第四十二話:破滅の履歴書、至宝が遺した血塗られた足跡(カイル・王・王妃視点)
ゼオン殿下がエルサ様の後を追って、嵐のように私室を退出された後。
残された室内には、重厚な沈黙と、先ほど明かされた「二つの人生」への怒りの残滓が漂っていました。
私は手元に残った、もう一冊の、先ほどよりもさらに厚みを増した黒表紙の報告書を、中央のテーブルへと静かに滑らせました。
「陛下、王妃様。……先ほどのものはエルサ様の『過去』の大枠ですが、こちらにございますのは、エルサ様が我がガルディニアの王宮に足を踏み入れてから今日に至るまでの『全行動記録』。そして、彼女が我が国へ保護された直後、数日間にわたる生死の境を彷徨った『昏睡状態時の医療・精神解析報告』にございます」
アルベルト陛下とエレオノーラ王妃様は、息を呑みながらその極厚の書類を手に取られました。ページをめくるごとに、お二人の表情は血の気が引き、言葉を失うほどの戦慄と絶句へと変わっていったのです。
【カイル視点】「優しさ」という名の、壊れた防壁の正体
私が提出した報告書には、エルサ様という天才が、いかにしてその圧倒的な功績を「無自覚」に、かつ「強迫観念」のままに遺してきたかが克明に記録されています。
最初の頁に並ぶのは、彼女が我が国に保護された直後、精神と肉体の限界を迎えて陥った【三日三晩の昏睡状態】の際の、宮廷医官たちによる克明な手記です。
『宮廷医官長による精神・肉体解析:エルサ嬢は、高熱に浮かされながらも、うわ言で奇妙な言葉を繰り返していた。「進捗が遅れて申し訳ありません」「私が悪いの、だから捨てないで」「誰もいない、寒い」……。
彼女の肉体には、慢性的な栄養失調と、過度の精神的圧迫による魔力回路の萎縮が見られる。前世におけるネグレクト(誰にも顧みられず、愛されず、ただ搾取の一途を辿るしかなかった環境)の記憶が、魂の根底に焼き付いている。彼女にとって、他者から与えられる「善意」や「優しさ」は、快いものではなく、むしろ【裏にある致命的な罠】、あるいは【後から法外な代償を請求される恐怖の対象】として処理されている可能性が極めて高い』
「……そんな、そんな事って……!」
エレオノーラ王妃様が、最初の数ページで早くも涙を零し、胸を掻きむしるようにして書類を見つめられました。
「カイル、では彼女は、ゼオンがどれほど熱烈に注いできたあの愛や、私たちが用意したこの怠惰で贅沢な生活に……喜ぶどころか、恐怖していたというの?」
「左様にございます、王妃様。エルサ様の脳内は、贅沢を享受すればするほど『いつかこの代償として、自分の命や尊厳を丸ごと奪われるのではないか』というパニックを起こしていたのです。ですが、彼女の哀しいところは、その恐怖の最中にあっても、相手の善意を強く拒絶したり、跳ね除けたりすることができない『優しさ』を持ち合わせている点にあります。拒絶してしまえば、その瞬間に『役に立たない悪女』として捨てられるーーその恐怖ゆえに、怯えながらも、与えられた居場所で必死に付加価値を産み出そうとしてしまうのです」
書類の中盤には、彼女が王宮のあちこちで遺した、凄まじくも痛々しい「功績」の数々が文官や侍女たちの証言とともに並んでいました。
『財務部次官の証言:エルサ様は保護されて数日後、まだ顔色の悪い状態で、執務室の隅にあった放置案件(数年分の複雑な財務の歪み)をご覧になり、わずか一時間足らずで完璧に修正されました。私どもが驚嘆して感謝を伝えると、彼女は怯えたように震えながら『お役に立てて良かったです。これで、ここにいても許されますか……?』と仰ったのです。私どもは、自分たちが彼女に労働を強要してしまったのではないかと、激しい罪悪感に駆られました』
『内宮侍女長・マルタの証言:エルサ様が私どものシフト表や動線を数分で最適化し、侍女の労働時間を二時間削減した際、王妃様がお洋服をプレゼントされました。その夜、エルサ様は部屋で一人、そのドレスを抱きしめながら『こんなに素晴らしいものを頂いてしまった。明日からは、今日の三倍は成果を出さなければ、きっと明日には追い出されてしまう』と、夜通し泣きながら国の経済予測書を書き上げていらっしゃいました。彼女にとって、施しを受けることは、死刑宣告を待つような恐怖だったのです』
【国王視点】覇王の絶句、そして浅はかなる公爵家への憤怒
