第四十六話:計算式の向こう側(ゼオン・カイル・侍女視点)
【ゼオン視点】硝子細工の素顔
「……エルサ?」
深夜、静まり返った寝室で、俺は腕の中の温もりに視線を落とした。
王太子妃冊立の儀という、国家最大の舞台を終えたその夜。大国の貴族たちをその圧倒的な気品で黙らせ、完璧に「大人の王太子妃」を演じきったエルサは、今、すべての防壁を解いて俺の胸の中で眠っている。
ふと、その寝顔を見つめていて、胸が締め付けられるような錯覚に陥った。
(ーーああ、そうか。お前は、本当はこんなにも小さくて、何も持たない少女だったんだな)
前世の二十五年という過酷な労働の記憶、そして今世のベルトラン公爵家での冷酷な搾取。それらに対抗するために、お前は「高度な知識」と「冷徹な計算式」という鎧を纏うしかなかった。役に立つ人間でいなければ、明日にでも捨てられるという恐怖から身を守るために。
けれど、そうした「大人の仮面」をすべて剥ぎ取った後に残されたエルサの素顔はーー驚くほどに真っ白で、何の色にも染まっていない、無垢な少女そのものだった。
愛された記憶がないから、愛し方も、甘え方も知らない。
ただ、俺が髪を撫でれば、眠りながらも心地よさそうに小さな頭を俺の胸に擦りつけてくる。その無防備で純真な姿は、これまで見てきたどんな天才的な頭脳よりも、俺の独占欲を狂暴に掻き立て、同時に、壊れ物を扱うような極上の愛おしさを抱かせる。
「いいんだ、エルサ。もう何も計算しなくていい。これからは、お前のその真っ白な心に、俺との甘い記憶だけを一つずつ書き込んでやる」
俺は彼女の細い肩を引き寄せ、その無垢な寝顔に、誰にも邪魔させない静かな誓いのキスを落とした。
【カイル視点】空白の頁に、何を綴るか
「ーー驚きました。まさか、あれほど完璧な調律を行う御方の本質が、これほどまでに『無』であったとは」
翌朝、執務室の窓辺で、私はお茶を運んできた侍女長マルタと静かに言葉を交わしていました。
エルサ様が我が国にもたらした数々の功績は、まさに国家の救世主と呼ぶにふさわしいものです。しかし、それらの鎧をすべて脱ぎ去った彼女の「素の精神状態」を観察すればするほど、専門の医官たちも、そして私も、言葉を失うしかありませんでした。
彼女は、自分の「好き」や「嫌い」さえ、満足に選べないのです。
何かを望めば「我が儘だ」と罰せられてきた過去のせいで、彼女の純粋な少女としての欲望は、完全に未発達のまま凍結されていました。何が好きかと問われれば、相手が喜びそうな『正解のデータ』を脳内で計算して出力してしまう。
「カイル様、エルサ様は本当に、真っ白な画用紙のようでいらっしゃいます」
マルタが、痛々しさと深い慈愛が入り混じった表情で、ハンカチを握り締めました。
「何をされても、それが『善意』であれば、どう受け止めていいか分からずに困ったように微笑まれるだけ。あのように健気で、無垢な少女を、あのベルトラン家の人々はどれほど酷使してきたことか……。私ども内宮の侍女一同、エルサ様がご自身の『我が儘』を言えるようになるまで、一生を賭けてお仕えする所存です」
「ええ、同感です、マルタ」
私は眼鏡の位置を静かに直しました。
前世の泥に汚れず、今世の毒にも染まらなかった、奇跡のような純白の少女。
その真っ白な頁に、これからはガルディニアの王族と、王宮のすべての人間が、過剰なまでの『愛』という色彩を注ぎ込んでいく。彼女がいつか、自分の意志で「これが欲しい」と、可愛らしい我が儘を言えるようになるその日まで、私たちの過保護な包囲網が緩むことは決してありません。
【ゼオン視点】硝子細工の素顔
「……エルサ?」
深夜、静まり返った寝室で、俺は腕の中の温もりに視線を落とした。
王太子妃冊立の儀という、国家最大の舞台を終えたその夜。大国の貴族たちをその圧倒的な気品で黙らせ、完璧に「大人の王太子妃」を演じきったエルサは、今、すべての防壁を解いて俺の胸の中で眠っている。
ふと、その寝顔を見つめていて、胸が締め付けられるような錯覚に陥った。
(ーーああ、そうか。お前は、本当はこんなにも小さくて、何も持たない少女だったんだな)
前世の二十五年という過酷な労働の記憶、そして今世のベルトラン公爵家での冷酷な搾取。それらに対抗するために、お前は「高度な知識」と「冷徹な計算式」という鎧を纏うしかなかった。役に立つ人間でいなければ、明日にでも捨てられるという恐怖から身を守るために。
けれど、そうした「大人の仮面」をすべて剥ぎ取った後に残されたエルサの素顔はーー驚くほどに真っ白で、何の色にも染まっていない、無垢な少女そのものだった。
愛された記憶がないから、愛し方も、甘え方も知らない。
ただ、俺が髪を撫でれば、眠りながらも心地よさそうに小さな頭を俺の胸に擦りつけてくる。その無防備で純真な姿は、これまで見てきたどんな天才的な頭脳よりも、俺の独占欲を狂暴に掻き立て、同時に、壊れ物を扱うような極上の愛おしさを抱かせる。
「いいんだ、エルサ。もう何も計算しなくていい。これからは、お前のその真っ白な心に、俺との甘い記憶だけを一つずつ書き込んでやる」
俺は彼女の細い肩を引き寄せ、その無垢な寝顔に、誰にも邪魔させない静かな誓いのキスを落とした。
【カイル視点】空白の頁に、何を綴るか
「ーー驚きました。まさか、あれほど完璧な調律を行う御方の本質が、これほどまでに『無』であったとは」
翌朝、執務室の窓辺で、私はお茶を運んできた侍女長マルタと静かに言葉を交わしていました。
エルサ様が我が国にもたらした数々の功績は、まさに国家の救世主と呼ぶにふさわしいものです。しかし、それらの鎧をすべて脱ぎ去った彼女の「素の精神状態」を観察すればするほど、専門の医官たちも、そして私も、言葉を失うしかありませんでした。
彼女は、自分の「好き」や「嫌い」さえ、満足に選べないのです。
何かを望めば「我が儘だ」と罰せられてきた過去のせいで、彼女の純粋な少女としての欲望は、完全に未発達のまま凍結されていました。何が好きかと問われれば、相手が喜びそうな『正解のデータ』を脳内で計算して出力してしまう。
「カイル様、エルサ様は本当に、真っ白な画用紙のようでいらっしゃいます」
マルタが、痛々しさと深い慈愛が入り混じった表情で、ハンカチを握り締めました。
「何をされても、それが『善意』であれば、どう受け止めていいか分からずに困ったように微笑まれるだけ。あのように健気で、無垢な少女を、あのベルトラン家の人々はどれほど酷使してきたことか……。私ども内宮の侍女一同、エルサ様がご自身の『我が儘』を言えるようになるまで、一生を賭けてお仕えする所存です」
「ええ、同感です、マルタ」
私は眼鏡の位置を静かに直しました。
前世の泥に汚れず、今世の毒にも染まらなかった、奇跡のような純白の少女。
その真っ白な頁に、これからはガルディニアの王族と、王宮のすべての人間が、過剰なまでの『愛』という色彩を注ぎ込んでいく。彼女がいつか、自分の意志で「これが欲しい」と、可愛らしい我が儘を言えるようになるその日まで、私たちの過保護な包囲網が緩むことは決してありません。



