凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる

第四十九話:欠落の証明、あるいは初めて注がれる温もり(国王・王妃・エルサ・ゼオン・カイル視点)
【国王&王妃視点】「親」という概念の不在
「あら、いらっしゃい、エルサ。待っていたわ。さあ、こちらへいらして」
最上級サロンの扉が開いた瞬間、エレオノーラは弾んだ声で最愛の「娘」を迎え入れた。隣に座るアルベルトも、普段の覇王の威厳をどこへやら、目元を極限まで緩めてエルサを見つめている。
だが、テーブルを囲み、最高級のハチミツを添えたお茶会が始まって間もなく、国王夫妻はエルサの「ある奇妙な挙動」に胸を締め付けられることになった。
「エルサ、この焼き菓子、貴女のために特別に作らせたの。美味しい?」
「はい……。あの、王妃様、このような素晴らしいおもてなしをいただき、私は……次に、どのような『成果(データ)』を提出すればよろしいでしょうか。マルドゥークの鉱山利権の二次精査でしょうか、それとも……」
エルサは、お菓子を一口含むたびに、まるで「次の対価」を要求されるのを待つように身を硬くし、おずおずとこちらの顔色を窺ってくるのだ。その琥珀色の瞳の奥にあるのは、純粋な恐怖と、染み付いた強迫観念。
(ーーああ、この子は本当に……)
エレオノーラは扇を握る手にぐっと力を込めた。
カイルからの報告書にあった文字が、鮮明に脳裏に蘇る。
前世の二十五年、冷酷な組織でただ使い潰された孤独な日々。
今世の十数年、実の親であるベルトラン公爵夫妻から「無能な雑用係」と罵られ、地下室に幽閉されて果実を搾り取られ続けた日々。
彼女には、前世と今世、合わせて四十年の時の中で、ただの一度も『親から無条件の愛を向けられた記憶』が存在しないのだ。
親とは、自分を監禁し、成果を強奪し、役に立たなくなれば魔獣の森へ捨てる「冷酷な搾取者」の同義語。だからこそ、ガルディニアの国王夫妻がどれほど親としての情愛を注ごうとも、彼女の脳内ではそれを「高位の権力者による、いつ牙を剥くか分からない巧妙な罠」としか処理できない。
「エルサ」
アルベルトが、できる限り低く優しい声で、彼女の前に大好物のレモンケーキを自ら切り分けた。
「ここには、貴方に成果を求める『上司』も『公爵』もいない。お前がただ美味そうにこれを食い、ただ笑う。父親としては、それだけで十分に元が取れるのだ。……信じられないかもしれないが、これがガルディニア王族の『親バカ』という不条理な習性だと思って諦めてくれ」
「陛下……。あ、の……」
親からの無条件の肯定。それを初めて向けられたエルサは、どう反応していいか完全に処理容量をオーバーし、ただ視線を彷徨わせていた。そのあまりにも痛々しく、同時に愛おしい姿に、夫妻は「この子を世界一幸せな娘にしてやる」と、心の底から改めて誓うのだった。
【エルサ視点】未学習の概念、解けない優しさ
(どうして……どうして、何も求めてくださらないのですか……)
私は、陛下が切り分けてくださったケーキを見つめたまま、パニックになりそうな大人の頭脳を必死に宥めていました。
私の記憶にある「父親」や「母親」という存在は、部屋に入ってくるなり『次の書類はまだか』と私を蹴り飛ばし、妹のステラが贅沢をするための金を私から搾り取る生き物でした。前世の記憶でも、親というものは私を顧みず、ただ組織で働くマシーンになることを求めてきました。
愛されたことなど、ただの一度もない。
だから、目の前でガルディニアの最高権力者であるお二人が、ただ私に「美味しい?」と微笑みかけ、ゼオン様が私の腰をやんわりと抱きしめて守ってくれているこの状況が、怖くて、温かくて、頭の数式がバラバラに弾け飛んでしまいそうなのです。
「エルサ。等価交換だと言っただろう。お前が今、そのケーキを美味しいと思うこと。それが俺たちの求める成果だ」
隣に座るゼオン様が、私の小さな手をテーブルの下でぎゅっと握り締め、彼の持つ圧倒的な質量(体温)を伝えてきます。
「あ……。は、はい……。美味しい、です。とても、甘くて……」
強く拒絶することも、跳ね除けることもできない私の「弱さ」は、差し出されたその温もりを、おずおずと、本当に壊れ物を触るような手つきで、少しずつ受け止め始めていました。
愛を知らない少女の心が、生まれて初めて「親の愛」という概念を、涙が出そうなほどの温かさとともに学習していくのを感じていました。
【ゼオン視点】凍土に、絶対の春を
胸の中で、そして俺の手の中で、小刻みに震えながらもレモンケーキを口に運ぶエルサ。
「美味しいです」とはにかんだ彼女のその一瞬の微笑みは、反則的なまでに健気で、胸が締め付けられるほどに可憐だった。
前世と今世。合わせて四十年間、こいつの親を名乗った有象無象のクズどもは、ただの一度もこの宝物に愛を向けなかった。その結果が、この「優しくされるだけで怯える」という歪な防壁だ。
(ふざけるな。お前を傷つけた過去の亡霊どもは、俺たちがすべて塵にしてやった。これからは、俺たちがお前の『本物の家族』だ)
「母上、エルサにあまりお菓子を勧めすぎるな。こいつの胃袋のキャパシティは、あなたほど大きくない」
「あら、ゼオン。母親が娘に美味しいものを食べさせて何が悪いの? 貴方こそ、エルサの腰をずっと抱きしめたままで、邪魔だわ」
「俺の所有物(もの)を俺が支えて何が悪い」
俺たちがいつも通りの、けれど退屈で平穏な家族の会話を繰り広げると、エルサは驚いたように琥珀色の瞳を丸くした後、ふふ、と小さく、本当に小さく、声を立てて笑った。
その瞬間、サロンの空気が完全に氷解した。
あいつを縛り付けていた冷たいバグが、俺たちの過保護な包囲網のなかで、今、完全に溶け去ろうとしている。
【カイル視点】至宝の頁が、色彩で満ちる時
壁際に控えながら、私は眼鏡のブリッジを静かに押し上げました。
エルサ様が、ついに心の底から小さく笑われた。
親の愛を知らずに搾取され、干からびるしかなかった異邦の至宝。その彼女の空白だった頁に、今、ガルディニアの王族という最も重く、最も温かい『家族の愛』が、鮮やかな色彩となって注ぎ込まれていく。
「さあ、エルサ様。貴女の人生の計算式は、これより『無限の幸福』のみを出力することとなります」
私は心の中で、我が国の愛おしき王太子妃へと、深く、深く一礼を捧げました。