私は、手元に並ぶ数々の報告書、そして先日のマルドゥーク帝国との交渉記録を睨みつけたまま、喉の奥が引き裂かれるような激しい怒りに震えていた。
絶句ーー。王としての、そして人の親としての矜持が、激しく血を流している。
エルサという少女が成し遂げたマルドゥーク帝国からの魔石鉱山接収。それは我が国の財務官が誰一人として成し遂げられなかった、国家の歴史を塗り替えるほどの超弩級の功績だ。
だが、その裏で、彼女は「受け止めても大丈夫、この優しさを信じても良いのかもしれない」と思う、まさにその手前で、常に過去の亡霊(前世のネグレクトと、今世のベルトラン公爵家による冷酷な搾取)に引き戻され、孤独に震えていた。
「アルベルト……! 私、あのベルトランという家族を、そして彼女を小娘呼ばわりしたあの令嬢の家を、ただの奴隷鉱山送りなどという生ぬるい処分で終わらせることなど、断じて認めませんわ……!」
エレオノーラが扇を床へ叩きつけ、その美しい顔を高潔な怒りで紅潮させていた。
「ああ、分かっている。あの者たちは、ただ一人の天才から搾取したのではない。前世から誰にも愛されず、顧みられず、それでも健気に世界へ優しさを返そうとしていた、あまりにも尊き魂を磨り潰し、その心を玩具のように弄んだのだ。……これは、ガルディニアの絶対の理に対する、明白な反逆行為だ」
私は立ち上がり、執務室の窓から、エルサが閉じこもる離宮を鋭い眼光で見つめた。
ベルトラン公爵家、そして我が国の愚かな貴族ども。彼らが『小娘ごとき』と蔑んだあの娘(こ)は、今やガルディニアの王宮のシステムを、厨房から侍女の勤務体系、果ては国家の外交戦略に至るまで、その圧倒的な知性で完璧に調律してみせた。
それほどの大恩人でありながら、彼女はまだ「自分はコストだ、負債だ」と、自らの脳内で冷たい数式のバグに苦しんでいる。
【王妃視点】尽きぬ賛美と、絶対的な包囲網の誓い
「なんて悲しくて、愛おしい娘なのかしら……」
私は読み終えた宮廷医官の手記を愛おしそうに胸に抱きしめ、流れる涙を拭おうともしませんでした。
前世での冷酷な孤独。今世での、実の家族による残酷な精神的虐待。
「優しくされるのが怖い、これは罠だ」と怯えながらも、目の前で困っている侍女や料理人を見捨てられず、その神がかった頭脳を無自覚にフル回転させて周囲を救ってしまう。そんな不条理なまでの優しさを持った女の子が、この世にいるなんて。
ゼオンがあそこまで狂ったように彼女を溺愛し、執着し、部屋に閉じ込めてまで「何もするな」と命じた理由が、今なら痛いほどに、痛いほどによく分かります。あの不器用な息子は、そうして力ずくで彼女の脳内の計算式を止めなければ、エルサが自らを擦り切れるまで働かせて壊れてしまうと、本能で察していたのね。
「カイル。今すぐ、我が国が持ちうる最高位の栄誉と、誰も異論を挟むことのできない『絶対的な王太子妃』としての席を、国を挙げて用意しなさい」
私は眼鏡の位置を直すカイルへ、ガルディニアの王妃として、そして一人の母親としての、絶対的な命令を下しました。
「エルサがどれほど拒もうとも、これは彼女が成し遂げた正当な功績(付加価値)に対する、我がガルディニア王族からの『義務としての支払い』です。彼女の賢すぎる頭脳が、善意を罠だと疑うのなら……『これは罠ではなく、貴女が国を救ったことに対する、大人の冷徹な等価交換のビジネス(席の付与)です』と、彼女の納得する数式に翻訳して、無理矢理にでもその玉座の隣へ座らせてやりなさい」
「……御意にございます、王妃様。実に見事な解法です」
カイルが、その眼鏡の奥で、かつてないほど冷酷で、同時に深い歓喜に満ちた笑みを浮かべて一礼しました。
「あの方の凍てついた心を溶かすのは、ゼオン殿下のあの重すぎる執着の熱。そして、あの方の歪められた理屈をねじ伏せるのは、私どもの用意する、完璧なる絶対の序列。ーーこれより、我が国の真の至宝を、世界で一番安全で、逃げ場のない幸福の檻へ迎えるための、最大の盤面(おぜんだて)を始めましょう」
国王夫妻、そして側近のカイル。
ガルディニアの最高権力者たちの意志は、今、完全に一つへと統合されました。
愛されなかった異邦の天才を、今度は世界中の誰よりも甘やかし、その壊れた心を、絶対的な肯定と溺愛によって完全に修復するための、国家規模の包囲網が静かに、けれど完璧に始動したのです。
