【第2話】
経営企画部のフロアは、私が所属する総務部とは空気が違う。常に電話の声が飛び交い、ホワイトボードにはカタカナの専門用語が書き殴られている。
そのフロアの窓際、一番日当たりのいい席に、彼はいた。
少し長めの、ゆるいパーマのかかった髪。ワイシャツの第一ボタンは外され、袖は肘まで腕まくりされている。ペンを指先で回しながら、気だるげに画面を見つめている姿は、まるでファッション雑誌の一コマのようだ。
「氷室先輩。お時間よろしいでしょうか」
私がデスクの横に立つと、氷室はハッとしたように顔を上げた。その整った顔立ちに、人懐っこい笑みが浮かぶ。
「あ、総務部の神田さん。どうしたの? わざわざ来てくれるなんて珍しいじゃん」
「こちらの経費精算書の件です。タクシー代の領収書が、なぜか『会議費』の項目で申請されています。また、目的欄が『移動のため』となっておりますが、会議費であれば議事録の添付、もしくは同席者の記載が必要です」
私は感情を一切交えず、早口で淡々とまくしたてた。
氷室は「あー……」と言いながら、バツが悪そうに頭を掻いた。
「いやさ、そのタクシーの中で、すごくいいアイデアを思いついたんだよね。だから実質、あれは『一人企画会議』だったわけ。だから会議費かなって」
(一人企画会議!!!)
(んなもんが通るかボケェ! ほな私が風呂の中で思いついた業務改善案は『入浴費』で会社に請求してええんか!? 湯船の中で会議しとるんか私は!)
脳内のツッコミメーターが急上昇する。しかし、私はプロのOLだ。鉄の仮面はピクリとも動かさない。
「却下します。交通費として再申請してください。本日中にお願いします」
「厳しいなぁ、神田さんは。でもさ……」
氷室は椅子を少し回し、私を真っ直ぐに見上げてきた。その瞳には、いつものチャラついた光ではなく、妙に真剣で、吸い込まれそうな熱が含まれていた。
「神田さんって、いつも俺の書類、細かくチェックしてくれるよね。他の人が見落とすようなところまで」
「……それが私の仕事ですので」
「違うよ。他の人は『氷室くんだから適当でいいや』って流すんだ。でも、神田さんだけは絶対に妥協しないで、俺が間違えた理由まで考えて先回りしてくれる。俺、そういう生真面目なところ、すごく尊敬してるんだよね」
不意打ちだった。
からかわれているのかと思ったが、彼の目は驚くほど澄んでいた。
氷室蓮は、社内の多くの女性からアプローチを受けている。しかし、彼は誰とも深い関係を持たないことで有名だった。噂では、学生時代からずっと片思いしている女性がいて、その人の影を追い続けているからだと言われている。
(……な、何を真っ直ぐな目で言うとんねん)
私の胸の奥が、ほんの少しだけ騒がしくなった。だが、その静寂は、彼が次に放った一言によって木っ端微塵に打ち砕かれることになる。
「だからさ、お礼と言っちゃなんだけど、これあげるよ。さっき自販機で見つけて、神田さんっぽいなと思って」
氷室が私の手に握らせてきたのは、缶コーヒーではなかった。
……なぜか『激辛ハバネロスープ(缶)』だった。
(なんでこれが私っぽいねん!!!)
限界だった。私の鉄の仮面が、音を立ててひび割れた。
経営企画部のフロアは、私が所属する総務部とは空気が違う。常に電話の声が飛び交い、ホワイトボードにはカタカナの専門用語が書き殴られている。
そのフロアの窓際、一番日当たりのいい席に、彼はいた。
少し長めの、ゆるいパーマのかかった髪。ワイシャツの第一ボタンは外され、袖は肘まで腕まくりされている。ペンを指先で回しながら、気だるげに画面を見つめている姿は、まるでファッション雑誌の一コマのようだ。
「氷室先輩。お時間よろしいでしょうか」
私がデスクの横に立つと、氷室はハッとしたように顔を上げた。その整った顔立ちに、人懐っこい笑みが浮かぶ。
「あ、総務部の神田さん。どうしたの? わざわざ来てくれるなんて珍しいじゃん」
「こちらの経費精算書の件です。タクシー代の領収書が、なぜか『会議費』の項目で申請されています。また、目的欄が『移動のため』となっておりますが、会議費であれば議事録の添付、もしくは同席者の記載が必要です」
私は感情を一切交えず、早口で淡々とまくしたてた。
氷室は「あー……」と言いながら、バツが悪そうに頭を掻いた。
「いやさ、そのタクシーの中で、すごくいいアイデアを思いついたんだよね。だから実質、あれは『一人企画会議』だったわけ。だから会議費かなって」
(一人企画会議!!!)
(んなもんが通るかボケェ! ほな私が風呂の中で思いついた業務改善案は『入浴費』で会社に請求してええんか!? 湯船の中で会議しとるんか私は!)
脳内のツッコミメーターが急上昇する。しかし、私はプロのOLだ。鉄の仮面はピクリとも動かさない。
「却下します。交通費として再申請してください。本日中にお願いします」
「厳しいなぁ、神田さんは。でもさ……」
氷室は椅子を少し回し、私を真っ直ぐに見上げてきた。その瞳には、いつものチャラついた光ではなく、妙に真剣で、吸い込まれそうな熱が含まれていた。
「神田さんって、いつも俺の書類、細かくチェックしてくれるよね。他の人が見落とすようなところまで」
「……それが私の仕事ですので」
「違うよ。他の人は『氷室くんだから適当でいいや』って流すんだ。でも、神田さんだけは絶対に妥協しないで、俺が間違えた理由まで考えて先回りしてくれる。俺、そういう生真面目なところ、すごく尊敬してるんだよね」
不意打ちだった。
からかわれているのかと思ったが、彼の目は驚くほど澄んでいた。
氷室蓮は、社内の多くの女性からアプローチを受けている。しかし、彼は誰とも深い関係を持たないことで有名だった。噂では、学生時代からずっと片思いしている女性がいて、その人の影を追い続けているからだと言われている。
(……な、何を真っ直ぐな目で言うとんねん)
私の胸の奥が、ほんの少しだけ騒がしくなった。だが、その静寂は、彼が次に放った一言によって木っ端微塵に打ち砕かれることになる。
「だからさ、お礼と言っちゃなんだけど、これあげるよ。さっき自販機で見つけて、神田さんっぽいなと思って」
氷室が私の手に握らせてきたのは、缶コーヒーではなかった。
……なぜか『激辛ハバネロスープ(缶)』だった。
(なんでこれが私っぽいねん!!!)
限界だった。私の鉄の仮面が、音を立ててひび割れた。



