スーツに身を包んだ千影は、寝室で見せていた甘えた様子は微塵もなく、すっかり大人のビジネスパーソンの顔をしている。
けれど、駅までの短い道のり、誰も見ていない影に入った瞬間、彼はごく自然に私の左手を握りしめた。
大きくて、あたたかい手。
その薬指には、遠くない未来、お揃いの指輪が光るお守りが刻まれるのだ。
「今日の商談、上手くいくといいね」
千影が前を見つめたまま、優しく言った。
「うん。千影にたくさんエネルギーもらったから、絶対に決めてくる。千影もミーティング頑張ってね」
「おう。夜は美味いもんでも食べに行こう。結婚記念日、第ゼロ回ってことで」
「ふふ、何それ」
駅の改札前で、私たちは手を離す。
お互いに違う方向のホームへと歩き出す直前、千影は振り返って、私にだけ分かるように小さく手を振った。
完全に千影のペースに巻き込まれた朝だったけれど、私の心はこれ以上ないほど満たされていた。
これから始まる長い人生の、これがまだ、ほんの入り口に過ぎないのだとしても。
「よし、頑張ろう!」
私は通勤カバンの紐をきゅっと握り直し、大好きな未来の旦那様に負けないくらい力強い足取りで、人混みの中へと踏み出した。
End.

