【第30話】氷室視点
週末が明けた月曜日の朝。
俺はいつも通り、神田さんのデスクへと向かっていた。金曜日の夜、タクシーに乗せた時の彼女の様子が、どうにも引っかかっていたからだ。いつもなら俺の言葉に何かしらの拒絶やツッコミを見せるのに、あの夜の彼女は、不気味なほど静かだった。
「おはよう、神田さん。これ、今週の――」
「おはようございます、氷室先輩」
神田さんはPC画面を見たまま、寸分の狂いもない動作で立ち上がり、俺に向かって正確にお辞儀をした。
「今週のスケジュールおよび要求仕様書の修正案です。総務部としての確認はすべて完了しております。こちらに受領印をお願いいたします」
機械的。完璧。
だが、何かが決定的に違っていた。
いつもなら、俺が近づいただけで、彼女の黒い瞳は警戒心や怒りで生き生きと動いていた。俺のチャラついたセリフに対して、耳を真っ赤にして「声に出してしまうツッコミ」を必死に隠そうとしていた。
なのに、今の彼女の目は、完全に俺を透過していた。俺の顔を見ていない。俺という人間を、オフィスのデスクやコピー機と同じ「ただの物体」として処理している。
「神田さん……? あのさ、今日の分のマカロン――」
「不要です。業務時間中の私的物品の授受は社内規定に抵触します。今後は一切お控えください。以上です」
冷たい。だけど、それは拒絶の冷たさではなく、ただの「無」だった。
(……なんだこれ。何が起きた?)
俺の背中に、冷や汗が流れた。
いつもの強力なセキュリティパッチなんかじゃない。彼女は、俺をからかう対象としてすら見ていない。心の中のファイアウォールを閉じたのではない。俺が入るためのサーバーそのものを、彼女は跡形もなく消去してしまったのだ。
「神田さん、俺、何か怒らせるようなことした……?」
俺が本気で焦って声を低くしても、彼女の表情筋は1ミリも動かなかった。タイピングの音が、ただ規則正しくオフィスに響くだけ。
「いいえ。私は総務部員の神田です。業務に個人的な感情は介在いたしません。次のミーティングで」
彼女は淡々と言い放ち、俺を置き去りにして資料を持って歩き出した。その背中には、俺がどれだけ叫んでも、どれだけ一途に追いかけても、二度と届かないような絶望的な壁がそびえ立っていた。
初めて、心の底から恐怖を感じた。
俺の「実験」のような軽いアプローチが、彼女の心を本当に殺してしまったのだと気づいた。チャラついた王子様の仮面が、俺の顔から音を立てて剥がれ落ちていくのを感じていた。
週末が明けた月曜日の朝。
俺はいつも通り、神田さんのデスクへと向かっていた。金曜日の夜、タクシーに乗せた時の彼女の様子が、どうにも引っかかっていたからだ。いつもなら俺の言葉に何かしらの拒絶やツッコミを見せるのに、あの夜の彼女は、不気味なほど静かだった。
「おはよう、神田さん。これ、今週の――」
「おはようございます、氷室先輩」
神田さんはPC画面を見たまま、寸分の狂いもない動作で立ち上がり、俺に向かって正確にお辞儀をした。
「今週のスケジュールおよび要求仕様書の修正案です。総務部としての確認はすべて完了しております。こちらに受領印をお願いいたします」
機械的。完璧。
だが、何かが決定的に違っていた。
いつもなら、俺が近づいただけで、彼女の黒い瞳は警戒心や怒りで生き生きと動いていた。俺のチャラついたセリフに対して、耳を真っ赤にして「声に出してしまうツッコミ」を必死に隠そうとしていた。
なのに、今の彼女の目は、完全に俺を透過していた。俺の顔を見ていない。俺という人間を、オフィスのデスクやコピー機と同じ「ただの物体」として処理している。
「神田さん……? あのさ、今日の分のマカロン――」
「不要です。業務時間中の私的物品の授受は社内規定に抵触します。今後は一切お控えください。以上です」
冷たい。だけど、それは拒絶の冷たさではなく、ただの「無」だった。
(……なんだこれ。何が起きた?)
俺の背中に、冷や汗が流れた。
いつもの強力なセキュリティパッチなんかじゃない。彼女は、俺をからかう対象としてすら見ていない。心の中のファイアウォールを閉じたのではない。俺が入るためのサーバーそのものを、彼女は跡形もなく消去してしまったのだ。
「神田さん、俺、何か怒らせるようなことした……?」
俺が本気で焦って声を低くしても、彼女の表情筋は1ミリも動かなかった。タイピングの音が、ただ規則正しくオフィスに響くだけ。
「いいえ。私は総務部員の神田です。業務に個人的な感情は介在いたしません。次のミーティングで」
彼女は淡々と言い放ち、俺を置き去りにして資料を持って歩き出した。その背中には、俺がどれだけ叫んでも、どれだけ一途に追いかけても、二度と届かないような絶望的な壁がそびえ立っていた。
初めて、心の底から恐怖を感じた。
俺の「実験」のような軽いアプローチが、彼女の心を本当に殺してしまったのだと気づいた。チャラついた王子様の仮面が、俺の顔から音を立てて剥がれ落ちていくのを感じていた。



