【第8話】
21時30分。
「……できた」
氷室が、達成感に満ちた声をあげた。
私たちの目の前には、セロハンテープと糊でベタベタになりながらも、なんとか文字が判読できる状態にまで復元された「全48ページの議事録」が鎮座していた。元の厚みの1.5倍くらいに膨れ上がっている。
「やればできるもんですね。明日、部長に提出する際は、必ず『私の脳みそはハッピーセットではありませんでした』と一言添えてください」
「それは勘弁してよ!」
氷室は笑いながら、伸びをして背中を丸めた。
長時間の作業で疲れているはずなのに、その笑顔には一切の陰りがない。
「よし、お礼に何か奢るよ。この時間だし、開いてる店少ないけど、ラーメンでもどう?」
「結構です。私はダイエット中ですので」
「えー、そんなこと言わずにさ。あ、神田さんの好きな関西風のうどんの店、近くに知ってるよ。出汁がすごい美味しいところ」
(……出汁、やと?)
私の好物をピンポイントで突いてくるチョイスに、脳内のツッコミが一瞬怯んだ。
「……なぜ、私が関西風の出汁を好むと?」
「だって、さっきのプロ級の関西弁。相当好きじゃないとあんなスピードで出てこないでしょ? 俺、気になると調べちゃうタチなんだよね。一途だから」
氷室は、いたずらっぽくウインクをして見せた。
その「一途」という言葉に、私は昼間、佐藤さんから聞いたゴシップを思い出していた。
『学生時代からずっと片思いしている人がいる』。
目の前で無邪気に笑うこの男の胸の奥には、そんな重たい感情がずっと眠っているのだ。
「氷室先輩」
「ん?」
「先輩は、その……一途なんですね」
気がつけば、いつもの事務的なトーンではなく、少しだけ踏み込んだ質問が口から漏れていた。
氷室は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして、いつものチャラついた笑顔を少しだけ引っ込め、窓の外の雨を見つめた。
「……まぁね。俺、一回『この人だ』って決めたら、他の人が全然目に入らなくなっちゃうんだよ。どれだけ時間が経っても、どれだけ冷たくされても、その人の特別になりたいって思っちゃう」
その時の氷室の横顔は、社内で「王子様」と持て囃されているそれよりも、ずっと大人で、そしてどこか切なげだった。
その「その人」が誰なのかはわからない。だけど、その一途な想いの重さだけが、夜のオフィスに確かに存在していた。
(……へぇ。そんな風に想われる人は、幸せやな)
なぜだろう。
その「誰か」に対して、私の胸の奥が、ほんの少しだけチクリと痛んだ。
「あ、でもね!」
氷室は急にいつものトーンに戻り、私の顔を覗き込んだ。
「今の俺の最優先事項は、神田さんに『脳みそハッピーセット』以外のあだ名をつけてもらうことだから。ね、うどん行こう?」
「……15分だけなら、付き合ってあげなくもありません」
私は小さくため息をつきながら、バッグを手にした。
鉄の仮面はまだ崩れていない。だけど、その下にある私の心は、彼の不意打ちの真面目さに、少しずつ削り取られているようだった。



