凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる

第六話:凍土に穿つ、最初の楔
カイルから手渡された書類は、我が国ガルディニアの数年にわたる一部地方の徴税記録と、それに伴う財政支出の帳簿だった。内政官たちが頭を抱えていたというのも頷ける。一見すると完璧に辻褄が合っているように精緻に偽装されていた。
だが、前世で二十五年という大人の年齢に達するまで、冷酷な社会の底辺から中枢までを生き抜くために死に物狂いで知性を磨き、今世でもベルトラン公爵家のすべての裏仕事を押し付けられてきたエルサにとって、数字の欺瞞を見抜くなど造作もないことだった。
エルサは回廊の石の手すりに書類を広げると、カイルから羽ペンを借り、一切の迷いなく数式を書き連ねていく。
「……ここと、ここです。この三箇所の地方における穀物収穫量の推移に対して、徴税額の減少比率が不自然に『一定』すぎます。人間の営みにおいて、天候や病害の影響がこれほど綺麗に一定の数値を描くことはあり得ません。集計した役人が、独自の『癖』で数字を操作しています」
さらさらと、冷徹なまでに正確な論理がエルサの口から紡がれる。彼女が用いたのは、この世界には存在しない前世の高等な統計学の基礎だった。
カイルは、彼女が書き込んだ数式と指摘の箇所を凝視したまま、完全に凍りついていた。
その背中に、ぞわりと鳥肌が立つのが目に見えるようだった。我が国の最精鋭たちが三日かけても見抜けなかった地方官の組織的不正を、この他国から連れてこられた「悪女」は、わずか数分で、しかも道具として使われる安堵感に満ちた瞳で暴いてみせたのだ。
「……これを、貴女お一人が、瞬時に……?」
カイルの声が驚愕で微かに震える。
「はい。これで、私は私の『対価』を支払えましたでしょうか。まだ足りないと言うのであれば、残りの帳簿もすべてーー」
「ーー何をしている、カイル」
背後から降ってきた、地を這うような低い声。
振り返ると、そこに立っていたのは、怒りで紺色の瞳を爛々と燃え上がらせたゼオンだった。
「で、殿下……!」
「カイル。貴様、俺が『手出しをするな』と言ったはずのエルサに、何をさせている」
ゼオンから放たれる圧倒的な覇気と殺気に、流石の筆頭側近であるカイルも一歩後退り、冷や汗を流した。しかし、ゼオンの怒りの矛先は、カイルではなく、エルサが抱く「哀しい生存戦略」そのものに向けられていた。
ゼオンは大股で歩み寄ると、エルサの手から書類と羽ペンを強引に奪い取り、カイルの胸へと叩きつけた。
「殿下、私は……」
「黙れ、エルサ」
ゼオンはエルサの細い肩を掴み、その身体を己の胸へと強く引き寄せた。
「カイル、この書類の件に関わった役人は全員捕らえ、厳問に処せ。エルサの知性が我が国にとって至宝であることは証明された。だがーー」
ゼオンはエルサの耳元で、壊れ物を抱くように、けれど狂おしいほどの情熱を込めて囁く。
「俺は、お前に役割を求めて連れてきたんじゃないと言ったはずだ。労働の対価でしかここにいられないなどという、その歪んだ前世の呪いを、俺の前で使うな。お前はただ、俺の愛を受け取って、生きていればそれでいいんだ」
エルサの身体が、ゼオンの熱い胸の中で硬直する。
道具として完璧であることでしか生存を許されなかった二十五年の闇に、ゼオンの理不尽なまでの無条件の愛が、さらに深く、決定的な楔を打ち込んでいた。