凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる

第五話:浸食する日常
ゼオンが去ったあとの静寂の中で、エルサは自らの掌を見つめていた。
そこにはまだ、彼の激しい心音の残響と、肌を焼くような熱がこびりついているようだった。
「エルサ様……お召し替えの準備が整っております」
静かに声をかけてきたのは、侍女のマルタだった。その後ろでは、ニーナとクロエが、まるで壊れやすい硝子細工をそっと見守るような、痛々しいほどに優しい視線をエルサに向けている。
前世の二十五年。彼女がどれほど求めても得られなかった「他者からの気遣い」が、今、この異国の王宮では息をするように与えられている。
(対価を、払わなければ)
大人の年齢まで孤独に磨り潰されたエルサの脳内は、その状況を「負債」として冷徹に処理しようとする。ただ施されるだけの愛など、前世の生存戦略には存在しなかったからだ。
「マルタ。私は、何をすればよろしいですか」
「はい……? 何、とは何のことでございましょう」
「帳簿の整理、他国との外交文書の翻訳、あるいは内政の数理計算。何でも構いません。私がこの部屋と食事をいただくための『対価』として、労働を提示してください。その方が、私は安心できるのです」
淡々と、至極当然の権利を要求するように言うエルサに、三人の侍女は息を呑んだ。
涙ぐむニーナを、マルタが制するように一歩前に出る。
「エルサ様。殿下からは、あなた様にはただ心と身体を休めていただくようにと仰せつかっております。労働を強いるような真似は、我がガルディニアの誇りが許しません。どうか、今は何もなさらないでくださいませ」
「……何も、しない」
それはエルサにとって、緩やかな拷問に等しかった。役割を持たない人間は、すぐに捨てられる。前世の25年間が、今世のベルトラン公爵家での日々が、その恐怖を彼女の骨髄に叩き込んでいた。
翌朝、エルサは与えられた豪奢な朝食に、ほとんど手をつけられなかった。
一口運ぶたびに、背筋に冷たい戦慄が走る。自分は何も生み出していないのに、なぜこんな上質なものを胃に収めているのか。
「お口に合いませんでしたか……?」
料理が得意なクロエが、悲しそうに眉を下げて尋ねる。エルサはその表情を見て、胸の奥が小さくきしんだ。嫌がらせではない。ただ、自分の魂がこの温かさを受け付けないのだ。
「……申し訳ありません。少し、外の空気を吸ってきます」
エルサは逃げるように部屋を出て、王宮の回廊へと歩み出した。
ガルディニアの空は、彼女を裏切った祖国の空よりも、どこまでも青く、高く澄み渡っている。けれど、その眩しさが、かえってエルサの孤独を際立たせるようだった。
「ーーそこにいたか」
振り返れば、回廊の向こうから、一人の男が歩いてくるのが見えた。
ゼオンの筆頭側近、カイルだった。彼は相変わらず油断のない鋭い瞳でエルサを見つめ、その手には、役人たちが頭を抱えているであろう膨大な財務書類の束が握られていた。
カイルはエルサの前に立つと、冷徹な事務的な口調で告げた。
「エルサ様。殿下はあなたをただ甘やかせと仰いますが……私は一介の側近として、我が国に連れ帰られた貴女の『真価』を見極めたい。この書類、我が国の優秀な内政官たちが三日かけても紐解けなかった難題です。貴女なら、どうされますか」
その挑発的な問いかけに、エルサの琥珀の瞳が、初めて微かに生気を取り戻した。
(役割を、くれるのね)
「ーーお見せください。その数字の歪み、私がすべて暴いてみせます」
二十五年の飢えと孤独の果てに得た、冷徹な大人の知性。それが今、ガルディニアの地で初めて、自らの生存を証明するために動き出そうとしていた。