凍てついた令嬢は、異国の太陽に抱かれる

第三十七話:覇王の歩度、氷解の兆し(ゼオン視点)
地下の特設審問室を出て、エルサの部屋へと続く長い回廊を歩いていた。
俺のブーツが刻む冷徹な足音だけが、静まり返った王宮に響いている。拳にわずかに残る、あの羽虫を踏み潰した時の不快な感触は、歩を進めるごとに俺の胸の中でどす黒い焦燥感へと変わっていった。
「ーー殿下。先ほどカイル様に提出したものと、全く同じ報告書の写しにございます」
背後に音もなく現れた密偵が、一枚の折り畳まれた羊皮紙を恭しく差し出してきた。
無言でそれを取り上げ、歩みを止めることなく視線を走らせる。かつて戦場で、数多の敵の陣形を一瞬で読み解いてきた俺の眼だ。そこに書き連ねられたフランチェスカの「巧妙な嘘」の全容を、速読して完全に把握するのに、三秒もかからなかった。
ーーその瞬間、俺の足はピタリと止まった。
回廊の大きな窓から、沈みかけた夕陽が血のような赤色で俺を照らしている。
手の中の紙を握りつぶす。みしりと、紙が悲鳴を上げた。
「……義務、だと? プライドを満たすための演劇だと?」
胸の奥から、怒りを通り越して、己の不甲斐なさに対する激しい憤りが込み上げてきた。
あの羽虫がエルサに吹き込んだのは、そんな安い、反吐が出るほどくだらない論理のバグ(エラー)だった。
だが、恐ろしいのはその嘘の質だ。事実を巧妙に歪め、いかにも『大国の王太子がやりそうな合理的判断』として組み立てられている。普通の人間なら一笑に付すかもしれない。だが、前世の孤独な二十五年と、今世の冷酷な搾取によって、「役に立たねば捨てられる」という冷たい防壁を築くことでしか生きられなかったエルサの頭脳は、今、これを必死に『解こう』としてしまっているのだ。
今なお、あの薄暗い自室で。
冷え切った指先でペンを握り、俺を信じたいという心と、騙されてはならないと警告する大人の理性の狭間で、狂ったように数式を巡らせているエルサの姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
どれほど国を救う天才的な頭脳を持っていようと、俺の前ではただの一人の愛しい女なのだ。その彼女が、俺の与えた温もりさえも「計算違い(エラー)」かもしれないと、一人で怯え、泣きそうになりながら答えを探している。
(待っていろ、エルサ)
俺は再び、今度は先ほどよりもずっと速い歩度で、床を鳴らして歩き出した。
お前がどんなに強固な「大人の計算式」で俺を拒絶しようと、あの羽虫がどんな歪んだノイズを遺していこうと、すべて関係ない。
俺がお前に向けるこの狂おしいほどの執着も、誠実な想いも、義務や誇りのために命じることなど絶対に不可能な、この世で最も不条理で、最も絶対的な熱量(あい)だ。
回廊を曲がり、最愛の至宝が閉じこもる部屋の扉が目の前に迫る。
その冷たいバグを、お前のその賢すぎる頭脳ごと、今すぐ俺の体温で完全に溶かし尽くして上書きしてやる。