【第29話】
飲み会が終わり、おばんざい屋の外に出ると、夜の街は激しい土砂降りに見舞われていた。他のメンバーは次々とタクシーに乗り込んで解散し、店の軒下には私と氷室先輩の二人だけが残された。
「参ったな、全然タクシー捕まらないね。神田さん、寒くない?」
先輩は自分のジャケットを脱ぎ、私の肩にかけようと手を伸ばしてきた。その優しさに、私の胸がまた少し騒がしくなる。だが、結衣の言葉が頭をよぎり、私は半歩身を引いた。
「結構です、氷室先輩。風邪をひくリスクは自己責任ですので」
「相変わらず固いなぁ。あ、ちょっと待って、あっちの角にタクシー空車で停まってるかも。見てくるからここで待ってて」
先輩はそう言って、雨の中に走っていった。
残された私は、軒下で腕を組んで佇んでいた。その時、店の裏手にある喫煙所から、先ほどまで一緒に飲んでいた他部署のプロジェクトメンバーの男たちの話し声が、雨の音に混じって聞こえてきた。
「それにしても氷室のやつ、総務部の神田にベタ惚れだな」
「違うよ、お前何も分かってねーな。氷室が学生時代からずっと引きずってる本命の女、知ってるだろ? あの超生真面目で融通の利かない、お堅い先輩だよ」
「あー、あの人か。それが神田とどう関係あんの?」
「神田のあの頑なな態度とか、真面目すぎるところが、その先輩に生き写しなんだってさ。氷室、面白がって神田のリアクション見て『実験』してるだけだよ。あの鉄面皮がどこまで崩れるか、暇つぶしのオモチャにして楽しんでるだけ」
ハハハ、と男たちの下品な笑い声が雨の中に溶けていく。
頭の芯が、一瞬で沸騰した。
悲しみなんてない。あったのは、ただひたすら猛烈な、火山のような怒りだった。
(……実験、やと?)
(実験てなんや!人をモルモットかなんかと思うとるんか!面影重ねてるぅ〜!?勝手に重ねとんちゃうぞ、ワレェ!!双子でもなけりゃドッペルゲンガーでもないんじゃワレェ!!!)
脳内で、人生最大級の怒号が響き渡った。
だけど――その怒りの頂点で、私の脳内お笑い組合は、突如としてすべての活動を完全に停止した。
メガホンが落ちる音がした。センターマイクの電源が切れた。
静寂。完全なる、冷たい静寂。
「神田さん! タクシー捕まったよ、乗ろう」
雨に濡れた髪を払いながら、氷室先輩が笑顔で走って戻ってきた。その顔を見た瞬間、私の中で、何かが完全に「終わった」。
私は感情の消えた目で先輩を見つめ、一礼した。
「ありがとうございます。失礼いたします」
声に出たのは、1ミリの揺らぎもない、完璧な標準語。エセ関西弁の欠片も、怒りの温度もそこにはなかった。
飲み会が終わり、おばんざい屋の外に出ると、夜の街は激しい土砂降りに見舞われていた。他のメンバーは次々とタクシーに乗り込んで解散し、店の軒下には私と氷室先輩の二人だけが残された。
「参ったな、全然タクシー捕まらないね。神田さん、寒くない?」
先輩は自分のジャケットを脱ぎ、私の肩にかけようと手を伸ばしてきた。その優しさに、私の胸がまた少し騒がしくなる。だが、結衣の言葉が頭をよぎり、私は半歩身を引いた。
「結構です、氷室先輩。風邪をひくリスクは自己責任ですので」
「相変わらず固いなぁ。あ、ちょっと待って、あっちの角にタクシー空車で停まってるかも。見てくるからここで待ってて」
先輩はそう言って、雨の中に走っていった。
残された私は、軒下で腕を組んで佇んでいた。その時、店の裏手にある喫煙所から、先ほどまで一緒に飲んでいた他部署のプロジェクトメンバーの男たちの話し声が、雨の音に混じって聞こえてきた。
「それにしても氷室のやつ、総務部の神田にベタ惚れだな」
「違うよ、お前何も分かってねーな。氷室が学生時代からずっと引きずってる本命の女、知ってるだろ? あの超生真面目で融通の利かない、お堅い先輩だよ」
「あー、あの人か。それが神田とどう関係あんの?」
「神田のあの頑なな態度とか、真面目すぎるところが、その先輩に生き写しなんだってさ。氷室、面白がって神田のリアクション見て『実験』してるだけだよ。あの鉄面皮がどこまで崩れるか、暇つぶしのオモチャにして楽しんでるだけ」
ハハハ、と男たちの下品な笑い声が雨の中に溶けていく。
頭の芯が、一瞬で沸騰した。
悲しみなんてない。あったのは、ただひたすら猛烈な、火山のような怒りだった。
(……実験、やと?)
(実験てなんや!人をモルモットかなんかと思うとるんか!面影重ねてるぅ〜!?勝手に重ねとんちゃうぞ、ワレェ!!双子でもなけりゃドッペルゲンガーでもないんじゃワレェ!!!)
脳内で、人生最大級の怒号が響き渡った。
だけど――その怒りの頂点で、私の脳内お笑い組合は、突如としてすべての活動を完全に停止した。
メガホンが落ちる音がした。センターマイクの電源が切れた。
静寂。完全なる、冷たい静寂。
「神田さん! タクシー捕まったよ、乗ろう」
雨に濡れた髪を払いながら、氷室先輩が笑顔で走って戻ってきた。その顔を見た瞬間、私の中で、何かが完全に「終わった」。
私は感情の消えた目で先輩を見つめ、一礼した。
「ありがとうございます。失礼いたします」
声に出たのは、1ミリの揺らぎもない、完璧な標準語。エセ関西弁の欠片も、怒りの温度もそこにはなかった。