ゼオン殿下がエルサ様の後を追って、嵐のように私室を退出された後。
残された室内には、重厚な沈黙と、先ほど明かされた「二つの人生」への怒りの残滓が漂っていました。
私は手元に残った、もう一冊の、先ほどよりもさらに厚みを増した黒表紙の報告書を、中央のテーブルへと静かに滑らせました。
「陛下、王妃様。……先ほどのものはエルサ様の『過去』の大枠ですが、こちらにございますのは、エルサ様が我がガルディニアの王宮に足を踏み入れてから今日に至るまでの『全行動記録』。そして、彼女が我が国へ保護された直後、数日間にわたる生死の境を彷徨った『昏睡状態時の医療・精神解析報告』にございます」
アルベルト陛下とエレオノーラ王妃様は、息を呑みながらその極厚の書類を手に取られました。ページをめくるごとに、お二人の表情は血の気が引き、言葉を失うほどの戦慄と絶句へと変わっていったのです。
【カイル視点】「優しさ」という名の、壊れた防壁の正体
私が提出した報告書には、エルサ様という天才が、いかにしてその圧倒的な功績を「無自覚」に、かつ「強迫観念」のままに遺してきたかが克明に記録されています。
最初の頁に並ぶのは、彼女が我が国に保護された直後、精神と肉体の限界を迎えて陥った【三日三晩の昏睡状態】の際の、宮廷医官たちによる克明な手記です。
『宮廷医官長による精神・肉体解析:エルサ嬢は、高熱に浮かされながらも、うわ言で奇妙な言葉を繰り返していた。「進捗が遅れて申し訳ありません」「私が悪いの、だから捨てないで」「誰もいない、寒い」……。
彼女の肉体には、慢性的な栄養失調と、過度の精神的圧迫による魔力回路の萎縮が見られる。前世におけるネグレクト(誰にも顧みられず、愛されず、ただ搾取の一途を辿るしかなかった環境)の記憶が、魂の根底に焼き付いている。彼女にとって、他者から与えられる「善意」や「優しさ」は、快いものではなく、むしろ【裏にある致命的な罠】、あるいは【後から法外な代償を請求される恐怖の対象】として処理されている可能性が極めて高い』
「……そんな、そんな事って……!」
エレオノーラ王妃様が、最初の数ページで早くも涙を零し、胸を掻きむしるようにして書類を見つめられました。
「カイル、では彼女は、ゼオンがどれほど熱烈に注いできたあの愛や、私たちが用意したこの怠惰で贅沢な生活に……喜ぶどころか、恐怖していたというの?」
「左様にございます、王妃様。エルサ様の脳内は、贅沢を享受すればするほど『いつかこの代償として、自分の命や尊厳を丸ごと奪われるのではないか』というパニックを起こしていたのです。ですが、彼女の哀しいところは、その恐怖の最中にあっても、相手の善意を強く拒絶したり、跳ね除けたりすることができない『優しさ』を持ち合わせている点にあります。拒絶してしまえば、その瞬間に『役に立たない悪女』として捨てられるーーその恐怖ゆえに、怯えながらも、与えられた居場所で必死に付加価値を産み出そうとしてしまうのです」
書類の中盤には、彼女が王宮のあちこちで遺した、凄まじくも痛々しい「功績」の数々が文官や侍女たちの証言とともに並んでいました。
『財務部次官の証言:エルサ様は保護されて数日後、まだ顔色の悪い状態で、執務室の隅にあった放置案件(数年分の複雑な財務の歪み)をご覧になり、わずか一時間足らずで完璧に修正されました。私どもが驚嘆して感謝を伝えると、彼女は怯えたように震えながら『お役に立てて良かったです。これで、ここにいても許されますか……?』と仰ったのです。私どもは、自分たちが彼女に労働を強要してしまったのではないかと、激しい罪悪感に駆られました』
『内宮侍女長・マルタの証言:エルサ様が私どものシフト表や動線を数分で最適化し、侍女の労働時間を二時間削減した際、王妃様がお洋服をプレゼントされました。その夜、エルサ様は部屋で一人、そのドレスを抱きしめながら『こんなに素晴らしいものを頂いてしまった。明日からは、今日の三倍は成果を出さなければ、きっと明日には追い出されてしまう』と、夜通し泣きながら国の経済予測書を書き上げていらっしゃいました。彼女にとって、施しを受けることは、死刑宣告を待つような恐怖だったのです』
【国王視点】覇王の絶句、そして浅はかなる公爵家への憤怒
