第三十話:渇いた喉、届かぬ声(キリアン・エルサ視点)
【元婚約者視点】涸れ果てた泉の跡で
「ーーない。どこを探しても、あの数式の続きがないんだ……!」
ガルディニア王国の国境へと向かう馬車の中。私、キリアン・ルミナスは、血走った目で古い羊皮紙の束をあさっていた。
それはエルサが我が領地の治水事業のために残していった、膨大な計算書の数々だ。
彼女がいた頃は、私はただ完成された書類にサインをし、成果を自分のものとして周囲に誇るだけでよかった。だが、彼女が消え、ガルディニアによる経済制裁が始まって初めて、私は自分がどれほど無能であったかを突きつけられている。
堤防の補強予算の算出方法も、関税の複雑な控除システムも、エルサという「頭脳」がなければ、ただの呪文にしか見えない。
「キリアン様ぁ、馬車が揺れて頭が痛いですわ。どうして私たちが、あんな日陰者の姉様のために、わざわざ大国まで出向かなければならないのです?」
対面に座るステラが、高級な扇子で顔を仰ぎながら不満げに唇を尖らせる。
その愛らしいはずの顔が、今の私には酷く退屈で、愚かに見えた。
「黙れ、ステラ! お前がエルサを『無能の悪女』だと唆したから、私は……!」
「な、なんですって!? お父様もキリアン様も、姉様を道具みたいに扱って悦に入っていたくせに!」
馬車の中に醜い罵り合いが響く。
私たちは、いつでも湧き出ると思っていた豊潤な泉を、自らの手で埋めてしまったのだ。涸れ果てた砂漠の中で、ただ喉の渇きに震えながら、私たちは大国ガルディニアへと引きずり出されていく。
【エルサ視点】静寂のチェスボード
同じ頃、私はガルディニア王宮の温室で、ゼオン様とチェスに興じていた。
「チェックメイトです、ゼオン様。あと三手で、貴方のキングは行き場を失います」
私が淡々と告げると、ゼオン様は悔しがるどころか、「やはりお前の頭脳は最高だな」と、嬉しそうに私の手をとって指先に口づけを落とした。
かつてなら、このような「勝利」の後は、相手のプライドを傷つけないための完璧な言い訳を用意しただろう。だが、この国で過ごすうちに、私は自分の能力をありのままに示しても、誰にも脅かされないという奇妙な安心感を覚え始めていた。
「エルサ。明日、お前の生まれ故郷から、見窄らしい客人が到着する」
ゼオン様が、私の指を弄びながら低く冷徹な声で言った。
その紺色の瞳の奥に、かつて戦場を支配したであろう覇王の冷酷な光が宿るのを、私は見逃さなかった。
「客人、ですか。……ベルトラン公爵家の方々ですね」
私の大人の頭脳は、即座にその意図を理解した。ガルディニアが仕掛けた経済制裁の規模からして、あの国が音を上げるのは時間の問題だと思っていた。
「会いたくなければ、お前は部屋で寝ていていい。俺がそいつらの首を撥ねて、庭の肥やしにしてやっても構わん」
「いえ、ゼオン様。私も、謁見の間に同席いたします」
私は静かに、けれど明確に告げた。
前世の二十五年、そして今世。私を縛り、使い潰した過去の亡霊たち。彼らと対峙した時、今の私はどのような感情を抱くのだろうか。それを、私自身の目で確かめたかった。
私の強固だった氷の城壁は、すでにこの男の熱によって崩れ去りつつある。その変化を証明するためにも、私は逃げずに、彼らの前に立つことを選んだ。
【元婚約者視点】涸れ果てた泉の跡で
「ーーない。どこを探しても、あの数式の続きがないんだ……!」
ガルディニア王国の国境へと向かう馬車の中。私、キリアン・ルミナスは、血走った目で古い羊皮紙の束をあさっていた。
それはエルサが我が領地の治水事業のために残していった、膨大な計算書の数々だ。
彼女がいた頃は、私はただ完成された書類にサインをし、成果を自分のものとして周囲に誇るだけでよかった。だが、彼女が消え、ガルディニアによる経済制裁が始まって初めて、私は自分がどれほど無能であったかを突きつけられている。
堤防の補強予算の算出方法も、関税の複雑な控除システムも、エルサという「頭脳」がなければ、ただの呪文にしか見えない。
「キリアン様ぁ、馬車が揺れて頭が痛いですわ。どうして私たちが、あんな日陰者の姉様のために、わざわざ大国まで出向かなければならないのです?」
対面に座るステラが、高級な扇子で顔を仰ぎながら不満げに唇を尖らせる。
その愛らしいはずの顔が、今の私には酷く退屈で、愚かに見えた。
「黙れ、ステラ! お前がエルサを『無能の悪女』だと唆したから、私は……!」
「な、なんですって!? お父様もキリアン様も、姉様を道具みたいに扱って悦に入っていたくせに!」
馬車の中に醜い罵り合いが響く。
私たちは、いつでも湧き出ると思っていた豊潤な泉を、自らの手で埋めてしまったのだ。涸れ果てた砂漠の中で、ただ喉の渇きに震えながら、私たちは大国ガルディニアへと引きずり出されていく。
【エルサ視点】静寂のチェスボード
同じ頃、私はガルディニア王宮の温室で、ゼオン様とチェスに興じていた。
「チェックメイトです、ゼオン様。あと三手で、貴方のキングは行き場を失います」
私が淡々と告げると、ゼオン様は悔しがるどころか、「やはりお前の頭脳は最高だな」と、嬉しそうに私の手をとって指先に口づけを落とした。
かつてなら、このような「勝利」の後は、相手のプライドを傷つけないための完璧な言い訳を用意しただろう。だが、この国で過ごすうちに、私は自分の能力をありのままに示しても、誰にも脅かされないという奇妙な安心感を覚え始めていた。
「エルサ。明日、お前の生まれ故郷から、見窄らしい客人が到着する」
ゼオン様が、私の指を弄びながら低く冷徹な声で言った。
その紺色の瞳の奥に、かつて戦場を支配したであろう覇王の冷酷な光が宿るのを、私は見逃さなかった。
「客人、ですか。……ベルトラン公爵家の方々ですね」
私の大人の頭脳は、即座にその意図を理解した。ガルディニアが仕掛けた経済制裁の規模からして、あの国が音を上げるのは時間の問題だと思っていた。
「会いたくなければ、お前は部屋で寝ていていい。俺がそいつらの首を撥ねて、庭の肥やしにしてやっても構わん」
「いえ、ゼオン様。私も、謁見の間に同席いたします」
私は静かに、けれど明確に告げた。
前世の二十五年、そして今世。私を縛り、使い潰した過去の亡霊たち。彼らと対峙した時、今の私はどのような感情を抱くのだろうか。それを、私自身の目で確かめたかった。
私の強固だった氷の城壁は、すでにこの男の熱によって崩れ去りつつある。その変化を証明するためにも、私は逃げずに、彼らの前に立つことを選んだ。



