揺れていた。
 でも夢ではなかった。
 冷たい床の感触も、速すぎる心臓の音も、ひげの先に触れる空気の流れさえ妙に生々しい。

 どのくらいそうしていただろう。
 やがて、ドアの向こうから廊下を走る足音が聞こえてきた。
 侍女頭の声がする。

「ミャウ!ミャウ!!(ここ!ここにいる!私はここにいるよ!)」

 ミレイユは弾かれたようにドアへ飛びついた。
 前足でカリカリと引っ掻く。爪が木を削る、細く乾いた音だけが立つ。
 けれど猫の力では、分厚いオーク材のドアはびくともしない。
 二本足なら簡単に回せたはずの取っ手が、いまはひどく高いところにあった。

「部屋に!部屋に猫が入ってきて!!」

 魔女が変身したミレイユが、侍女を伴って部屋に戻ってきてドアを開けた。
 目が合った次の瞬間、その顔がみるみるうちに青ざめていった。

「ニャア!ニャア!ニャニャニャ!(私よ!ミレイユよ!)」

 必死に鳴く。
 足元に駆け寄ろうとしても、猫の声は猫の声でしかない。
 もどかしさに喉の奥がひりついた。

「なぜ、なぜ猫が……!」

 侍女頭が一歩、二歩と後ずさる。
 顔が青いどころではない。紙みたいに白かった。

「だ、誰か!誰かいますか!お嬢様の部屋に猫が!」