追い出された白猫姫は、王太子にお猫様として溺愛される

 白い猫が、王宮の庭を歩いている。

 夜露に濡れた石畳の隙間へ、青白い月光がひっそりと溜まっていた。
 その淡い光の上を、毛並みの整った白猫が、よちよちと、どう見ても慣れない足取りで進んでいる。

 ぴんと伸ばした尻尾の先が、ぶるぶると震えていた。
 寒さのせいだろうか。
 それとも、恐ろしさのせいだろうか。

 いや、どちらもだ。

(なんで私、こんなことになってるの……)」

 白猫の碧い瞳がうるうると潤む。
 猫のくせに、今にも泣きそうになっている。
 猫のくせに、「なんで私が」と思っている。
 猫のくせに、人間の言葉で心の中がぐるぐるしている。

 それもそのはずだった。
 この白猫は、三日前まで人間だったのだから。

 ミレイユ・ド・ブランシュフォールは、どちらかといえば地味な公爵令嬢だった。
 いや、地味というのは少し違うかもしれない。

 薄いプラチナブロンドの髪に、澄んだ碧い瞳。
 肌は磁器のように白く、背筋はすっと伸び、所作もまた、幼い頃から叩き込まれた淑女教育の賜物として申し分ない。
 黙って座っていれば、たいそう上品で美しい令嬢に見える。実際、美しかった。

 ただ、本人に華やかさを求める気持ちが、根本的に欠けていた。

「お嬢様、今日も鏡台の前に三分しかいらっしゃいませんでしたわ」

 侍女頭が、半ば諦めを含んだ声で言う。
 六十近い老婦人で、ミレイユが物心ついた頃からブランシュフォール家に仕えている人だ。
 皺の刻まれたその顔には、長年ミレイユの『地味への傾倒』と戦い続けてきた者だけが持つ、深い疲労がにじんでいた。

「三分あれば十分よ。髪を梳かして、ピンを留めて、それで終わりでしょう」
「終わりではございません!」

 ぴしゃりと言い切られ、ミレイユはぱちりと瞬いた。

「明日は王太子殿下との御婚約式ですのよ!」
「そうだったわね」

 読んでいた本から顔を上げ、侍女頭を見る。
 そうだった。明日は婚約式だ。
 ヴェルモン王国の王太子、アドリアン・ド・ヴェルモン殿下との婚約式。

 改めて口の中で転がしてみても、いまひとつ現実味がない。

 ミレイユは本を閉じ、窓の外へ視線を向けた。
 夕暮れの空は、橙と紫を静かに溶かし合わせたような色をしている。
 綺麗だな、とまずそちらに気を取られてしまうあたり、やはり自分は少しずれているのかもしれなかった。

「……緊張、したほうがいいのかしら」
「したほうがいいのかしら、ではなく、なさってくださいませ!」

 侍女頭が珍しく声を荒げる。
 ミレイユはちょっと眉を上げた。
 どうやら本気で切羽詰まっているらしい。

「お嬢様。王太子殿下はこの国で最も高貴なお方です。いずれ国を統べられる御方です。そのお相手となられるのですよ。もう少し、ほんのもう少しでいいのです。緊張してください。どうかお願いです」
「うーん……」

 そこまで真剣に頼まれると、こちらが悪いことをしている気分になる。

 ミレイユは首を傾げた。
 緊張しろと言われても、緊張の仕方がよくわからない。
 これは生来の気質で、父であるブランシュフォール公爵も「この娘は大物なのか、それとも天然なのか」と長年判断を保留にしていたほどだった。

 実際のところ、ミレイユ自身は、知らない人に会うことへの不安があまり大きくない。
 王太子とはいえ、会ってみれば話くらいはできるだろうし、婚約式は式次第に従って動けばいい。
 そう思っていた。思えてしまっていた。

 もちろん、まったく何も感じていないわけではない。
 ただその緊張は、「うまく立ち居振る舞えるだろうか」という種類のものではなく、「王太子殿下はどんな方なのだろう」という、ほとんど好奇心に近いものだった。

 会ったことがない。
 知っているのは名前と、たいへん優秀で、謹厳で、隙のない御方だという評判だけ。
 絵姿も、令嬢たちの間では秘蔵されているらしいけれど、ミレイユはそういう情報網からきれいに外れているので、顔すらわからなかった。