私は、手元に並ぶ数々の報告書、そして先日のマルドゥーク帝国との交渉記録を睨みつけたまま、喉の奥が引き裂かれるような激しい怒りに震えていた。
絶句ーー。王としての、そして人の親としての矜持が、激しく血を流している。
エルサという少女が成し遂げたマルドゥーク帝国からの魔石鉱山接収。それは我が国の財務官が誰一人として成し遂げられなかった、国家の歴史を塗り替えるほどの超弩級の功績だ。
だが、その裏で、彼女は「受け止めても大丈夫、この優しさを信じても良いのかもしれない」と思う、まさにその手前で、常に過去の亡霊(前世のネグレクトと、今世のベルトラン公爵家による冷酷な搾取)に引き戻され、孤独に震えていた。
「アルベルト……! 私、あのベルトランという家族を、そして彼女を小娘呼ばわりしたあの令嬢の家を、ただの奴隷鉱山送りなどという生ぬるい処分で終わらせることなど、断じて認めませんわ……!」
エレオノーラが扇を床へ叩きつけ、その美しい顔を高潔な怒りで紅潮させていた。
「ああ、分かっている。あの者たちは、ただ一人の天才から搾取したのではない。前世から誰にも愛されず、顧みられず、それでも健気に世界へ優しさを返そうとしていた、あまりにも尊き魂を磨り潰し、その心を玩具のように弄んだのだ。……これは、ガルディニアの絶対の理に対する、明白な反逆行為だ」
私は立ち上がり、執務室の窓から、エルサが閉じこもる離宮を鋭い眼光で見つめた。
ベルトラン公爵家、そして我が国の愚かな貴族ども。彼らが『小娘ごとき』と蔑んだあの娘(こ)は、今やガルディニアの王宮のシステムを、厨房から侍女の勤務体系、果ては国家の外交戦略に至るまで、その圧倒的な知性で完璧に調律してみせた。
それほどの大恩人でありながら、彼女はまだ「自分はコストだ、負債だ」と、自らの脳内で冷たい数式のバグに苦しんでいる。
【王妃視点】尽きぬ賛美と、絶対的な包囲網の誓い
「なんて悲しくて、愛おしい娘なのかしら……」
私は読み終えた宮廷医官の手記を愛おしそうに胸に抱きしめ、流れる涙を拭おうともしませんでした。
前世での冷酷な孤独。今世での、実の家族による残酷な精神的虐待。
「優しくされるのが怖い、これは罠だ」と怯えながらも、目の前で困っている侍女や料理人を見捨てられず、その神がかった頭脳を無自覚にフル回転させて周囲を救ってしまう。そんな不条理なまでの優しさを持った女の子が、この世にいるなんて。
ゼオンがあそこまで狂ったように彼女を溺愛し、執着し、部屋に閉じ込めてまで「何もするな」と命じた理由が、今なら痛いほどに、痛いほどによく分かります。あの不器用な息子は、そうして力ずくで彼女の脳内の計算式を止めなければ、エルサが自らを擦り切れるまで働かせて壊れてしまうと、本能で察していたのね。
「カイル。今すぐ、我が国が持ちうる最高位の栄誉と、誰も異論を挟むことのできない『絶対的な王太子妃』としての席を、国を挙げて用意しなさい」
私は眼鏡の位置を直すカイルへ、ガルディニアの王妃として、そして一人の母親としての、絶対的な命令を下しました。
「エルサがどれほど拒もうとも、これは彼女が成し遂げた正当な功績(付加価値)に対する、我がガルディニア王族からの『義務としての支払い』です。彼女の賢すぎる頭脳が、善意を罠だと疑うのなら……『これは罠ではなく、貴女が国を救ったことに対する、大人の冷徹な等価交換のビジネス(席の付与)です』と、彼女の納得する数式に翻訳して、無理矢理にでもその玉座の隣へ座らせてやりなさい」
「……御意にございます、王妃様。実に見事な解法です」
カイルが、その眼鏡の奥で、かつてないほど冷酷で、同時に深い歓喜に満ちた笑みを浮かべて一礼しました。
「あの方の凍てついた心を溶かすのは、ゼオン殿下のあの重すぎる執着の熱。そして、あの方の歪められた理屈をねじ伏せるのは、私どもの用意する、完璧なる絶対の序列。ーーこれより、我が国の真の至宝を、世界で一番安全で、逃げ場のない幸福の檻へ迎えるための、最大の盤面(おぜんだて)を始めましょう」
国王夫妻、そして側近のカイル。
ガルディニアの最高権力者たちの意志は、今、完全に一つへと統合されました。
愛されなかった異邦の天才を、今度は世界中の誰よりも甘やかし、その壊れた心を、絶対的な肯定と溺愛によって完全に修復するための、国家規模の包囲網が静かに、けれど完璧に始動したのです。



