【第4話】
16時55分。
オフィスの窓の外は、どんよりとした灰色の雲が広がり、今にも雨が降り出しそうな気配を見せていた。
私のデスクの電話が鳴る。内線表示は「経営企画部」。
「はい、総務部神田です」
「あ、神田さん? 氷室だけど。今、再申請送った! ちゃんと『交通費』で、目的も『〇〇商事様へ直行のため』って細かく書いたよ! 合格?」
受話器の向こうから、どこか誇らしげな声が聞こえる。
私は画面で申請システムを開き、送られてきたデータをチェックした。数字に間違いはない。フォーマットも完璧だ。
「……確認いたしました。不備はありません。処理を進めます」
「よかったー! ありがとう神田さん。あ、そうだ。今日の夜さ、雨降りそうだけど傘持ってる?」
「折り畳み傘を常備しておりますので、問題ありません。それでは失礼いたします」
私は用件が終わるや否や、事務的に通話を切った。
(なんで傘の心配までされなあかんねん。私はお前のオカンか)
受話器を置きながら、小さく息を吐く。
氷室蓮という男は、調子が狂う。仕事はできるのに、どこか抜けていて、それでいて人の心の隙間に滑り込んでくるのが上手い。
その時、隣の席の佐藤さんが、周囲に聞こえないような小声で話しかけてきた。
「ねえ、神田さん。さっき氷室くんと話してたでしょ。彼、本当に営業の成績は社内トップなのに、女性関係だけはガードが固いっていうか、謎が多いよね」
「……そうですか。私は彼の業務上の書類しか見ておりませんので」
「まぁ、神田さんは興味ないか。でもね、経営企画部の同期から聞いたんだけど、氷室くん、学生時代に大失恋したか、あるいは今でもずっと片思いしてる人がいるらしくてさ。その人の特徴に合う女性じゃないと、絶対に付き合わないって決めてるらしいよ」
佐藤さんは、給湯室で仕入れてきたばかりの特大のゴシップを披露するように、目を輝かせている。
「へえ……。一途なんですね」
「でしょ? 見た目はあんなにチャラチャラしてて、女の子にハバネロスープとか配っちゃう変人なのにね。ギャップ萌えっていうか、ちょっと切ないよね」
私は手元のアクリル定規を指先でなぞりながら、佐藤さんの言葉を頭の中で反芻した。
(忘れられない人、ねぇ……)
私には一生縁のなさそうな、甘酸っぱくて重たい感情。
真面目に生きて、真面目に仕事をこなすことだけが自分のアイデンティティである私にとって、誰かをそこまで一途に想い続ける氷室の姿は、まるで別世界の住人のように思えた。
時計の針が17時15分を指した。定時まであと少し。
今日のタスクはすべて完了している。私は引き出しを整理し、退勤の準備を始めた。
まさか、そのわずか15分後に、私の「鉄の仮面」が文字通り粉々に粉砕される大事件が起きるとは、夢にも思わずに。
16時55分。
オフィスの窓の外は、どんよりとした灰色の雲が広がり、今にも雨が降り出しそうな気配を見せていた。
私のデスクの電話が鳴る。内線表示は「経営企画部」。
「はい、総務部神田です」
「あ、神田さん? 氷室だけど。今、再申請送った! ちゃんと『交通費』で、目的も『〇〇商事様へ直行のため』って細かく書いたよ! 合格?」
受話器の向こうから、どこか誇らしげな声が聞こえる。
私は画面で申請システムを開き、送られてきたデータをチェックした。数字に間違いはない。フォーマットも完璧だ。
「……確認いたしました。不備はありません。処理を進めます」
「よかったー! ありがとう神田さん。あ、そうだ。今日の夜さ、雨降りそうだけど傘持ってる?」
「折り畳み傘を常備しておりますので、問題ありません。それでは失礼いたします」
私は用件が終わるや否や、事務的に通話を切った。
(なんで傘の心配までされなあかんねん。私はお前のオカンか)
受話器を置きながら、小さく息を吐く。
氷室蓮という男は、調子が狂う。仕事はできるのに、どこか抜けていて、それでいて人の心の隙間に滑り込んでくるのが上手い。
その時、隣の席の佐藤さんが、周囲に聞こえないような小声で話しかけてきた。
「ねえ、神田さん。さっき氷室くんと話してたでしょ。彼、本当に営業の成績は社内トップなのに、女性関係だけはガードが固いっていうか、謎が多いよね」
「……そうですか。私は彼の業務上の書類しか見ておりませんので」
「まぁ、神田さんは興味ないか。でもね、経営企画部の同期から聞いたんだけど、氷室くん、学生時代に大失恋したか、あるいは今でもずっと片思いしてる人がいるらしくてさ。その人の特徴に合う女性じゃないと、絶対に付き合わないって決めてるらしいよ」
佐藤さんは、給湯室で仕入れてきたばかりの特大のゴシップを披露するように、目を輝かせている。
「へえ……。一途なんですね」
「でしょ? 見た目はあんなにチャラチャラしてて、女の子にハバネロスープとか配っちゃう変人なのにね。ギャップ萌えっていうか、ちょっと切ないよね」
私は手元のアクリル定規を指先でなぞりながら、佐藤さんの言葉を頭の中で反芻した。
(忘れられない人、ねぇ……)
私には一生縁のなさそうな、甘酸っぱくて重たい感情。
真面目に生きて、真面目に仕事をこなすことだけが自分のアイデンティティである私にとって、誰かをそこまで一途に想い続ける氷室の姿は、まるで別世界の住人のように思えた。
時計の針が17時15分を指した。定時まであと少し。
今日のタスクはすべて完了している。私は引き出しを整理し、退勤の準備を始めた。
まさか、そのわずか15分後に、私の「鉄の仮面」が文字通り粉々に粉砕される大事件が起きるとは、夢にも思わずに。