(きっと、近寄りがたい感じの人なんだろうな)」

『謹厳』という言葉から連想するのは、冷たい色の瞳と、何もかも見透かしてきそうな眼差しだ。
 堅苦しい挨拶を求められて、少しでも所作が乱れれば眉を顰める。
 そういう人。たぶん。

(苦手なタイプだったらどうしよう)」

 そこでようやく、胸の奥が少しだけざわついた。

「お嬢様?どうかなさいましたか?」
「ちょっと緊張してきたかもしれない」
「それは重畳です!」

 ぱっと侍女頭の顔が明るくなる。
 そんなに喜ばれるほどのことなのか、とミレイユは少しおかしくなって、かすかに笑った。

 念のため言っておくが、ミレイユはこの婚約に不満があったわけではない。
 ブランシュフォール公爵家は王家と古くから縁のある家柄で、祖父の代から「いつか王家との縁組を」という話はずっとあった。

 ミレイユ自身が婚約相手として名が上がったのは三年前。
 それからというもの、淑女教育はさらに厳格になり、宮廷作法の授業も増え、王宮で恥をかかないための準備が少しずつ積み重ねられてきた。

 ただ、ミレイユの中では、それらはきっぱり二種類に分かれていた。
 勉強として面白いものと、退屈なものだ。

 宮廷作法や語学は面白かった。
 知らない国の挨拶や、古い礼式の意味を知るのは案外楽しい。
 一方で、ダンスの練習は苦手だった。
 礼の角度を何度も揃える訓練は、途中から眠気との戦いになる。

 たぶん、侍女頭にはずいぶん苦労をかけたと思う。
 鏡台の前に座らせるだけでもひと仕事で、飾り紐の色を選ばせれば「どれでも同じでは?」と返されるのだから、気の毒といえば気の毒だった。

 だからこそ、明日の婚約式くらいは。
 せめて少しくらい、ちゃんとした花嫁らしく振る舞ったほうがいいのだろう。

 そうは思う。思うのだけれど。

 まさかその三日後、自分が白い猫になって王宮の庭を震えながら歩くことになるとは、このときのミレイユは夢にも思っていなかった。

 その夜、ブランシュフォール公爵家は、いつになく慌ただしかった。
 明日の婚約式に備え、使用人たちは遅くまで屋敷中を動き回っている。
 厨房では翌日の会食の支度が進み、玄関ホールには運び込まれた花が次々と飾られ、ミレイユの居室では最後の衣装合わせが行われていた。

 婚約式の衣装は、淡い金色のドレスだった。
 胸元と裾には白い刺繍が施され、ブランシュフォール家の家紋である百合の花が、細やかに、けれど上品に縫い込まれている。
 仕立て屋が三か月をかけて仕上げた、渾身の一着だ。

「おきれいです、お嬢様」

 若い侍女が、うっとりと息をつくように言った。
 ミレイユは鏡の中の自分を見る。

 たしかに、ドレスは美しかった。
 光を受けるたびに淡い金がやわらかく揺れて、白い刺繍が浮かび上がる。
 着ている人間がどうであれ、この一着が見事であることに変わりはない。

(まあ、これなら大丈夫かな)」

 少なくとも、服のせいで失敗することはなさそうだった。

「ねえ、明日の作法の確認をもう一度してもいい?挨拶の文句は覚えたけど、礼の深さのタイミングがちょっと不安で」
「もちろんでございます!」

 侍女頭が、ぱっと顔を輝かせる。
 ミレイユが自分から準備に取り組もうとするのは珍しい。
 そのせいか、返事に妙な弾みがあった。

 作法の確認をひと通り終え、ミレイユが床に就いたのは深夜近くだった。
 天蓋付きのベッドに横になり、目を閉じる。

 昼間までは、どこか他人事のように思っていたのに。
 いざ眠ろうとすると、明日のことがじわじわ胸に満ちてきた。
 今度は本物の緊張だった。

(王太子殿下、どんな人だろう)

 問いかけは宙に浮いたまま、答えを持たないまま、ミレイユは眠りに落ちた。